第7話「危険な取引と見えざる守護」
ルナ・フレグランスの経営は、驚くほど順調だった。星降り林檎のお菓子はすっかり王都の名物となり、今では生産が追いつかないほど。私は次に、この領地のもう一つの宝である「月光花」という花を使った化粧品開発に着手していた。
月光花は、夜にだけ咲く不思議な花で、肌を美しくする効果があると言われている。この花の精油を抽出し、同じく領内で採れる良質な蜜蝋と混ぜ合わせれば、きっと素晴らしい保湿クリームができるはず。
『これなら、お菓子よりもっと大きな利益が見込めるわ!』
慰謝料計画は、第二段階へと移行した。
しかし、事業が大きくなるにつれて、新たな問題も出てくる。月光花は希少で、特定の商人からしか仕入れることができない。その商人は、あまり評判の良くない人物だという噂だった。
「奥様、あの男と取引するのは危険です。やめておきましょう」
エマは強く反対した。でも、他に選択肢はなかった。私はどうしても月光花が欲しかったのだ。
「大丈夫よ、エマ。私一人で行くわけじゃないもの。マルクさんも一緒だから」
私はエマを説得し、マルクさんと共に、その商人が待つという裏路地の倉庫へ向かった。いつも通り、質素な町娘の姿で。
倉庫の中は薄暗く、カビ臭い匂いがした。約束の商人、ボルコフと名乗る男は、蛇のように粘つくような瞳で私をじろじろと見ながら、不気味な笑みを浮かべていた。
「ほう、あんたがルナ・フレグランスの本当の主かい。思ったより、いい女じゃねえか」
マルクさんが私の前に立ち、庇うように言う。
「ボルコフさん、取引の話を」
「まあ、そう焦るなよ。まずは、こっちの条件を聞いてもらおうか」
ボルコフが提示してきた月光花の値段は、法外なものだった。それだけではない。彼は、ルナ・フレグランスの利益の半分をよこせと言い出したのだ。
「そんな…! 話が違います!」
マルクさんが抗議するが、ボルコフはせせら笑うだけ。彼の背後には、屈強な護衛たちが数人控えている。完全に、足元を見られている。
「この条件を飲めないってんなら、この話はなしだ。だが、この街で商売を続けられると思うなよ?」
それは、紛れもない脅迫だった。私は悔しさに唇を噛んだ。ここで引き下がるわけにはいかない。でも、こんな無茶な要求は飲めない。
どうしようかと追い詰められた、その時だった。
ドンッ! と、倉庫の扉が大きな音を立てて開かれた。
「何者だ!」
ボルコフの護衛たちが身構える。そこに立っていたのは、先日、市場で私を助けてくれた、あの黒い服の男性だった。彼だけではない。同じような黒服の男たちが、あっという間に倉庫を包囲していた。
「ボルコフ商会に、不正取引及び脅迫の疑いで、騎士団から査察が入る。大人しくしてもらおうか」
黒服の男性が、懐から騎士団の紋章を取り出して見せる。その声には聞き覚えがあった。確か、リアム様の側近の、ギルバートさん…?
『な、なんでこの人がここに!?』
ボルコフたちは顔面蒼白になり、なすすべもなく取り押さえられていった。
あっけにとられる私とマルクさんを残し、ギルバートさんはこちらに一瞥もくれず、部下たちに指示を飛ばしている。その姿は、いつもの穏やかな執事のそれとは全く違っていた。
混乱する頭で、私は一つの結論にたどり着く。
『やっぱり…! 公爵家は、私の行動を全部監視しているんだわ!』
私が危ない商人と取引しようとしたから、それを阻止するために現れたに違いない。公爵家の体面を汚すなという、リアム様からの無言の圧力。
ああ、なんてこと。私のせいで、公爵家と騎士団まで動かしてしまった。
私はマルクさんと共に、ほうほうの体でその場を逃げ出した。
屋敷に戻ると、エマが泣きそうな顔で私を迎えてくれた。
「奥様、ご無事で…! ギルバート様から、全て伺いました。なんて無茶を…!」
「ごめんなさい、エマ。心配をかけて…」
その夜の夕食は、今までで一番気まずいものになった。
リアム様は、まるで氷像のように、一言も発さなかった。ただ、その碧眼だけが鋭い光を放ち、私を捉えて離さない。
『お前の軽率な行動が、どれだけの手間をかけさせたと思っている』
彼の視線が、そう物語っていた。
私はもう、彼の顔をまともに見ることができなかった。俯いて、味のしないスープをただ口に運ぶ。
彼の監視は、私の商売を邪魔するためじゃなかった。私の行動を制限し、私が公爵家の名前を汚さないようにするためのものだったんだ。
そう考えると、胸が苦しくなった。彼にとって、私は本当に、厄介なお荷物でしかないのだろう。
それでも、私は諦めない。月光花は手に入らなかったけれど、別の方法を探すまでだ。
彼に、私が必要ないというのなら、私だって、彼に頼らずに生きていく道を見つけなければ。
その強い決意とは裏腹に、私の心には、冷たい風が吹き抜けていた。
彼が私を危険から守るために、どれだけの神経をすり減らしていたかなんて、愚かな私は、まだ気づくことができなかった。
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