第06話 「量子倫理力学」
案内されたのは、ホテルの35階にあるジュニアスイートだった。
広々としたリビングに、上質なファブリックのソファ。間接照明が柔らかく照らす空間は、貧乏学生の澪には目が眩むほどだ。
「あ、あの……マツリさん。私、こんな高いお部屋代、払えませんよ?」
澪が恐縮して玄関で立ち尽くしていると、マツリは靴を脱ぎ、備え付けのスリッパに履き替えながら笑い飛ばした。
「何を今更。とことんやるって言ったでしょう? 空間の余白は、思考の余白よ。狭い部屋じゃ、大きなアイデアも窮屈になっちゃうから。遠慮しないで」
マツリは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、二人分のグラスに注ぐと、ソファに深く身を沈めた。その優雅な仕草は、ここが自分の家であるかのように自然だ。
澪もおずおずと対面のソファに座り、先ほどのノートをテーブルに広げ。
途端に、空気が変わる。
ここはもう、くつろぐためのホテルの一室ではない。世界の深層を記述するための、最前線の実験場だ。
「……さて、続きをしましょうか」
マツリの声が、先ほどまでの艶やかさを潜め、研究者そのものの冷徹な響きを帯びる。
「まず、
「観測者の要因によって関数の内実が変わるというのは、納得できます。でも、そのハミルトニアンについてなんですが」
次に切り込んだのは、澪だ。
「読み返していて、気になる点がありました。この対称性項 H_faiとネゲントロピー項 H_neg、一般には『非可換』ですよね? つまり、公平を守ろうとすると秩序創出が不確定になり、秩序を優先すると公平性が揺らぐ……まるで『ハイゼンベルクの不確定性原理』みたいなトレードオフが発生します」
澪は顔を上げ、マツリを射抜くように見つめた。
「これ、数理的には競合する条件を同時に満たせない『フラストレーション』として扱えますけど、倫理的にはどう解釈します? 『公平さと秩序は両立しない』って、私たちが数学的に宣言してしまうことになるんですよ」
これは倫理学における永遠の難問だ。
それに、マツリは少し俯いて考えたあと、顔を上げた。
「ここで不確定性原理は、むしろ『倫理を安易に順位付けしないための安全装置』と捉えるべきではないかしら。そして、その多様性ともいうべき揺らぎが摂動として時間発展を駆動する。……量子系で言うなら、フロケ型かな?」
マツリの思考速度は、レストランの時よりもさらに加速して、空中の見えないホワイトボードに数式を書くように指を動かしていく。
「待ってください。フロケ駆動を考えるなら、『社会的な周期性』を仮定していくことになります。でも現実の社会じゃ
澪の声も更に熱を帯びる。
「つまり、AIがいきなり『極端な過激派』に
澪は一気にまくし立てた。自分たちの理論の穴が見えてきたからだ。
「それに良く考えたら、先ほどの『味覚位相』も個人の主観なら、集団での合意形成を阻害するノイズになりかねない。『私は苦いけどあなたは甘い』って状態で、どうやって
そしてそのまま、切実な声で続ける。
「ここ、数理的には部分的な結合が散在する『エンタングルメント・エントロピーの増大』として記述できますけど、社会学的に言えば『分断の固定化』ですよ。私たちが作ったこのモデル、下手に実装すると、ネット上の対立を加速させる『エコーチェンバー増幅装置』になっちゃうかもしれない!」
部屋に静寂が落ちた。
澪は肩で息をしていた。言ってしまった。せっかく生み出したばかりの私達の理論に、自分から致命的なケチをつけた。
だが、マツリは怒っていなかった。むしろ、深く満足したように目を閉じると、ミネラルウォーターを一口飲む。
「さすが、澪さんね。自分の産んだ子供のような理論にも、健全な懐疑を手放さない」
マツリは立ち上がり、窓際へと歩いた。夜景を背にした彼女のシルエットが、逆光の中でどこか神々しく見える。
「澪さん。あなたが懸念しているのは、システムのなかで異なる主観同士が干渉せず、孤立して純化してしまうことよね。なら、こうしましょう。構造を入れ子にして、『分断された秩序』の位相因子を e^iθ 型にする。つまり、円環または螺旋的な発展に整形するの」
「螺旋……?」
澪は、ぽかんとした様子でマツリの言葉を必死に咀嚼する。
「ええ。対立するAとBがあったとして、平面で見れば行ったり来たりしているだけでも、立体的に見れば『螺旋階段』を登っているように記述できる。一周回って戻ってきたとき、同じ場所に見えても、高さという次元が上がっている。いわゆる『弁証法的な止揚』を、トポロジカルな履歴として数式にするの。そうすれば、分断は『固定された壁』にならず、次の次元への『跳躍台』になるわ」
澪の頭の中で、巨大な歯車がガチリと噛み合った音がした。
トポロジカル量子場理論。履歴を”
争いをなくすのではなく、争った歴史ごと編み上げて、より丈夫な紐にするのだ。
「そうか。量子状態が粒子をどの順序で交換したかに依存するエニオンの履歴記述とも対応できるから、トポロジカルな発展としてまとめられるかも……!」
澪の手が震える。
見える。完成形が。
それはもはや、単なるAIのアルゴリズムではない。人間社会が何千年もかけて解こうとしてきた”倫理”という難問に対する、ひとつの数理的回答にだってなるかもしれない!
さらに、マツリはとんでもないアイデアを口にする。
「そして、AIが過激派に飛躍してしまう対策としては……忘却をアルゴリズムとして具体的に実装してはどうかしら。注目を管理する『アテンション・メカニズム』は、逆から見れば何を見ないか決めることよ。つまり、熱エネルギーの散逸による冷却制御になるから、インパルス入力である炎上や一時的な感情を高周波のノイズとして自然に冷却……つまり『忘れる』ことができるわ」
「……素晴らしい、です!」
感嘆の声を漏らす、澪。
二人はそのまま、何かに憑かれたように書き続けた。数式が、図形が、言葉が、ノートの上で激しく交わり、融合していく。
すっかり夜が更けた頃、ようやくペンの音が止まる。
テーブルの上には、一冊のノートが完成していた。
『量子倫理力学 – スペクトル表現とトポロジカル履歴を備えた倫理ダイナミクス –』
澪は脱力して、ソファに深く沈み込んだ。
手はインクで汚れ、髪は乱れているが、心はかつてないほど晴れやかだった。
「……できちゃった」
それは、澪が夢見ていた”完全な公正さ”とはだいぶ違っていた。
完全ではない。迷い、揺らぎ、矛盾を抱えながら、それでも前に進もうとする。
まるで、人間のように。
澪の呟きを聞きながら、マツリは眩しそうにノートを見つめていた。
「ふふ。このノートが、このあとどんな運命を巻き起こしていくのか、それはわかるわけもないけれど」
そして、ノートの表紙を指でなぞる。
三層構造で定義された倫理。状態層で”今”を捉え、スペクトル層で”応答”を解析し、履歴層で”経路”を記憶する。
それは完璧に見えた。だが同時に、澪の胸の奥には、まだ消えない小さな棘が残っていた。
理論は完成した。では、これを動かすのは誰になるのか?
「マツリさん。これ、誰が最初に実装するんですか? 今の量子コンピュータじゃ、まだ……」
それを聞いたマツリは、優しく微笑んだ。
「そうね。理論はできても、応用はまた全く別。でも……」
そして、部屋に備え付けられていた受話器を取る。
「まずは、ここまでやりきった自分たちを褒めましょう? ほら、祝杯のルームサービスを頼むわ。ケーキとシャンパンでいい?」
「……ふふっ、そうですね! まずは、自分たちへのご褒美にしましょうか」
澪の顔には、疲労よりも深い満足そうな笑みが浮かんでいた。
そして、東京の夜景を見下ろしながら、世界でたった二人だけの、ささやかな祝宴が始まるのだった。
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