2000年の箱庭

鶴ち

第一章「少年の夜」

第一章:少年の夜


夕暮れの東京は、昼よりも声が多い。

紫色の空とネオンの明かりが鼓動のように瞬き、誰かの笑い声と電車のブレーキが混ざり、路上に吐き出された熱気が煙のように漂う。

街は眠らないというより、ただ目を閉じられないだけだ。


コンビニの看板はまだ青一色で、

24時間営業という言葉が「時代の最先端」みたいに誇らしげだった。

公衆電話は駅前にまだ立っていて、

そこに寄りかかる若者たちは、鳴らない着信を待つ代わりにタバコの煙だけを吐き出していた。


SNSなんてほぼまだなかった。

その頃の孤独には通知音がなかった。

誰も自分の寂しさを拡散できず、

孤独はいつも体の内側で腐っていった。



葵は、今日もその光の層を縫うように歩いていた。何かを求めて。

孤独よりまだ大勢でいるほうが闇よりも世界が明るく感じる。

肩から下がった古いカメラは彼の心臓の鼓動に合わせて揺れ、レンズのキャップがコートのボタンに当たるたびに乾いた音を鳴らす。

その音が、彼の存在を確かにする唯一の証拠だった。

名前を呼ばれることは、もうほとんどない。


歩道橋の上からは、山手線の緑色の帯が都市を一周する輪のように滑っていく。

あの車両のどこかで、誰かが眠り、誰かが泣き、誰かが死にたいと思っている。そしてその誰かの帰りを待っている誰かもいる。

葵はそこに何の感情も抱かない。

ただ、自分がその「誰か」に混ざらずに済んでいるという事実だけを確認する。


ファインダーを覗く瞬間だけ、東京は静かになる。

ファインダーに囲まれた夜の東京。ビルはただの矩形に、車のヘッドライトは線に、ネオンの光は肉眼より綺麗に映る。

すべての人間は、ただの背景になる。

シャッターの音は、心の奥に沈んだ鉛を一瞬だけ持ち上げる——まるで息継ぎのように。


写真だけが、葵に「許可」を与えた。

喜んでもいい、泣いてもいい、壊れてもいい、と。

人はいつも理由を求める。

「誰が君を好きなのか」「何のために頑張るのか」「将来何になりたいのか」

その問いは、葵にとって呪文だった。


唯一の安息は、東京の夜に埋め込まれた静寂の断片。

終電がなくなり人がいなくなった隣ホーム、駐車場の外灯に寄り添う蛾、終電を逃したサラリーマンがタクシーに手をあげる一秒前の空白。

そこにだけ、都市は心を許した。


葵は口を開かない。

語る必要がないからだ。

語れば誤解され、誤解されれば期待され、期待されれば裏切る。これが人間の縮図だ。

それを繰り返すうちに、彼は一つの真理を得た。


人の価値は死ぬ前にしか、生きている間しか理解されない。


だから彼は、死んだあとも生き続ける方法を探していた。

夜の街路灯の下で影が二重に伸びるたびに、葵は思う。

 「僕はまだ、これからだ。」


静寂の中、玄関のドアが微かに軋み、夜の空気が家に滲み込む。

葵は靴を脱ぎながら、「ただいま」を言わない。

言ったところで、誰も返事をしないからだ。


廊下の奥から、親のいびきが壁を震わせるように響いている。

その音に心が削れるわけでも、救われるわけでもない。

ただそこにある生活の騒音として、葵の意識を素通りしていく。


部屋に戻ると、パソコンが机の上で彼を待っていた。

葵はゆっくり椅子に腰をおろし、撮った写真を開く。

撮った写真を一枚ずつ確認するたびに、自分の内側を覗き込むような感覚が走る。

水たまりに反射するネオン、空に映る電線の影、走る車のブレーキランプ──

世界の端にだけ、宿る孤独を閉じ込めていく。


その静けさを破るように、父の低い声が響いた。


「葵、行ってくるぞ」


返事をしないまま視線だけドアへ向ける。

すると天井の色に気づく。夜明けのオレンジが溶けて、天井の色と混じり始めていた。


「お前、進路どうするんだ。そろそろ答え出してくれよ」


命令のような言い方だった。

父の言う“答え”は大学か就職しかなかった。

デジカメで食うなんてのは酔っ払いの冗談でしかなく、映像は趣味、写真は道楽。

それ以上を望む人間は、失敗者か夢想家と呼ばれた。

父にとって将来は“答えるもの”で、迷う余地はないのだろう。

そこに恐怖も希望も、息苦しさも存在しない。


その言葉で、葵は改めて自分の人生を振り返る。

自分の生き方は撮って、歩いて、眠って、翌朝また撮って──

そこに“誰か”の影は一度もきたことはなかった。


誰かに求められた記憶はない。

誰かのために頑張ったこともない。

葵はただカメラのためにバイトをし、

カメラのために明日を生きている。


だが周りの同級生は違った。


「彼女の誕生日のため」

「大学受験のため」

「部活の大会のため」


それぞれ目的を抱いて走っている。


なのに──葵の目的は自分自身しかない。

その事実が胸の奥で腐り、

“自分は人として壊れているのではないか”という疑念へ変わる。


孤独はやがて自己嫌悪に形を変え、

それは誰にも吐き出せない泥のように溜まり続けた。


泣き言を言える友達はいない。

心を預けられる人間もいない。

人に話せばまた誤解されると知っているからだ。


葵は立ち上がり、静かにカメラバッグを開く。

レンズとボディを詰め込み、ドアを閉め家は背景に溶けた。

葵は逃げるように街へ飛び出した。


彼が求めるのは絶景ではない。

日常の、誰も気づかない一秒間だ。


朝の斜光が差し込む電車の窓。

アスファルトに散る落ち葉が季節の移行を囁く瞬間。

その上を無表情に通過する人々の足音。


そこにだけ、葵は心を許した。


そして気が付けば空は茜色に染まり、

駅の階段を駆け下りる革靴の音がせわしくなる。

昨日と同じように、夜のネオンが行き場のない感情を照らす。


まるで昨日の巻き戻しのように、玄関のドアが微かに軋み部屋に戻る。


葵は目を閉じる。

そして明日への視野ではなく、ただひとつの願いだけが胸に残る。


「誰かに、必要とされたい。」

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