第32話 愛国の仮面
放送が終わった直後。
スタジオの中は、放心状態のような静寂に包まれていた。
憲兵たちは銃を下げ、呆然と立ち尽くしている。彼らの戦意は、窓の外から響く数万の民衆の声によって完全に削がれていた。
「……終わったな」
片目のジャックが、緊張を解いて壁にもたれかかる。
アレンは調整卓から立ち上がり、ふらつく足で私のもとへ歩み寄った。
「大丈夫ですか、セレスタ」
「ええ。……貴方こそ」
私たちは互いの無事を確かめ合うように肩を抱き合った。
これで勝った。
そう思った、その時だった。
ドドドドド……。
地響きのような重低音が、建物を揺らした。
民衆の歓声が、一瞬にして悲鳴へと変わる。
「なんだ!?」
私たちが窓から外を覗くと、信じられない光景が広がっていた。
大通りを埋め尽くす群衆を割り裂くように、巨大な鉄の塊——最新鋭の蒸気戦車が進軍してくる。
その数、五台。
砲塔がゆっくりと旋回し、放送局の玄関を狙っている。
そして、先頭の指揮車両の上に立つ男。
拡声器を手にした、グランツ侯爵だった。
『——暴徒どもに告ぐ! 直ちに解散せよ!』
侯爵の声が、スピーカーを通して広場に響き渡る。
『放送局を占拠しているのは、敵国レーヴァニアのスパイだ! あの女の言葉に惑わされるな! 奴らは我が国を内部から崩壊させるために毒を撒いているのだ!』
民衆がざわめく。
恐怖と疑心暗鬼。
圧倒的な暴力(戦車)を前にして、人々の足がすくんでいる。
『これは聖戦である! 愛国者諸君、スパイを排除せよ! さもなくば、この戦車砲で建物ごと吹き飛ばす!』
侯爵の目は血走り、狂気を孕んでいた。
彼は本気だ。自分の悪事が露見する前に、私たちを瓦礫の下に埋葬し、すべてを闇に葬るつもりだ。
「……往生際が悪いですね」
アレンが静かに呟いた。
彼は私を見た。
「セレスタ。……ここからは、私の出番です」
「アレン?」
「君は人々の心に火をつけた。……次は私が、敵の『正体』を暴きます」
アレンは胸ポケットから、あの「裏帳簿」のデータを取り出した。
そして、スタジオにあった予備のハンドマイクを掴むと、窓枠に足をかけた。
「危険よ!」
「大丈夫です。……彼らはまだ撃てない。私が『証拠』を持っていることを知っているからです」
アレンは足を引きずりながら、バルコニーへと出た。
雨上がりの空の下。
数万の視線と、戦車の砲口が彼に集中する。
『——グランツ侯爵!!』
アレンの声が、広場に轟いた。
放送設備が生きていたため、彼の声は広場のスピーカーからも流れる。
『外務省儀典局、アレン・ヴァルシュだ! ……貴方に質問がある!』
侯爵が顔を歪め、指揮車の上から怒鳴り返す。
『黙れ、裏切り者め! 貴様のような平民が、私に口を利ける身分か!』
『身分など関係ない! 私が問うているのは、貴方の『愛国心』の正体だ!』
アレンは一歩も引かなかった。
ボロボロの軍服。松葉杖をついた満身創痍の姿。
けれど、その立ち姿は、煌びやかな軍服を着た侯爵よりも遥かに威厳があった。
『貴方は言った! この戦争は国の生存のためだと! 国民に耐乏を強いた! だが、このデータは何だ!?』
アレンは書類の束を高々と掲げた。
『帝国軍需省、極秘会計簿! ……ここには、前線に送られるはずだった弾薬費、食糧費の30%が、使途不明金として消えていることが記されている!』
広場がどよめく。
『消えた金の行先は……グランツ家所有の、海外口座だ!』
アレンが数字を読み上げる。
莫大な金額。
それは、市民たちが今日食べるパンを我慢して納めた血税の額だ。
『嘘だ! デタラメだ!』
侯爵が叫ぶが、アレンの声は止まらない。
『第09要塞が陥落したあの日! 貴方は何をしていた!? ……貴方は、自分の領地の別荘で、新しい愛人のためにパーティーを開いていた! そのワイン代だけで、一個中隊の兵士が一ヶ月食えるんだぞ!』
具体的な告発。
数字という、揺るぎない事実。
それが、感情論よりも深く、冷たく、兵士たちの心に突き刺さる。
戦車のハッチから顔を出していた兵士たちの表情が変わった。
彼らもまた、前線で飢え、仲間を失ってきた者たちだ。
自分たちが命を懸けて守ろうとした「国」の正体が、一人の男の「財布」だったとしたら。
『兵士諸君! 聞け!』
アレンは戦車隊に向かって叫んだ。
『貴官らが守るべきは、こんな泥棒貴族ではない! 後ろにいる市民だ! 家族だ! ……その銃口を向けるべき相手を間違えるな!』
静寂が落ちた。
雨上がりの風の音だけが響く。
侯爵は顔を真っ赤にして、拳銃を抜いた。
『撃て! 撃てぇッ! 命令だ! あの男を殺せ!』
彼は戦車の砲手に怒鳴り散らす。
しかし、戦車は動かない。
砲塔が、微動だにしない。
『聞こえんのか! 私は軍事顧問だぞ! 命令違反で銃殺にするぞ!』
侯爵が喚き散らす中、一台の戦車のハッチが開いた。
中から出てきたのは、歴戦の戦車長だった。
彼はゆっくりと侯爵の方へ向き直り、静かに言った。
「……閣下。我が隊の燃料は、あと一時間分しかありません」
『なんだと!?』
「補給が届かないのです。……予算不足で」
戦車長は皮肉な笑みを浮かべた。
「貴方がワインに使ってしまったのなら、仕方ありませんな。……これでは、砲塔も回りません」
それが合図だった。
周囲の兵士たちが、一斉に銃を下ろした。
広場の群衆からは、「そうだ!」「奴を捕まえろ!」という怒号が飛び交い始める。
『き、貴様ら……! 反逆か! 反逆だぞ!』
侯爵が後ずさる。
彼の周りを固めていた親衛隊でさえ、冷ややかな目で彼を見ている。
愛国心という名のメッキが剥がれ落ち、そこにはただの、欲望にまみれた小男がいるだけだった。
「終わりです、グランツ侯爵」
アレンがバルコニーから見下ろし、宣告した。
「貴方の戦争は終わった。……これからは、法の裁きを受けていただきます」
侯爵は震える手で拳銃を構え、アレンに向けようとした。
だが、その手は誰かに掴まれた。
ボルドーだった。
彼の甥であり、腰巾着だった男。
「……叔父上。もうやめましょう」
「ボ、ボルドー!? 貴様まで!」
「私も……もう疲れました」
ボルドーは力なく笑い、侯爵の手から銃を取り上げた。
そして、自ら憲兵に両手を差し出した。
「連れて行ってくれ。……全部吐く」
侯爵は膝から崩れ落ちた。
わあっと歓声が上がる。
民衆が雪崩れ込み、侯爵を取り囲む。
だが、リンチは起きなかった。アレンが制したからだ。
『暴力を振るうな! 我々は暴徒ではない! ……彼を法廷へ送るんだ!』
その言葉に、人々は理性を保ち、憲兵に侯爵を引き渡した。
かつての独裁者は、泥にまみれ、引きずられるように連行されていった。
私はバルコニーに駆け寄り、アレンの背中を抱きしめた。
彼の身体は、小刻みに震えていた。
恐怖ではない。
全精力を使い果たした、虚脱感からの震えだ。
「……アレン。……勝ったわ」
「……ええ。……本当に、終わったんですね」
アレンはその場に座り込んだ。
広場からは、万雷の拍手と、「ヴァルシュ!」「アークレイン!」を呼ぶ声が響いてくる。
私たちは、英雄になったのだ。
だが、アレンの顔に驕りはなかった。
彼はただ、静かに空を見上げていた。
「父さん……。見ていてくれましたか」
雲が切れ、青空が広がっていく。
その蒼さは、十年前に彼らが夢見た色と同じだ。
その時。
広場の向こうから、整然とした軍靴の音が響いてきた。
現れたのは、金色の紋章を掲げた、近衛騎士団の一隊だった。
王宮直属の、皇帝陛下の軍隊だ。
民衆が静まり返り、道を開ける。
騎士団長が進み出て、バルコニーの私たちを見上げた。
彼は攻撃の意思を見せず、恭しく敬礼をした。
「アレン・ヴァルシュ殿。そして、セレスタ・アークレイン殿」
よく通る声が響く。
「皇帝陛下より、勅命である。……直ちに王宮へ参内せよ。陛下がお待ちである」
逮捕ではない。
招待だ。
私はアレンと顔を見合わせた。
アレンは泥だらけの顔を拭い、不敵に微笑んだ。
「……行きましょう、セレスタ。最後の仕上げです」
「ええ。……条約にサインをもらいに」
私たちは手を取り合い、立ち上がった。
泥と煤にまみれた「革命の英雄」たちは、堂々と胸を張り、光の差す王宮へと歩き出した。
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