第28話 二人の作戦会議

 地下水道の隠れ家は、熱気に包まれていた。

 カビ臭い空気の中に、紙とインク、そしてタバコの匂いが混じり合っている。

 中央のテーブルには、私が持ち帰った『蒼い薔薇(条約草案)』と、アレンが隠し持っていた膨大な資料が広げられていた。


「……なるほど。これが、父たちの答えだったのか」


 アレンは松葉杖を脇に置き、条約草案のページをめくっていた。

 その瞳は、久しぶりに見る「能吏」の色をしていた。

 感情に流されることなく、冷徹に情報を分析し、最適解を導き出そうとする知性の光。


「関税の撤廃による物流コストの削減……共同資源開発によるエネルギー価格の安定……。完璧だ。十年前にこれだけの構想があったとは」

「ええ。これを実現できていれば、今の食糧難もエネルギー不足も起こらなかったはずよ」


 私は隣でランプを掲げながら言った。

 アレンは頷き、別の資料——彼が命がけで集めた「裏帳簿」の写しを指差した。


「一方で、これが現在の帝国の実情です。……軍事費の増大により、財政は破綻寸前。グランツ侯爵ら一部の軍需産業だけが肥え太り、国民は骨の髄までしゃぶられている」


 彼が示したグラフは、絶望的な右肩下がりを描いていた。


「このまま戦争を続ければ、勝敗に関わらず、帝国の経済は三ヶ月以内に崩壊します。ハイパーインフレが起き、パン一つ買うのに札束が必要になるでしょう」

「……三ヶ月」

「はい。父たちが恐れていた『共倒れ』です」


 アレンは眼鏡がないため、目を細めて二つの資料を見比べた。


「敵の論理は『戦争で奪えば豊かになる』という単純なプロパガンダです。これに対抗するには、感情論だけでは弱い。『戦争を止めなければ、あなた達は飢え死にする』という、冷厳な事実(数字)を突きつける必要があります」


「そして、その解決策として『蒼い薔薇』を提示するのね?」


「その通りです。……批判だけなら誰でもできる。我々は『代案』を持っていなければならない」


 アレンはペンを取り、地図の上に作戦図を描き始めた。


「明日の正午、市民への総点呼が行われます。街中が恐怖と混乱に包まれるその瞬間こそが、最大の好機です」

「放送局ね」

「はい。帝都中央放送局。……ここを占拠し、電波をジャックします」


 放送局の占拠。

 それは、軍事的な制圧以上に、政治的な意味を持つ。

 政府のプロパガンダ装置を奪い取り、真実の声で上書きするのだ。


「私が放送機材を操作し、回線を繋ぎます。……セレスタ、君はその間、マイクの前で語り続けてください」

「……何を語ればいいの?」


 私が問うと、アレンは顔を上げ、真剣な眼差しで私を見つめた。


「真実を。……そして、未来を」


 彼は私の手を取り、条約草案の上に置いた。


「この条約には、正統性があります。かつて両国の代表が合意したという事実。そして、それを君——アークレイン家の令嬢が命がけで持ってきたという物語。……それは、どんな扇動演説よりも強く、人々の心に響くはずです」


「……責任重大ね」

「君ならできます。……あの安酒場で、スープの味から国の経済を見抜いた君なら」


 アレンがふっと笑った。

 その笑顔を見ると、不思議と肩の力が抜けた。

 そうだ。私はただの令嬢じゃない。彼が認めてくれた「同志」なのだ。


「……分かったわ。やってみせる」


 私は頷いた。

 そこへ、元軍人の男——脱走兵たちのリーダー格である「片目のジャック」が近づいてきた。


「参謀、嬢ちゃん。……作戦はいいが、問題は警備だ」


 ジャックは苦い顔で地図を指差した。


「放送局は、憲兵隊の本部のすぐ近くだ。総点呼の日なら、警備は倍増されているだろう。……俺たちみたいな寄せ集めの部隊じゃ、正面突破は不可能だ」

「ええ。ですから、陽動を使います」


 アレンは冷静に答えた。


「ジャック、あなた達には市内の三箇所——食糧倉庫、武器庫、そして貴族街の入り口で、同時に騒ぎを起こしてもらいたい」

「騒ぎ?」

「爆破、放火、何でも構いません。ただし、市民を巻き込まないように。……目的は、憲兵隊の戦力を分散させることです」


 アレンの指が地図の上を滑る。


「彼らは『暴動』には過敏に反応します。特に、食糧倉庫が狙われれば、略奪を恐れて部隊を急行させるでしょう。……その隙をついて、精鋭数名で放送局の裏口から侵入します」


「……なるほど。俺たちが囮ってわけか」


 ジャックはニヤリと笑った。


「上等だ。あいつらに一泡吹かせてやりたかったところだ。……命懸けになるが、構わねぇよな、野郎ども!」


 周囲の兵士たちが、拳を突き上げて応える。

 彼らもまた、国に捨てられ、それでも国を憂う男たちだ。


「……感謝します」


 私は深く頭を下げた。

 彼らの命を危険に晒す作戦だ。その重みを、背負わなければならない。


「頭を上げてくれ、嬢ちゃん。……俺たちは、あんたの言葉に賭けるんだ」


 ジャックは私の肩を叩いた。


「俺たちの家族も、この戦争で苦しんでる。……あんたの声で、この馬鹿げた騒ぎを終わらせてくれよ」


 託された希望。

 アレンの父、私の母、そして名もなき兵士たち。

 全ての想いが、私の背中を押している。


「……アレン」


 作戦会議が終わり、兵士たちが準備に散っていく中、私は彼に向き直った。


「貴方の足……走れるの?」

「走れません。……だから、君が私の足になってください」


 彼は松葉杖をつき、苦しげに、しかし力強く立った。


「放送室までは、君の肩を借ります。……でも、放送が始まったら、私は死んでも機材を守り抜きます。君の声を、一秒でも長く届けるために」


 それは、死ぬ覚悟をした男の目だった。

 まただ。

 また、彼は自分の命を犠牲にして、私を生かそうとしている。


「……駄目よ」


 私は彼の手を強く握った。


「死ぬなんて言わないで。……放送が終わったら、一緒に逃げるのよ」

「セレスタ……」

「『不味いシチュー』の借りは、まだ返してもらってないわ。……もっと美味しいものを二人で食べるまで、絶対に死なせない」


 私が睨みつけると、アレンは困ったように笑い、それから優しく目を細めた。


「……分かりました。負けましたよ」


 彼は私の手を引き寄せ、そっと口づけを落とした。

 汚れた軍服姿の彼が、今はどんな貴公子よりも気高く見えた。


「必ず、二人で帰りましょう。……私たちの、新しい時代へ」


 地下の湿った空気が、熱を帯びていく。

 私たちは互いの目を見つめ合い、無言で頷き合った。

 言葉はいらなかった。

 論理と計算で組み上げた作戦の土台には、揺るぎない信頼と愛がある。


「夜明けまで、あと数時間。……仮眠を取りましょう」


 アレンが言った。

 明日になれば、もう休む暇はない。

 私たちは簡易ベッドに並んで座り、互いの体温を感じながら目を閉じた。


 泥の中の作戦会議。

 それは、かつて華やかな王宮で交わされたどんな外交交渉よりも、真剣で、そして希望に満ちた時間だった。

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