第19話 「永遠の愛」

「……やめてッ!!」


 私は身を裂くような絶叫を上げた。恐怖で声が裏返り、喉が引きつる。


 思考より先に身体が動いた。私はコンクリートの床に膝をつき、彼女に向かって必死に手を伸ばした。


「言うこと聞くから! なんでもするから!」


 涙で視界が歪む。鼻水も涎も垂れ流しで、プライドも自由もかなぐり捨てた。

 死を前にして、そんなものは何の意味も持たない。


「見るよ! これからは未央だけを見る!」私は泣き叫んだ。声は掠れ、懇願は壊れていた。


「友達も作らない、部活もやめる、誰とも喋らないから! 私の時間は全部未央にあげる! 未央が行きたいところならどこへだって行く!」


「だから……お願い、未央……降りてきて! お願い!」


 私は完全に降伏した。

 自分の未来も、人格も、全てを差し出した。彼女が一歩下がってくれるなら、それでよかった。


 しかし。


 未央は動かなかった。


 胸を切り裂くような私の懇願を前にしても、彼女は眉一つ動かさなかった。


「……凛ちゃんは、嘘つきだね」


 彼女の声は相変わらず優しく、聞き分けのない子供をあやすようだった。


「無理だよ、そんなの」


 彼女は微笑んで首を振った。


「だって凛ちゃんは太陽だもん。太陽が、私一人だけを照らすなんて無理だよ」


「たとえ今そう約束しても、明日、明後日、来月……いつか必ず、凛ちゃんは疲れて、私が重くなって、逃げ出したくなる」


「その時が来たら……私はまた、暗闇に捨てられるんだ」


 彼女は目を閉じ、吹き荒れる夜風を深く吸い込んだ。まるでそれが甘い蜜であるかのように。


「そんな未来はいらない」


「いつか腐ってしまう愛なんていらない」


「私が欲しいのは……永遠なの」


「永遠……?」私は呆然とした。


「そう、永遠」


 未央が開眼した。その瞳の奥で、ぞっとするような暗い光が明滅している。


「凛ちゃん、知ってる? 人間の記憶なんて、すごく曖昧で、頼りないんだよ」


「生きてる人間は、いつか忘れられちゃう。どんなに仲が良くても、十年後には凛ちゃんは結婚して、新しい家族ができて、私のことなんて忘れちゃう」


 彼女は両手を広げた。重心が、手すりの外側へと傾き始める。


「でも……『死人』は違うよ」


「もし私がこうして、凛ちゃんの目の前で死んだら……」


「凛ちゃんの網膜に、最後に焼き付くのが私の落ちていく姿なら……」


「凛ちゃんの服に、私の血が飛び散ったら……」


 彼女の頬に、病的で、恍惚とした紅潮が浮かび上がった。


「私は、凛ちゃんの一生の傷痕になれる」


「凛ちゃんは今夜の風の音を一生覚えてる。私のスカートの揺れも、私の名前も、死ぬまで忘れられない」


「目を閉じるたびに私を見る。他の誰かを愛そうとするたびに、私の影が現れて囁くの――あなたは私のものだったんだよって」


「それこそが……永遠に変わらない愛だよ!」


「いや……やめて……」私は首を振った。歯の根が合わない。


 狂ってる。

 完全に狂ってる。


 彼女は死をもって、私を永遠の囚人にしようとしている。

 死体を使って、私の魂に消えない焼印を押そうとしている。


「凛ちゃん、愛してる」


 未央は私を見ていた。その瞳は滴るほどに甘く、優しかった。


「凛ちゃんに食べられたいくらい、凛ちゃんに殺されたいくらい、愛してる」


「だから……受け取って。私からの最後のプレゼント」


「私が凛ちゃんにあげられる、最高に重くて、深くて、絶対に色褪せない……」


「愛を」


 言い終えた瞬間、彼女の口元の笑みが極限まで広がった。

 それは、勝利者の笑顔だった。


 彼女は手すりを掴んでいた最後の指を離し、糸の切れた凧のように、背後の虚空へ倒れ込み――。


「――そんなもの、愛とは呼ばない」


 ドォン!!


 轟音。

 重厚な鉄の扉が、力任せに壁に叩きつけられた音だ。


 未央の動きが止まった。

 私も固まった。


 切迫し、荒い息遣いを伴った男の声が、冷たい鉄槌となって、この凄惨で美しい空気を粉々に粉砕した。


「それはただの、反吐が出るほど低俗な独占欲だ」


 私は振り返った。


 屋上の入り口。


 パジャマ姿で、片足しかスリッパを履いておらず、髪を風で滅茶苦茶にされた男が立っていた。


 彼は脇腹を押さえ、前屈みになり、肩で息をしていた。


 霜月理人。私の、兄さん。



──────────────────────


【あとがき:最悪の贈り物】


作者「『一生の傷痕トラウマになれる』……。未央ちゃんの愛の定義、重すぎてブラックホール化してますよ」


霜月「論理的誤謬エラーだ。 対象の精神を破壊し、恐怖で支配することを『愛』とは呼ばない。それはただの『呪い』であり、彼女がやろうとしているのは、凛の脳内への不正プログラムのインストールに過ぎない」


作者「そんなロマンのかけらもない……。 でも、その『冷徹さ』だけが、この熱病のような狂気を冷ませるのかもしれません。


ついに役者は揃いました。 暴風の屋上で対峙する、感情の怪物(未央)と、論理の怪物(理人)。


決着は、今夜。


次回の更新は【19:07】です。 理人はどうやって、この『死のダイブ』を止めるのか? 兄弟の絆と、歪んだ愛の結末。最後までお見逃しなく!」

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