第3章:檻の中の令嬢
第17話 冷たい故郷
三日間にわたる屈辱的な船旅を終え、私は故国レーヴァニアの土を踏んだ。
王都の港は、いつも通りの優雅な佇まいを見せていた。
白亜の建物、青い運河、そして穏やかな風。
煤煙にまみれた帝都とは対照的な、美しい「水の都」。
けれど、今の私には、その美しさが空々しく感じられた。
出迎えに来たのは、王宮の儀仗兵ではなく、アークレイン家の私兵たちだった。
彼らは無表情で私を取り囲み、まるで犯罪者を護送するように馬車へと押し込んだ。
「……お帰りなさいませ、お嬢様」
馬車の中で待っていたセバスチャンが、痛ましげに頭を下げる。
私は窓の外を流れる見慣れた景色を見つめながら、小さく息を吐いた。
「ただいま、セバスチャン。……随分と物々しいお出迎えね」
「旦那様のご命令です。『帝国のスパイによる接触を警戒するため』と仰せですが……実質的には」
「私を逃がさないため、でしょうね」
私は自嘲気味に笑った。
父は、私が帝国の思想に「汚染」されたと考えているのだろうか。それとも、私が逃亡を図るとでも思っているのだろうか。
どちらにせよ、ここにはもう、私が愛した温かい「家」はない。
馬車はアークレイン大公邸へと到着した。
広大な庭園と、歴史ある石造りの館。
門をくぐると、そこには多数の使用人たちが整列していたが、誰一人として私と目を合わせようとしなかった。
腫れ物に触るような、あるいは「汚れた娘」を見るような目。
私は背筋を伸ばし、顎を上げて歩いた。
ドレスは着替えたけれど、心の中にはまだ、あの血塗られた舞踏会の夜が焼き付いている。
アレンの血の重みが、私を支えていた。
「旦那様がお待ちです。書斎へ」
セバスチャンの案内で、私は父の部屋へと向かった。
***
重厚なマホガニーの扉が開く。
書斎の空気は冷え切っていた。
父、リオネル・アークレイン大公は、執務机に向かって書類にペンを走らせていた。
私が部屋に入っても、顔を上げようともしない。
「……戻りました、お父様」
私が声をかけると、父はようやく手を止め、眼鏡の縁越しに私を一瞥した。
氷のような灰色の瞳。そこには、娘を心配する色は微塵もない。
「ご苦労だったな。……帝国での無様な振る舞い、報告は聞いている」
第一声がそれだった。
ねぎらいの言葉も、アレンへの言及もない。
「暴動を扇動した疑いをかけられ、あまつさえ下級官僚と色恋沙汰を起こし、最後には銃撃騒ぎ……。アークレイン家の名誉を、よくもここまで泥にまみれさせてくれたものだ」
「それは誤解です。私は……」
「言い訳は聞かん」
父は冷たく切り捨てた。
「お前には失望した。外交官としての才能があるかと思っていたが、買いかぶりだったようだな」
悔しさに唇を噛む。
反論したかった。私がどれだけ帝国で戦ってきたか。アレンと共に、どれだけ平和への道を模索してきたか。
けれど、今の父に何を言っても無駄だ。彼は「結果」しか見ない。
ふと、アレンの最期の言葉が脳裏をよぎる。
『君の父上は、捨てていない』
本当にそうなのだろうか。
目の前の冷徹な男の、どこにそんな情があるというのか。
私は父を真っ直ぐに見据え、問いかけた。
「お父様。……一つだけ、お伺いしたいことがあります」
「なんだ」
「『蒼い薔薇』……という言葉に、聞き覚えはございませんか?」
父のペンが、ピタリと止まった。
一瞬、その瞳が大きく揺らぎ、鋭い光を帯びて私を射抜いた。
部屋の空気が凍りつくような緊張感。
「……どこで、その言葉を聞いた」
低い、地を這うような声。
明らかに動揺している。アレンの情報は正しかったのだ。
「帝国の……あのアレン事務官からです。彼が、命がけで私に託しました」
「……」
父は長い沈黙の後、ふんと鼻を鳴らし、興味を失ったように再び書類に目を落とした。
「知らんな。……死に損ないの平民が遺した妄言だろう」
「お父様!」
「下らん話は終わりだ。本題に入ろう」
父は机の上のベルを鳴らした。
扉が開き、一人の男が入ってきた。
派手な紫色のスーツに、過剰な宝石をジャラジャラとつけた男。
脂ぎった顔に、ねっとりとした笑みを浮かべている。
ミルティン伯爵家の嫡男、ガレス・ミルティンだった。
「やあやあ、お帰りなさい、セレスタ嬢! いやはや、無事なお顔が見られて安心しましたよ!」
ガレスは大げさに両手を広げ、私に近づいてきた。
強い香水の匂いが鼻をつく。
私は反射的に一歩下がった。
「……ごきげんよう、ガレス様」
「つれないなぁ。これからは家族になるというのに」
ガレスは遠慮なく私の手を取り、甲にねっとりとしたキスを落とした。
鳥肌が立つ。
アレンの、あの不器用で温かい手とは大違いだ。この男の手は、まるで冷たい爬虫類のようだった。
「紹介しよう。今日からお前の婚約者となる、ガレス殿だ」
父が淡々と告げた。
「ミルティン家は、我が国の海軍増強計画に多大なる貢献をしてくださる。……お前はその感謝の印として、ガレス殿に嫁ぐのだ」
「そういうことです。いやぁ、前から貴女のことは狙っていたんですよ。大公家の高嶺の花を、この手で手折れる日が来るとはねぇ」
ガレスは私の体を、下卑た視線で舐め回すように見た。
まるで、競り落とした高級な美術品を見る目だ。
そこには愛情も、敬意もない。あるのは征服欲と、所有欲だけ。
「聞いたところによると、帝国では随分と『やんちゃ』をされたとか? 平民の男と遊んだりして」
ガレスがニヤニヤと笑う。
「まあ、傷物でも構いませんよ。アークレイン家の血統と、その美貌さえあればね。……結婚したら、私がたっぷりと『淑女の躾』をし直して差し上げますから」
「……」
怒りで視界が赤く染まりそうだった。
この男は、私を人間として見ていない。
そして父も、それを黙認して私を売り渡したのだ。
これが、私の「家」なのか。
これが、私が守ろうとした祖国の姿なのか。
「……お父様」
私は震える声で言った。
「私は……物ではありません。このような、愛のない結婚など……」
「愛だと?」
父が冷笑した。
「まだそんな世迷い言を言っているのか。お前のその甘い考えが、帝国での失敗を招いたのだ」
「……ッ」
「いいか、セレスタ。お前には拒否権はない。妹のシルヴィアのためにもな」
父は残酷な切り札を切った。
シルヴィア。
病弱な妹の命綱を握られている以上、私は逆らえない。
「……結婚式は一ヶ月後だ。それまでは屋敷の離れで謹慎し、花嫁修業に専念しろ。……外出は禁ずる」
「さあ、行きましょうか、僕の可愛い小鳥ちゃん」
ガレスが私の肩に手を回そうとする。
私はそれをピシャリと払いのけた。
「……触らないでください」
部屋の空気が凍る。
ガレスが目を丸くし、父が眉をひそめた。
「まだ結婚したわけではありませんわ。……アークレイン家の娘として、節度は守らせていただきます」
「……ほう。威勢がいいな」
ガレスは不快そうに鼻を鳴らしたが、すぐに嫌らしい笑みに戻った。
「まあいいでしょう。じゃじゃ馬を乗りこなすのも、楽しみの一つですからね。……式まで、じっくりと楽しみに待っていますよ」
私は二人に一礼し、逃げるように書斎を出た。
背後で、父とガレスが軍事費の話を始めているのが聞こえた。
彼らにとって、私はもう「処理済みの案件」でしかないのだ。
***
あてがわれたのは、本邸から離れた「北の離れ」だった。
かつて母が病床に伏していた場所であり、周囲を高い塀と私兵に囲まれた、事実上の牢獄だ。
「お嬢様……」
部屋に入ると、マリーが泣きそうな顔で迎えてくれた。
彼女もまた、私と一緒にここに閉じ込められることになったのだ。
「大丈夫よ、マリー」
私は窓辺に立ち、鉄格子の向こうに見える灰色の空を見上げた。
レーヴァニアの空は、帝国よりも青いはずなのに、今の私には灰色に見えた。
「私は負けないわ。……こんなところで、終わるつもりはない」
私はドレスの胸元を押さえた。
そこには、まだアレンの「蒼い薔薇」への手がかりが残っている。
父の反応は、雄弁だった。
『蒼い薔薇』という言葉を聞いた時の、あの一瞬の動揺。
父は知っている。そして、恐れている。
過去の「何か」が暴かれることを。
(アレンの言った通りだわ。この屋敷のどこかに、真実が眠っている)
私は振り返り、部屋の中を見渡した。
質素な家具と、本棚。
かつて母が愛した本たちが、そのまま残されている。
「……マリー。これから忙しくなるわよ」
「え?」
「花嫁修業なんてしている暇はないの。……この屋敷の中を、徹底的に調べるわ」
私は瞳に強い光を宿して言った。
「結婚式までの一ヶ月。それが私たちのタイムリミットよ。……それまでに『蒼い薔薇』を見つけ出し、このふざけた縁談を白紙に戻すカードを手に入れる」
これは賭けだ。
失敗すれば、私はガレスの玩具になり、妹も路頭に迷うかもしれない。
でも、何もしなければ、座して死を待つのと同じだ。
アレンは今も、冷たい病院のベッドで戦っている。
彼が諦めていないのに、私が諦めるわけにはいかない。
(見ていなさい、お父様。そしてガレス)
私は拳を握りしめた。
(貴方たちが「美しいトロフィー」だと思っているこの娘が、貴方たちの喉元にナイフを突きつける日が来るのを、楽しみにしていて)
冷たい故郷の風が、窓をガタガタと揺らす。
私の孤独な戦いが、ここから静かに幕を開けた。
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