第2話「氷の仮面と燃える独占欲」

 指先が、微かに震えていることに気づいた。主寝室のドアノブに手をかけたまま、俺は深く息を吐き出す。これから、セレスティアが待つ部屋へ入らなければならない。俺の、たった一人の妻が。


 十年だ。


 庭園で泣いていた小さな少女に出会ってから、十年という歳月が流れた。栗色の髪に、太陽の光を閉じ込めたような金色の瞳。涙に濡れながらも、俺を見上げたその顔を、忘れた日は一日もなかった。


 彼女がセレスティア・クローデルだと知った時、俺は運命を信じた。成長するにつれ、彼女の噂はいくつか耳に入ってきた。明るく、聡明で、誰からも愛される少女。その評判を聞くたびに、胸が高鳴ると同時に、どす黒い嫉妬が渦巻いた。


 彼女の微笑みは、俺だけのものにしたかった。


 クローデル伯爵家の経営が傾いていると知ったのは、半年前。これは神が与えた好機だと、俺はすぐに行動を起こした。あらゆる手段を使い、彼らが俺に助けを求めざるを得ない状況を作り出した。やり方が汚いと罵られても構わなかった。何よりも、彼女を手に入れることが優先だった。


 そうして、今日、セレスティアは俺の妻になった。純白のドレスをまとった彼女は、想像を絶するほど美しく、神々しささえ感じさせた。誓いの口付けの瞬間、俺は全ての理性を総動員して、彼女をその場で貪り食いたいという衝動を抑え込んだ。


 触れた唇は驚くほど柔らかく、甘い香りがした。それだけで、俺の奥底で眠っていた獣が目を覚ましそうになる。だから、すぐに離れた。これ以上触れていれば、聖なる誓いの場で、醜い独占欲を晒してしまうところだった。


 晩餐会でも、彼女から目が離せなかった。他の男たちが彼女に送る視線の一つ一つが、俺の神経を苛立たせる。俺の妻だ。俺だけのものだ。誰にも見せるな。誰とも話すな。その美しい姿は、俺だけが見ていればいい。


『ああ、駄目だ。このままでは…』


 俺は自分の感情をコントロールするのが、昔からひどく苦手だった。特に、セレスティアが絡むと、冷静さを保つのが難しい。この十年、彼女への想いを募らせすぎた。今、この想いをそのままぶつければ、きっと彼女は怯えてしまうだろう。だから、仮面を被るしかない。冷徹な「氷の公爵」という、世間が作り上げた仮面を。


 主寝室のドアを開ける。柔らかな明かりの中、彼女がベッドの端に座っていた。薄絹のネグリジェ姿はあまりに煽情的で、俺は再び呼吸を整える必要があった。彼女が俺の存在に気づき、びくりと肩を揺らす。その怯えたような仕草が、俺の胸を締め付けた。


『違う。そんな顔をさせたいんじゃない』


 だが、どうすればいいのか分からない。優しい言葉のかけ方など、十年前に忘れてしまった。彼女を前にすると、言葉が喉に詰まって出てこない。だから、俺は練習してきた言葉を、感情を殺して口にした。


「勘違いするな。これはあくまで家と家の契約だ」


 心とは裏腹の、冷たい言葉。彼女の金色の瞳が、悲しそうに揺らぐのが見えた。やめろ、と心の中の俺が叫ぶ。傷つけるな。愛していると、そう言え。


 だが、口が勝手に動く。


「互いに干渉はしない。プライベートに踏み込むことも、互いの時間を束縛することもない。そして…愛を期待するな。俺が君を愛することはない」


 言ってしまった。最悪の言葉を。彼女を絶望の淵に突き落とす、最低の嘘を。


 本当は、君の全てに干渉したい。君の時間の全てを俺で埋め尽くしたい。世界中の誰よりも、君を愛している。心の底から、狂おしいほどに。


 彼女が震える声で「承知いたしました」と答えた時、俺は自分の心に刃を突き立てられたような痛みを感じた。俯いた彼女の表情は見えない。だが、その華奢な肩が小刻みに震えているのが分かった。


 俺は、自分の手で、愛する女を傷つけている。


 初夜の義務を果たさなければならない。彼女をこの腕に抱く。それは十年越しの夢だった。だが、現実はあまりにも残酷だ。彼女は人形のように硬直し、俺から目を逸らし続けていた。温かいはずの肌が、ひどく冷たく感じられた。


 早く終わらせてやろう。これ以上、彼女を苦しませたくない。衝動のままに貪るのではなく、ただ、義務として事を終えた。


 すぐに背を向ける。彼女の泣き顔を見てしまったら、きっと俺の仮面が崩壊してしまうから。俺の独占欲と嫉妬心が、この場で全てを台無しにしてしまうだろうから。


『すまない…すまない、セレスティア』


 心の中で何度謝罪しても、彼女には届かない。隣から、衣擦れの音と、押し殺したような小さな嗚咽が聞こえてくる。俺の胸は張り裂けそうだった。


 どうして、俺はこんなにも不器用なのだろう。ただ「愛している」の一言が、言えないばかりに。


 やがて、彼女の寝息が聞こえ始めた頃、俺はゆっくりと振り返った。涙の跡が残る頬、少しだけ赤くなった鼻。それでも、彼女の寝顔は天使のように愛らしかった。


 そっと、彼女の栗色の髪に触れる。指先に絡まる柔らかな感触に、愛しさが込み上げてくる。


『俺の女神。俺だけの、セレスティア』


 誰にも渡さない。たとえ神にさえも。


 君が俺から離れようとするのなら、その足を鎖で繋いででも、この城に閉じ込めてしまおう。君が他の男に微笑むのなら、その男をこの世から消し去ろう。


 これは契約だと言ったな。ああ、そうだ。君の全てを、俺だけのものにするための、終身契約だ。


 俺は彼女の額に、そっと口付けを落とした。懺悔と、そして決して揺らぐことのない執着を込めて。


 この燃え盛るような想いが、ただの勘違いで彼女を苦しめていることにも気づかずに。俺は暗闇の中、ただひたすらに、愛しい妻の寝顔を見つめ続けていた。

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