第22話 私はヒーローなんかじゃなかった ~泥だらけの屋上で、仮面を割り合う~

 鉄の扉が閉まる音がした。

 兄さんの重い足音が遠ざかり、闇に消えていく。


 屋上に再び、静寂が戻った。

 風は先ほどより少し弱まったが、空気は湿度を増し、重く肌にまとわりつく。


 私は埃まみれのコンクリートに座り込み、両手を後ろについて、漆黒の夜空を見上げた。


 頭の中は真っ白で、身体は先ほどの爆発的な出力の反動で脱力し、指一本動かせない。


『お前の目に、「未央」という人間は、本当に映っていたのか?』


 その言葉が棘となって脳に突き刺さっている。抜くことも、飲み込むこともできない。


 私は首を巡らせ、横を見た。


 未央はまだ、引き上げられた時の姿勢のまま、両腕を抱えてうずくまっていた。


 髪は乱れて顔に張り付き、あの高価なワンピースは無惨に裂け、全身埃だらけだ。


 彼女は震えていた。

 あの夏の夜、花火大会の河川敷で見つけた時と全く同じ、小刻みで、抑えきれない震え。


 あの時、私はこれを「弱者の救難信号」だと解釈した。

 可哀想で、私がいなきゃ生きていけない子だと思った。


 でも、一度だって考えたことがあっただろうか。

 彼女を震わせているその「原因」が、実は私自身だったなんて。


 ゆっくりと、意図的に見ないようにしていた記憶の断片が、走馬灯のように蘇る。


 言葉にしなければ。

 吐き出さなければ、窒息してしまう。


「……ねえ、未央」


 私は口を開いた。

 声は枯れていたが、不思議と落ち着いていた。


 未央がビクリと肩を跳ねさせ、おずおずと顔を上げた。

 月明かりの下、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見える。

 念入りなアイメイクは溶け出し、目尻に黒い滲みを作って、まるで雨に打たれたピエロのようだ。


「私たちが初めて会った日のこと、覚えてる?」


 私は彼女を見つめ、口の端を少しだけ歪めた。自嘲の笑みだ。


「あの日、私はヒーローになんてなるつもりじゃなかったんだ」


 他人の昔話でもするように、私は淡々と語り出した。


「ただ隣のクラスに課題を出しに行っただけで、機嫌が悪かったの。そしたらあんたたちが騒いでるのが見えて、うるさいな、ムカつくなと思った。それだけ」


「教室からあんたを引っ張り出した時、正直、顔さえまともに見てなかった」


「私にとってあんたは……なんていうか、ショーウィンドウの中の陶器の人形みたいだった。綺麗だけど、触ったらすぐ壊れそうで、厄介な代物」


「だから思ったの。『あーあ、拾っちゃったからには少し面倒見てやるか。壊れたらもったいないし』って」


 未央が口を開きかけた。「凛ちゃん……そんな……」


「最後まで聞いて」


 私は遮り、言葉を続けた。


「それから、あの花火大会」


 私は笑った。今度は、本物の苦味が混じった笑いだった。


「知ってる? あの日、私は本当は友達と映画に行く予定だったの。でもそいつがドタキャンして、せっかくの土曜の夜に一人になるのが癪だったから、あんたにLINEしたんだ」


「ごめんね。あんたは私の『予備スペア』だった」


 私は自分の醜さを隠さなかった。


「あんたがあんなに本気にするなんて思ってなかった。私がサンダル履きであんたの高級な浴衣を見た時……正直、引いたんだ」


 私は彼女を見た。


「その時思ったのは、『うわ、重っ』だった」


「私はあんたを対等なデート相手として見てなかった。『暇つぶしに付き合ってくれる便利な友達』としか思ってなかった」


「……言わないで」未央が耳を塞いだ。大粒の涙がこぼれ落ちる。「言わないで……凛ちゃん……」


「でも、あれが全ての間違いの始まりだったんだよ」


 私は夜空を見上げ、語るのをやめなかった。


「あの時、私がちゃんとあんたの目を見て、『未央、すっごく綺麗だよ。でも私は適当に遊びたかっただけだから、次はもっと楽な格好でいいよ』って言えてたら、違ったのかな」


「『私はあんたの重荷になりたくないし、あんたも私を過大評価しないで。サンダルで笑い合える関係になろうよ』って……」


「でも、言わなかった」


「私は無視することを選んだ。あんたの崇拝する視線が心地よくて、優越感に浸ってたんだ」


「あのソーダもそう」あの炎天下、息を切らして走ってきた姿を思い出す。


「あんたが汗だくになって買ってきてくれた時、私が最初に感じたのは『うざい』だった。『プレッシャーかけんなよ』だった」

「でも言わなかった」

「嘘くさい笑顔で『ありがとう』って言って、心の苛立ちを無視した」


 私は未央を見た。眼差しを少しだけ柔らかくする。


「本当はね……痛々しかったんだ」


「未央、分かる? あんたが肺が破れるくらい走ったり、私に嫌われないように媚びへつらったりするのを見て……苦しかった」


「あんたの汗も、痛みも、あのソーダ一本の価値なんかよりずっと重かった」


「言うべきだったんだ」


「『未央、もういいよ。水なんかより、あんたが隣で休んでてくれる方がいい』って。あるいは『欲しいなら一緒に買いに行こう』って」


「でもしなかった。私は『尽くされる側』の椅子にふんぞり返って、あんたの犠牲を当然のように受け取って、そのくせ心の中であんたを疎ましく思ってた」


「雨の日もそう」


「『息が詰まるから一人になりたい』って正直に言えばよかった。くだらない嘘をついて、あんたを一晩中雨の中に立たせるんじゃなくて」


「あんたが高熱出した時……私、誰よりも自分を憎んだよ」


「あのキーホルダーだって……」


「止めるべきだった。『あんなプラスチックゴミ、なくしたってどうでもいい! 大事なのはモノじゃなくて、あんた自身でしょ!』って」


「『あんたがいれば、絆はある』って」


「そんなカッコいいセリフ、言えたはずなのに言わなかった。泥の中で発狂するあんたに付き合って、心の中で呪ってただけ」


 私は喋り続けた。


 心の底に沈殿していた、姉御肌の仮面の下に隠していた本音を、決壊したダムのように吐き出し続けた。


 私は未央を見た。


「だから、兄さんの言う通りだ」


「私の目には、本当の意味での『未央』なんて映ってなかった」


「私が見てたのは、『私を崇拝してくれるファン』であり、『私がいなきゃダメな弱者』であり、『私の自尊心を満たしてくれる道具』だった」


「私はあんたの不安を利用した。あんたの愛を利用した」


「あんたを怪物にしたのは……私だ」


 未央は呆然と私を見ていた。


 初めて見る人間であるかのように。

 無敵のヒーローでも、完璧な優しいお姉さんでもない。

 ただの、少し利己的で、見栄っ張りで、鈍感で、それでも不器用に何かを取り戻そうとしている、普通の女子高生を。


 いつの間にか。


 頬に冷たいものが触れた。


 ポツリ。


 雨だ。


 夜空から細い雨糸が降り注ぎ、コンクリートを濡らし、静かな音を立て始めた。


 雨は未央の涙と混ざり合い、崩れたメイクを洗い流し、この狂気と絶望に満ちた屋上を浄化していく。


 未央は何も言わなかった。

 ただじっと私を見つめ、唇を震わせ、何かを確認しようとしているようでもあり、雨の中で迷子になっているようでもあった。


 私たちは二人ともずぶ濡れになった。


 だが今回、私は逃げなかった。「面倒くさい」とも思わなかった。


 ただ静かにそこに座り、髪を濡らす雨を感じながら、私が突き落とし、そして私が引き上げたこの少女と向き合った。


 もしも。


 もっと早く、この言葉を言えていたら。


 私たちの出会いがもっと普通で、ただの喧嘩して仲直りする普通の友達だったら……。


 雨の幕の向こうに、あり得たかもしれない未来が見えるような気がした。



──────────────────────


【あとがき:ヒーローの敗北宣言】


作者「あんなにカッコつけてた凛ちゃんが……。自分の弱さと醜さを全部認めましたね」


霜月「『自己開示ディスクロージャー』だ。 人間関係の歪みを正す唯一の方法は、優位性を捨て、自分の弱点も相手に見せることだ。 凛はようやく、『完璧な姉』という鎧を脱ぎ、『ただの人間』として未央の隣に座った」


作者「雨の中、二人きり。 凛の懺悔を聞いた未央は、一体どう答えるのか。 彼女の『崇拝』は失望に変わるのか、それとも……?


それでは、また明日(19:07)にお会いしましょう!」

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