第34話 静謐に託す英雄



 ――静かだった。



 あれほど轟いていた刃の乱気流も、焼けつくような光も、今はもうない。

残るのは、焦げた空気の匂いと、微かに震える残響だけだった。


 崩れた天井から、冷たい月光が聖堂を照らす。

灰の中、倒れ伏す二つの影。

そのうちの一人――闇ギルドの首魁、毒島は、血溜まりの中で倒れていた。



 ——天蓋てんがい錮牢ころうを破る者が出てくるとは……。恐ろしい奴だ。



 空間ごと破壊する斬撃と、その余波に気絶していたらしい。朦朧とする意識が鋭い痛みで起き上がる。ジョシュアは、ぐらつく足でなんとか立ち上がろうとして失敗した。



 ……辛くも勝利足り得た、か。



 喉の奥でかすれた息を吐き、ようやくその実感が形をなした瞬間――

瓦礫を踏みしめる軽い足音が、彼の耳に届いた。



「ジョシュアさん!」



 声の主はミサカだった。

煙をかき分け駆け寄るその姿に、ジョシュアは疲労を隠せないまま視線を向ける。

相変わらず、彼女の身体には例の魔導書が貼りついていた。

しかも、二冊だったはずのそれが――三冊に増えている。



「……増えている、……いつ、から?」



 滲むような呟き。自分のものとは思えないほど掠れていた。

魔導書が増えるたび、彼女は苦しむ。

一体あれは何なのか。

白紙の魔導書――それは何者なのか。

その問いは、視線の先、毒島が答えを持っているかもしれない。


 毒島へ意識を向けたところ、崩れた壁の向こうから、小さく喧騒が聞こえた。

怒号と鉄の打ち鳴らす音。

警邏隊と闇ギルドの残党が衝突しているのだろう。



「マスター! お退きください!」



 遠くから、誰かが叫んだようだ。

警邏隊がここに到着するのも、時間の問題だった。



「ジョシュアさん、大丈——なんて傷……!」



 ジョシュアの容態を確認したミカサの声が震えた。

今、ようやく戦闘の余韻を実感する。

激戦の終始、何が起きていたのか、彼女には理解が追いついていなかった。


 毒島の猛攻は、遠くにいても恐怖を覚えるほどのものだった。床や壁に幾筋も亀裂が走り、叩きつけられる威圧に顔を背けた。

激しい揺れに咄嗟にしゃがみ込んだ、その視界の先で、教会の内部は火の海と化し——

次の瞬間には、雪が舞い散っていた。


 炎と氷が交錯する異常な戦場。

状況が目まぐるしく移り変わるたび、ミカサの心臓は掴まれたように跳ねた。

ジョシュアが劣勢に追い込まれ、そして——天井が裂け、轟音とともに降ってきた戦闘機。


 身体が固まり、尻餅をついた両脇を、機体の残骸が猛速で滑り抜ける。

吹き荒れる熱風と衝撃。砕けた壁の向こうで、爆音が遅れて腹の底に響いた。


 視界が白く霞む中、彼女は見た。

 ——二人の姿が、消えた。


 そして、次の瞬間。

崩れた瓦礫の前に、二人が倒れ込むように“現れた”。

いや——“戻ってきた”のだ。



「ジョシュアさん!」



 駆け寄ったミカサは、彼の身体を抱き起こす。

腕の裂傷、額を流れる血、脇腹を押さえる苦痛の表情。

その全てが、死線の戦いだったことを雄弁に語っていた。


 焦燥と罪悪感が胸を締めつける。

けれど同時に、どうしようもなく——嬉しかった。

この人が、生きている。目の前にいる。

そんな思いが込み上げ、唇を噛む。



「……大丈夫だ」



 気丈に彼は返事し、震える彼女の頭にそっと手を伸ばす。

その手のひらは、戦場の熱と血のぬくもりを帯びていた。


 ミカサの頬を、涙がひとすじ落ちた。



「あの男は……」



 ミカサの声は、恐怖と不安が入り混じったかすかな囁きだった。

その声に反応して、ジョシュアはゆっくりと立ち上がる。

瓦礫を踏みしめると、焼けた石が割れ音を立て。

ふらつく足取りを叱咤し。血溜まりの中に倒れた毒島へと近づく。



「呼吸はある。……これで、話が聞けそうだな」



 掠れた声で告げると、毒島の鼻先がピクリと動いた。

そのまま、血濡れた口角がゆっくりと吊り上がる。



「……はっ。簡単に、口を割ると……思うか?」



 掠れる声に血が混じる。しかし、眼光はまだ獣のように鋭かった。

首だけをこちらに向け、牙を剥くように睨みつけてくる。



「まだやる気か……」



 ジョシュアは眉をひとつ上げ、少しだけ面倒そうに目を細めた。



「もう、充分だ。——覚悟は、伝わったつもりだぞ」



 その声音には、何に向けられたものなのか。風が敬意を運んだ。

毒島は獰猛な表情のまま、歯を食いしばりながら片手を地に突く。

その腕は震え、筋が浮き上がり——だが、立ち上がることはできなかった。


 ズルリッ——と音を立てて、再び仰向けに倒れる。

血が滲み、石畳の隙間を赤く染めた。



「そのざま……でか……」



 わずかに息を詰まらせ、毒島は自嘲するように笑った。



「いや……このざま、もか」



 乾いた笑いは、苦悶に歪みながらも、なお力がみなぎっていくようだった。


 瀕死にも関わらず、まだ消えぬ闘志。

その異様な不屈さに、ミカサの背筋がぞくりと粟立つ。



 ——この男は、何を背負っているのだろう。



 崩れた聖堂の奥で、風が鳴った。

血と鉄と焦げた硝煙の匂いが、肌を刺すように不安を駆り立てる。


 ミカサは、冒険者になりたての頃に聞いた噂を思い出していた。——闇ギルドのボスは、かつて大虐殺を犯したらしい。


 その男が、いま目の前に倒れている。

だが、まだ終わっていない。

また、罠にはめられるかもしれない——今度こそ、助からないかもしれない。


 恐怖が、体の奥からじわじわと這い上がってくる。

足が、勝手に動いた。



「……ミカサ?」



 ジョシュアの声が背後から届いた。

その声に応えられず、ただ前を見つめる。



 ——今、なら。



 月光に照らされた床の上。

割れたステンドグラスの破片が散らばっている。

ミカサはそのひとつを拾い上げた。


 冷たい。

指先が切れ、血が滲む。

それでも、握りしめた。


 そのとき、毒島と目が合った。


 濁った瞳——

だが、そこにはまだ、消えない炎があった。

怒り、悔恨、達観、そして……痛み。



 ——魅入られてはだめ。



 頭の奥で、誰かの声が響く。

だが、手が、震えながらも上がっていく。

この男を、終わらせなければ。


 ガラス片が月明かりを反射し、鈍く光った。

毒島は何も言わない。ただ、笑っていた。

それが挑発か、赦しか、わからない。


 あと一歩で届く距離——そのとき。



「それが、君の尊ぶ“英雄”の姿か?」



 ジョシュアの声が、鋭く響いた。

ミカサの体がビクリと震え、ガラス片が手の中で揺れる。



「憎しみのままに振るう刃が、正義になるのか?」



「……でも、これは——」



「その男を殺せば、君は“救われる”のか?」



 ミカサの喉が詰まる。

口を開こうとしても、言葉に繋がらない。



 ジョシュアは歩み寄るように、静かに言った。



「力は、時に人を救う。だが同時に、奪うこともある。

 ——力そのものは、善でも悪でもない。

 それを使う“意志”が、すべてを決めるんだ」



 今は聞きたくない助言。

しかし怒鳴りでも説教でもない、ただ真実を告げる声。


 ミカサの握る手から、力が抜けていった。

カラン……と、ガラス片が音を立てて床に落ちる。

割れた破片が、月光の下で細かくきらめいた。



「……よく思いとどまった」



 ジョシュアは、穏やかに言った。

その優しい声音に、ミカサは俯き、肩を震わせる。

涙が落ち、割れたガラスの上に小さな輪を作った。


 ジョシュアはその頭に手を置き、静かに告げた。



「君が人である限り——その先には“英雄”が続いていく」



 ミカサは嗚咽を噛み殺し、頷いた。

月光が二人を照らし、崩れた聖堂の中に静けさが戻っていく。

ジョシュアは、毒島から絞り出すように話を聞き出した。


 魔導書の正体。讃美の悪魔の存在。そして、空から落ちた魔導書が、決して祝福ではなかったということも。



 ——ミカサの腰に貼り付くそれは、救いではなく呪いだったか。



 五冊集えば、賛美の悪魔に魂を喰われる。

 解く手段はひとつ、再びその悪魔を討ち倒すほかない。


 毒島がミカサを殺さなかった理由も、ようやく見えてきた。

 今日の騒動の裏で暗躍していた闇ギルド。おそらく組織的な思惑は別にある。

その一つにミカサの死さえ組み込まれていたかもしれない。

“賛美の悪魔”を誘うための算段——その布石。



 だが。

 あの瞬間——。



 『撃墜の魔導書』が呼び出した″ゼロ戦の墜落″。

 毒島は、避けようと思えば避けられた。

 それでも立ち塞がり、大剣を振るった。真っ向から、機体を断ち割ってみせた。偶然かもしれない。



 ——その背後に、ミカサが居たのだ。



 焼けた風が、聖堂の残骸を渡っていく。

 ジョシュアはゆっくりと瞼を伏せ、微かに呟いた。



 「——英雄」



 それは、誰に聞かせるでもない、称賛。

 ミカサが振り向いたときには、もうその声は夜気に溶けていた。



 ——そのとき。



 崩れた扉の向こうから駆け足が響いた。

 瓦礫を飛び越えるように姿を現したのは、幻想図書館の同僚、セラ=アーカイブ。


 乱れた前髪を指で払い、肩で息をしている。

随分と走り回されたようだ。安堵とともに怒気が見え隠れしているのが少し怖い。



「まったく……。通信に出ないと思ったら、こんなところで女子校生(ミカサ)とイチャイチャしてるとはね、ジョシュア?」



「そんなことは、してない。……ほ、本当だ。」



 ジョシュアが冷静に否定するより早く、ミカサが涙の跡もそのまま、微笑んで深々と頭を下げた。



「助けていただいて……本当に、ありがとうございます。セラさんも……助けに来てくれて、ありがとう!」



 泣き腫らした瞳の奥に浮かぶ、まんえんの笑み。

 セラは、息を飲んで視線を逸らした。



「……思ってた反応と違う。なんか……その、ごめんなさいね」



 焦ったように髪をかき上げ、気恥ずかしさを隠すようにジョシュアへ視線を向ける。


 そして彼の全身を見て、目を見開いた。



「ちょ、ちょっと! なにその傷! まさか、そんな強敵だったの?!」



 ジョシュアが肩をすくめ、薄く笑う。



「……少しばかり、骨が折れた」



 ミカサがセラの腕にしがみつき、「何度も死ぬかと思いました……っ!」と涙声を漏らす。

 セラは「よしよし」と背を撫で、ふっと天井を見上げた。



「もう……ほんとに、あなたたちってば。

 ——って、なにこれ。天井、ないじゃない!」



 夜空がぽっかりと開き、月明かりが崩れた聖堂を照らしていた。

 きらめく星々が、黒煙の向こうで切なく瞬いている。



「……星が、きれいで……思ってたのと、ちっがーーう!」



 頬を染めて怒鳴り、照れ隠しに足元の瓦礫を蹴るセラ。



「いったいどこよ、その“強敵”ってやつは!」



 ジョシュアとミカサが視線を交わし、血の跡を辿る。

 ——そこには、ただおびただしい血溜まりだけが残っていた。

 毒島の姿は、いつの間にか消えていた。


 セラは深くため息をつき、肩を揺らして軽く笑った。



 「はぁ……散々な一日だったわね、ほんと」



 イタズラっぽい笑みをジョシュアに向けながら、互いの安堵を確かめるように小さく肩を叩く。


 ジョシュアは視線を下ろし、膝に手を置きながら静かに吐息を漏らした。


 耳に残るのは、瓦礫の崩れる音、遠くで混乱する警邏隊の声。


 そして、胸にくすぶる危機感——ミカサの魔導書が、今や三冊に増えていることを忘れてはいけない。



 「……作戦会議を開きましょう」



 セラが声を上げると、二人とも頷きながら小さな声で同意した。

 ジョシュアは両脇から支えられ、ゆっくりと歩き出す。

背後に顔を向け、崩れた教会の柱と壁、血の跡、瓦礫の山を目に収めた。


 その奥、月明かりに照らされて静かに佇む首なき天使像。激しい戦いの証であるかのように、見下ろしていた。



 「……メモリウスに相談して、次の手を考えよう」



 ジョシュアが呟くと、セラはうなずき、支える手に力を込めた。

三人の足取りが前を向き。長く、長い一日がようやく終わろうとしている。



——



 血の轍が、彼らと逆をたどって教会の奥に続く。

深淵に続く地下道に向かって。

その奥から、強大な威圧がゆっくりと近づいてくるのを感じた。

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