第12話【悪女は壁ドンされる。】

朝食を終えたばかりのリビングには、

焼き立てのパンの香りと、薄く残った紅茶の甘い香りが漂っていた。


窓から射し込む穏やかな陽光が、

赤い絨毯の上に四角い光を静かに落としている。

柔らかい光が揺れるたび、空気までゆっくり温まっていくようだった。


フィアリーナは優雅にソファへ腰掛け、

蒸気の立つ紅茶を指先に乗せながら、ロバートの報告へ耳を傾けていた。


ロバートは大きな書類束を抱え、

まだ痛みの残る体を無理に伸ばすようにして立っている。


「――以上が、帝都各地における“魔物侵入対策”の最新状況でございます、お嬢様」


落ち着かない声とともに、書類を一枚めくる。


「騎士団は現在、王命により外敵防衛のため、

魔物侵入に備えて外周の森や国境付近へ討伐隊を派遣しているのだとか」


「……魔物を?」


フィアリーナの指がぴたりと止まった。

紅茶の香りすら遠のいていく。


(魔物?

国内へ“侵入”……?)


胸の奥に、冷たいものがひとつ落ちた。


誰も知らない。

帝国内全土には、フィアリーナが聖女として張った“強固な聖結界”が覆っていることを。


それは百年前の前任の聖女では到底及ばぬほど強く、細密で――

外界からの魔の侵入など、一切許されるはずがない。


なのに、なぜ討伐隊が組まれ、

“魔物が入る前提”で話が進んでいるのか。


(……何かおかしい。

結界に穴なんて、あるはずがないのに)


ロバートは声をさらに潜めた。


「最近は王室騎士団も騒がしく……

“結界に不備があるのでは”という噂まで流れているようでして」


「……不備? 私の結界に?」


思わず、素の声音が漏れる。


(あり得ない。

考えられない。

私は隙を作るような張り方はしていない。)


ロバートは、重たい空気を飲み込むようにして次を告げた。


「そして昨夜……国王からのお達しとして、

“ヴェルティナージュ公爵家からも選抜人員を派遣せよ”との命令が届きました」


フィアリーナは静かに紅茶を置いた。


「……で? お父様はなんと?」


ロバートは苦い顔で肩を落とした。


「“馬鹿に付き合っておれるか”と仰っておりましたが……

王命には逆らえませんので……最終的に、

『選抜はフィアリーナに任せる』と」


「……私に?」


紅茶の香りが、急に遠くなる。


選抜を誤れば自分が聖女だということが世間にバレてしまう。

だからこそ――

選ばれる者を慎重に決めなければならない。


(……また面倒なことになったわね)


心の中で溜息をつく。


そんなとき――


リビングの入口から軽やかな足音が近づいた。


「フィアリーナ様?」


その声に、フィアリーナとロバートは同時に振り返る。


アルトだった。


白シャツに黒のジャケット。整った所作で歩み寄り、

静かな青の瞳が二人へ向けられる。


フィアリーナは――瞬間、心臓が跳ねた。


(しまった……!

聞かれてはいけないことを……)


アルトの視線は、書類の束へと向けられた。


「……どうして、フィアリーナ様が選抜を?」


純粋な疑問の響き。


嘘を嫌う瞳が、真正面から突き刺さる。


フィアリーナは、貼りつけるように笑った。


「あ、あは……お父様からの信頼が厚いのよ、きっと」


ロバートも慌てて後に続く。


「そ、そうでございます!

お嬢様は当家随一のご判断力をお持ちで……!」


(ロバート……苦しいわよ、その擁護……)


けれどアルトは、

二人の挙動不審さに気づく様子もなく、

柔らかな表情で言った。


「僕に……何か手伝えることはありますか?」


フィアリーナは、呼吸が止まった。


(て……手伝えること?

……そうだわ、アルト様を“外へ”出せば――)


頭が高速で回り出す。


□ アルトは聖属性が極めて強い。

 ドラゴンでも出ない限り、単独で難なく討伐できる。

□ 聖女の加護を与えなくても安全に帰ってこられる。

□ 結界の秘密が漏れる心配もない。

□ しばらく距離が置ける。

□ 過剰なアタックを受けずに済む。

□ ……心が、少しラクになる。


(ご、ごめんなさいアルト様……

あなたのこと、嫌いじゃないの。むしろ、その……好きだけど……

でも、聖騎士は……危険すぎるのよ……!)


フィアリーナは、息を整え、静かに顔を上げた。


「……アルト様」


「はい」


「国外遠征へ――

私のために、行ってくださらない?」


陽光の中で、その言葉はひどく静かに落ちた。


アルトの瞳が、ふっと揺れる。


「……遠征に?」


青い光が、微かに震えるように揺らめいた。


「えぇ、アルト様なら安心して任せられる……と」


フィアリーナがそう告げた瞬間だった。


ふと――視線が絡まった。


まるで時間がゆっくり濾過されるように、

アルトもまた淡い微笑を浮かべ、

真っ直ぐ彼女を見つめ返していた。


テーブル越しの光が二人の距離を淡く照らし、

その距離は、親密な恋人同士のように近い。


胸が――跳ねる。


(な、なによ急に……そんな目で見ないでよ……!

心臓がもたない……!!)


しかし想定外は、ここからだった。


アルトが、ゆっくり歩み寄ってくる。


「ですが……ひとつ、条件がございます」


「じょ……条件?」


唇が震え、息が縮んだ。


アルトは身を屈め、

耳へかすめるような距離で囁く。


「言ったでしょう……

片時も離れたくない、と」


その低い声音に、背筋がぞくりと震えた。


ごくり。 


(そばにいたいとは聞いたけれど、離れたくないは聞いてないわよ!?)


フィアリーナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

生唾を飲み込む音が、やけに大きく響く。


アルトの青い瞳が真剣に細められる。


「ですから……

無事に帰ってきた暁には――」


息を吸う気配。

熱を帯びたまなざし。


「寝室を共にしていただけると……お約束ください」


「え、えぇッ!?

む、む、む、無理よ無理!!

な、なな何言ってるのアルト様!?!?」


反射的に後ずさり、

フィアリーナの顔が瞬時に真っ赤に染まる。


だがアルトは、微動だにしない。


「では……この話はなかったことに」


「えぇ……じゃあ……別の人に頼むわ……」


少し震える声で言い返すと、

アルトの表情にかすかな影が落ちた。


「……それはそれで、悲しいですね」


伏せられた青の瞳。

その切なさが妙に色っぽくて、胸がちくりと痛む。


(あぁあああああああ!!!

なんでこうなるのよ!?

どうしろって言うのよおおお!!)


◆◇◆


「……はぁぁ……」


フィアリーナは頭を抱えながら、

廊下をずんずん歩いて詰所へ向かっていた。


(そうよ、悩む必要なんてないわ。

第一騎士団は全員、私の加護を受けている。

誰を遠征へ出しても安全に決まってるじゃない……!

アルト様を出す必要も、慎重に選ぶ必要も……何も……!)


詰所の前にいた騎士へ声をかける。


「第一騎士団はどこ?」


その騎士は、少し気まずそうに頭を下げた。


「そ、それが……

フィアリーナ様の母君、リアーナ様が王子殿下の留学に同行されるため、

公爵様が第一騎士団の全員をそちらへ派遣されまして……」


「………………あ」


思い出してしまった。


思い出したくなかった事実を。


(そういえば……そうだったぁぁぁぁ!!!)


目の前がぐらつく。


そこへ、すぐ隣から静かな声が落ちた。


「僕も、婚約披露パーティーでお会いできると期待していたのですがね。

残念でした。王子殿下の“急な留学”が決まってしまって……」


「……っ!?」


ぎょっとして振り返った瞬間――

アルトが、当たり前のようにそこにいた。


(い、いつの間に!?!?

どこから現れたの……!?)


そして。


次の瞬間――

フィアリーナの背中は“壁”にそっと押しつけられていた。


彼はフィアリーナの前にそっと歩み寄ると、

逃げ道をふさぐように片腕を伸ばした。


壁に触れた手は、まるで羽根を置くようにそっと添えられる。


金髪がさらりと頬へ触れる。

距離が近すぎる。

温い吐息が肌をかすめる。


「な、なにを……っ」


アルトは声を低く落とした。


「誤解されていますよ、フィアリーナ様」


「ご、誤解って……どの……?」


「僕は何も――

“取って食べよう”なんて思っていません」


耳へ触れるような囁き。

ふっと甘く笑った気配。


「ただ、寝室を共にしたいと言っているだけですよ」


(それが危険だってばーーーーーー!!!)

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