夏草の海へ(改訂版)

三上芳紀(みかみよしき)

第一章(遠い山へ)

一.

都会に生まれ育った友喜が、山深い伯父の家で暮らしたのは、十六歳の時だった。高層ビルとマンションばかりが建ち並ぶ街に生まれ育った彼が、十六歳の夏休みに、その村で暮らした。彼は、それまで街を出たことがなかった。学校の校庭には、人工芝が敷き詰められていて、その下は、道路と同じ硬いアスファルトが敷かれている、そんな街だった。友喜は、中学の時、体育の授業中、校庭で転んだ。その時、顔を強く打ちつけて、左の犬歯が欠けた。彼が校庭はアスファルトではなく、本来、土なのだと知ったのは、その村で過ごした夏休みのことだった。村で過ごすきっかけになったのは、彼の母が病気をしたことだ。母は結核になった。結核は、昔の病気だと思っていたら、そうではなかった。父は、セールスの仕事をほっぽり出して、母のために走り回った。入院するのも、特別な病院にしか結核病棟がなかった。だから、母は、家から随分離れた病院に入院した。

その時の父のうろたえぶりを、友喜は忘れない。父は母を愛していた。だから、看病に専念すると彼に言った。実際のところ、隔離病棟に入院している母を看病したくても、何もできなかった。でも、父は母に全身全霊を捧げる覚悟だった。そこで、困ったことが起きた。毎日、病院に通い続ける父にとって、友喜は邪魔な存在になった。現実に、父から邪魔者扱いされたわけではない。でも、ほったらかしにされた。彼としては、その時、色々、父に言いたい気持ちもあったけれど、父の気持ちを尊重した。彼も、もう高校生だったから。


父が病院に行ったきり帰って来ない家から、彼は高校に通学していた。母の病状は思ったより悪かった。そこで、父は、父の兄、つまり、友喜の伯父に電話をした。そして、夏休みに入ったばかりのある日、伯父が彼を迎えに来た。伯父は一克といった。

「俊克から、夏休みの間、お前を家に一人にしておけないって、電話があってな」

友喜は伯父の言葉を聞いて、黙って荷物をまとめた。この家とも、しばらくお別れだ。彼はそう思った。


伯父の運転する車に乗って父の生まれた家に向かった。遠い山の中の小さな村だった。父の生家は、古い日本家屋だった。家業は、林業で、“木こり”だった。友喜は、父の生まれ故郷の村に、子どもの頃、遊びに訪れたことがあった。その時、伯父が木こりをしていると聞いたが、分からなかった。ある時、伯父が、木こりとは何かを実践して見せてくれた。伯父は、彼を裏山に連れて行った。そして、ロープを一本の高い木の幹に巻きつけた。ロープは金具によって体に固定されていた。だから、伯父と木はロープによって結ばれた。伯父は先のとがった金具を靴の上からつけていた。驚くべきことに、それだけの装備で、伯父は、高い木をするすると登り始めた。ロープを器用に操り、金具の先を木に食い込ませて登った。高い木の真ん中ぐらいのところで、伯父はとまった。その姿は、木にぶら下がっているのでもなかった。ロープを背もたれのようにして、伯父は、心地よく木にとまって休憩している、そんな風に見えた。

「どうだ?」

伯父は、下にいる友喜に感想を聞いた。

「キツツキみたい」

彼は上にいる伯父に向かって叫んだ。

伯父は笑った。

そして、先ほどとは逆の順序で、今度は、するすると木を降りて来た。

子どもの頃の友喜には、伯父がまるで手品師のように思われた。高校生になった今でも、あの時の伯父を思い出すと手品師のように思う。


夜遅く、伯父の家に着いた。山の中の村は灯りがなく真っ暗だった。伯母が迎えに出てきた。伯父夫婦には、二人息子がいたが、村には仕事がないから、二人とも遠方で働いている。将来的にも、もう帰って来ることはないようだった。だから、大きな家には、伯父と伯母しかいなかった。

伯母の作ってくれた夕飯を食べ、風呂に入るとすぐ横になった。二階の長男の部屋を使うことになった。窓際に置かれたベッドに寝た。窓からは都会と違い真夏でも、涼しい風が入ってきた。夜空には大きく星が輝いていた。


階下では伯母が何か手仕事をしているようだった。カタカタという音が二階まで聞こえてくる。友喜は、その音を聞きながら、父と母のことを考えた。

父は伯父と違っておおらかな性格ではない。何事にも妥協のできない性格だった。学校を卒業すると、村で一生を終えるのは嫌だと都会に出た。その気持ちは友喜にも分かる。だが、都会に出て、働き始めた父は、仕事が気に入らないと言ってすぐに辞めた。また働き始めるけれど、すぐに辞める……。この繰り返しだった。友喜が覚えているだけでも、十回は仕事を変わっている。父なりに我慢しようと努力はしている。けれど、知らない人から見れば、ただこらえ性のない人間だ。そして、友喜も知らない人と同じ目で父を見ていた。そんな父にとって母の祥江は、たった一人の理解者だった。母は父に対して何一つ文句を言わない。諦めているのではなかった。いつか上手くいくと父を信じているのだった。友喜からすると、驚くべき楽天家としか思えないのだが、そんな母だからこそ父は救われている。

「夏休みをこの村で過ごすのも仕方がない。父さんには母さんしかいないんだから」

友喜は自分に言い聞かせるように呟いた。

それから昼間の疲れが出て、深い眠りにつくまで僅かな時間しかかからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る