第2話 姫巫女の眼差し

翌朝の教室は、ざわめきで満ちていた。

春の光が差し込む窓辺、女子たちの集まり、男子の小声。

いつも通りの賑やかな風景──のはずだった。


蒼月凛はその中心から少し外れた席に座り、

昨日の“熱”が残っていないことを確認するように胸へ手を当てた。


(……落ち着いてる。昨日の停滞感とは違う)


進化因子の脈動は、完全に沈静化していた。

けれど──。


(あの子……銀色の髪の……)


胸にかすかに残る不思議な“静けさ”。

彼女を見た瞬間、一度だけ熱が消えた感覚が忘れられない。


その時、がらりと扉が開き、担任が入ってきた。


「今日は転校生が来ている。前に」


ざわめきが一段階上がる。


扉の陰から姿を現したのは──

昨日、凛を見つめていたあの少女だった。


淡い銀髪が光を受けてやわらかく揺れる。

凛は一瞬、息を止めた。


「白音(しらね)夕奈です。よろしくお願いします」


澄んだ声が教室に響く。

その瞬間、男子の半分が息を呑み、女子が目を奪われた。


完璧な礼。

しかしその瞳には、クラス全体ではなく──

凛だけを真っ直ぐ射抜く強い意志があった。


(……なんで俺を?)


担任が席を指し示す前に、夕奈は一歩踏み出した。


「席は……蒼月くんの隣がいいです」


教室中が静まり返った。

凛の心臓が跳ねる。


「お、おい……いきなり距離近っ……」


「蒼月ってそんな目立つやつだっけ?」


周囲は騒然としているが、

夕奈は凛の反応を一切気にしない。

ただ、そこで微笑んだ──

どこか悲しげで、でも決意に満ちた笑み。


(こんな……初めて会う人に向ける表情じゃない)


凛は混乱の中、その横顔を見つめた。


教科書を開く仕草。

ページを押さえる手の細さ。

静かに呼吸する柔らかい曲線。


だが凛の視線に気づくと、夕奈は小さく囁いた。


「……蒼月くん。昨日のこと、話したいです」


凛の全身が強張る。


「昨日?」


「ええ。“あなたの力”のことです」


凛は思わず机を握りしめた。

周りの教室のざわめきが遠のく。


夕奈は淡々と、それでいて優しい声で続ける。


「あなたは……“原初(オリジン)”ですよね?」


その言葉は、凛にとって封印していた棺の蓋を開ける呪文のようだった。


(なんで……知ってる)


凛が動揺を隠せないでいると、

夕奈は視線を黒板に向けつつ、微かに囁いた。


「ごめんなさい。授業中に話すことじゃありませんよね。

……放課後、時間をください。命を賭けてでも伝えたいことがあります」


その言い方は本気だった。

彼女の声音の奥には“覚悟”があった。


凛は喉が乾くのを感じながら頷くことしかできなかった。


──午前中の授業は、ほぼ何も頭に入らなかった。


夕奈は静かに凛の隣に座り続けた。

目が合うたびに胸の“熱”が消える。

不気味ではない。むしろ安らぎに近い沈静。


(なんだ……この感覚……)


凛は彼女の横顔を盗み見るたびに、

自分の進化因子が“抑え込まれている”ような妙な感覚を覚えた。


昼休みになると、夕奈は静かに言う。


「ここでは話せません。監査局が来ていますから」


「……監査局?」


夕奈は校門の方を見つめた。

鋭い眼差し。


「能力特別監査局。昨日のあなたの戦闘反応を探しています」


凛の心臓が跳ねた。


夕奈はさらに小声で続ける。


「放課後、屋上で。ここより安全です」


──放課後。


凛が屋上へ向かうと、

夕奈は柵にもたれ、静かに風を受けていた。


その姿はまるで、この世界に溶けるような透明感があった。


夕奈はこちらを向き、深く頭を下げる。


「蒼月凛くん。あなたは──

戦えば戦うほど強くなる“原初能力者(オリジン)”です。

間違いありません」


凛は無意識に後ずさる。


「どうして……知ってる」


夕奈は胸に手を当て、真剣な表情で言った。


「私は“姫巫女(ひめみこ)”。

原初の暴走を止めるために生まれた血の一族です。

あなたの進化因子を抑えられるのは、私だけ……」


その言葉に嘘はなかった。

夕奈の瞳は震えながらも、凛をまっすぐに捉えていた。


風が吹き、夕奈の髪が揺れる。

その匂いが、凛の胸の熱をさらに冷ましていく。


(本当に……俺の力を抑えている……)


夕奈は凛に一歩近づき、

自分の指先をそっと彼の手の甲に触れさせた。


瞬間、凛の進化因子は “完全に沈静” した。


胸の苦しみが、嘘のように消える。


「……なんだ、これ……」


夕奈の表情がわずかに緩む。


「これが、私の血族の力です。

あなたが“化け物”になる前に、私はあなたを止めるためにここにいます」


夕奈は凛を見つめ、言葉を継ぐ。


「蒼月くん──

あなたは、人として生きる価値があります。

私はそのために来ました」


凛は唇を震わせた。


この少女は、昨日初めて会ったはずなのに。

なぜここまで自分をまっすぐ見つめてくるのか。

なぜ自分の“人間性”を信じてくれるのか。


夕奈は、自分の命を賭けても彼を救う覚悟を持っていた。

それが、たった数分の会話から痛いほど伝わる。


凛は言葉を失いながら、

ただその瞳の奥に宿る“揺るぎない決意”に見入っていた。


その時、夕奈の表情が急に硬くなった。


「……来ています。牙城(がじょう)の気配」


風が止み、空気が冷たく震えた。

屋上の扉の向こうから、かすかな“歪み”が聞こえてくる。


夕奈が凛の袖を掴む。


「蒼月くん、離れないで。あれは──あなたを狙ってる」


扉がゆっくりと、きしみながら開いた。


暗がりの中から、黒いコートに身を包んだ数人が姿を現す。


「……見つけたぞ。原初能力者」


夕奈の手が強く凛の服を掴む。


凛の胸の奥で、

抑えられていた熱が、再び脈を打ち始めた。


運命の歯車は、もう止められない。

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