第6話 「行きたくないから、行かなかった」 ~聖女が覚えた、初めての『バックレ』~

 土曜日の午後三時。


 神楽坂高校のキャンパスは週末だからといって静まり返ることはなく、むしろ普段よりも騒がしかった。


 グラウンドからは野球部がボールを打つ金属音と野太い掛け声が、体育館からはバッシュが床を擦る鋭いスキール音が響いてくる。

 部室棟からは、吹奏楽部の金管楽器と、無名バンドのベース音が不協和音を奏でている。


 汗、絶叫、過剰なホルモン。


 これが「青春」という名の低周波ノイズだ。


 現在「システム過熱オーバーヒート」状態にある僕にとって、この論理なき活力は、苛立ちを増幅させる要因でしかなかった。


 明確な目的地があったわけではない。


 ただ、僕の両脚は何らかの帰巣本能に従い、喧騒を縫い、飛んでくるサッカーボールを回避し、あの静寂に包まれた特別教室棟へと向かっていた。


 三階。

 四階。

 屋上階。


 標高が上がるにつれ、ノイズはようやく背後へと遠ざかっていった。


 僕は気象観測部の鉄扉の前に立ち、鍵を取り出そうとして――動きを止めた。


 鍵が開いている。

 ドアの隙間から、微かな風が漏れ出ている。


 佐伯先生か?

 いや、今日は土曜日だ。「休日出勤は死んでもしない」を信条とするあの女が、学校にいるはずがない。

 だとすれば……閉め忘れか?


 僕は眉をひそめ、錆びついた鉄扉を押し開けた。


「……あ、お帰り」


 部屋の中、あの専用のボロ椅子に座る人影があった。

 手でボールペンを回し、目の前には数冊の問題集が広げられている。


 夕暮れにはまだ早い午後の日差しが窓から射し込み、彼女の髪を透けさせていた。


 星野千夏。


 制服姿の彼女は、入ってきた僕を見て、無防備な笑みを浮かべた。

 まるで主人の帰りを待つ猫のように。


「なぜここに?」僕は尋ねた。


「佐伯先生に合鍵借りちゃった」彼女は指に掛けたキーリングをチャラチャラと鳴らした。「霜月くん、絶対来ると思って」


 僕はドアを閉め、喧騒の世界を完全に遮断した。


 百葉箱の前へ行き、習慣的に機器をチェックしながら、脳内の記憶データベースを検索する。


「昨日君が提示したスケジュールによれば」


 僕は彼女に背を向けたまま言った。


「現時刻、君は汗臭い体育館の中で、サイズの合わないチア衣装を着て、男子バスケ部の練習試合のために無意味な金切り声を上げているはずだが」


「ぷっ……汗臭いって。言い方ひどくない?」


 千夏が吹き出した。


「うん、その予定だったよ」


「試合が中止になったのか?」


「ううん、絶賛開催中。さっき階段上がってくる時、笛の音聞こえたし」


 千夏はペン先で顎をつつき、「今日はいい天気だね」とでも言うような軽い口調で言った。


「ただ……行かなかっただけ」


 僕は手を止め、振り返って彼女を見た。


「行かなかった? 理由は?」


「ない」


「言い訳は?」


「ない」


 千夏は肩をすくめ、窓の外を見た。


「体調不良とも言ってないし、家庭の事情とも言ってない。ただ……単純にスマホの電源を切って、


「つまり、いわゆる――バックレゴースティングか」


星野千夏(裏):『……』


 彼女の心声は、真っ白だった。


 僕は驚きを覚えた。

 彼女が約束を破ったことに対して、そして、その心があまりに静かであることに対して。


「……ほう」


 僕は単音節の評価を下した。


 無責任さを責めることも、その勇気を称えることもしなかった。


 僕は椅子を引き、彼女の向かいに座り、読みかけの気象学書を取り出した。


「なによ、それだけ?」千夏が不満げに頬を膨らませた。


「君の選択だ。結果に対する責任を負えるなら、僕が評価する必要はない」


「つれないなぁ……」


 口ではそう言いながらも、彼女の表情は目に見えてリラックスしていた。

 彼女はうつむいて課題に戻り、ペン先が紙の上を走る音だけが響き始めた。


「この問題……またこの関数かぁ」

「ねえ霜月くん、数学作った人って、失恋して社会に復讐しようとしたのかな?」


「根拠のない推測だ。数学は宇宙の言語だ」


「じゃあ宇宙って、すごいおしゃべりなんだね……」


 とりとめのない雑談。


 彼女が栄養価のない話題を振り、僕が鋭利かつ簡潔に応答する。


 窓の外からは依然として野球部の微かな掛け声が聞こえるが、鉄扉と分厚い壁に濾過されたそれらの音は、遠いホワイトノイズへと変わっていた。


 午後の日差しが床の上をゆっくりと移動し、空気中を塵が舞っている。


 耳には彼女の奇妙な理論と、それに対する僕の評価音だけ。


 この切迫感のない時間の流れは、まるで柔らかな絶縁体のように僕を包み込んでいた。


 この馴染み深い、低強度の相互作用インタラクションは、一種の鎮静剤のように作用し、未央と凛によって発生した胸の奥の混乱気団を、ゆっくりと平定していった。




──────────────────────


【あとがき:最強の精神安定剤】


作者「未央ちゃんの激重な愛で胃もたれしていたところに、千夏ちゃんのサバサバした空気……。実家のような安心感がありますね」


霜月「肯定する。彼女との会話は情報密度が低く、論理的生産性も皆無だが、脳内メモリのキャッシュクリアには有効だ。いわば『アイドリング運転』による排熱処理に近い」


作者「それを世間では『癒やし』と呼ぶんですよ、理人くん。


さて、明日は【2 話更新】を予定しています!

それでは、また明日(12:05)にお会いしましょう!」

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