第10話 花よ、花よ、夏の魔女
「早見」
「はい、涼子様」
「あなたの他に、誰が来ているの?」
「時子様が希様とドロシー様を連れ、敵から逃げているところです」
「ああ。やっぱり来たのね、あの子達」
椅子に後ろ手に縛られていた手を解放された高木涼子は、立ち上がるとゆったりとした動作で伸びをした。
「……ご無事でなによりです」
昼寝をしていた猫が起き上がった時のように、しなやかに全身を伸ばしてあくびまでしている涼子を、早見は眩しそうに眺めて言った。
「当然よ。しほりはまだ、私を解放していないもの」
「どういう意味です?」
「あの子が次にやりたいことは何なのか、って話よ。時子を呼びなさい」
涼子は窓から外を見た。
「あの子、次はここに来るわ」
「進路を変更いたします! 涼子様がわたくしをお呼びですわ!」
嬉々として時子さんがそう言うと、わたしたちを乗せた大型のバイクが唸りを上げ、さらにスピードを上げた。
宙に浮く猿掌に乗り飛行する二人の賞金稼ぎたちは、まだわたしたちを追ってきている。
今しがた入った早見さんからの連絡によると、無事に涼子さんを解放することができたそうだ。
早見さんの話によると、別宅には涼子さん以外の人が居なかったらしい。となると、この賞金稼ぎたちは見張りもなしに涼子さんを放置し、わたしたちを追ってきたということになる。
単なる油断だろうか。
それとも、涼子さんが逃げられない、もしくは逃げない理由でもあるのだろうか。
「食らいな!」
猿拳を操っている女の声が後ろから聞こえた。
「しっかりつかまっていてくださいませ!」
「はい!」
時子さんが急ハンドルを切り、わたしたちの乗るバイクは大きく横に動いた。振りほどかれないようにしがみついていると、すぐ横で轟音が響く。
振り返るとちょうどわたしたちが居た中に、巨大な岩石が突き刺さっていた。あの猿拳の能力者が投げたものだろう。上からの攻撃を察知した時子さんに感謝である。
「クソおさげの方が攻撃してこないね」
ドロシーが後ろを向いて言った。
「確かに。なんでだろう」
あれほどわたしたちを苦しめた水使いが攻撃してこないのはなぜだろうか。
「……攻撃できない理由がある、ってこと?」
時子さんにつかまったまま慎重にわたしが後ろを向くと、浮遊する猿拳に乗ったしほりは、そもそもこちらを向いてすらいなかった。
片手の指で輪をつくり、その中を通してどこか遠くを見ている。山の上の方だろうか。
一体何をしているのだろうかと考え始める間もなく、猿拳が再び投石を用意し始めたのが視界の隅に映った。
「時子さん! また投石が来ます!」
「避ける方向を言ってくださいませ! 位置の微調整はわたくしが!」
「はい! ——来ます! 右へ!」
わたしが言うのとほぼ同時に時子さんは反応し、車体は右へと動く。
投石の影を見ているのか、時子さんは後ろを見てもいないのに見事に投石をかわした。車体にかすってすらいない。
「すごいです時子さん!」
「あまり何度もかわせるものではございませんがねえ! お二人の能力でなんとか防ぐ手立てを考えてくださいませ!」
「やっています! ドロシーちゃん、岩って砕ける!?」
「余裕だっつーの!」
「あーっ! もう! ちょこまかうっとおしいんだよ!」
猿拳の能力者が苛立って叫ぶのが聞こえ、投石の頻度が上がる。
「左です! 右! 次、三つ連続でバラバラに来ます! 右へ! ドロシーちゃん!」
「よっしゃあ!」
サイドカーに乗るドロシーが両手を目一杯宙に伸ばす。
「わたしから見て右ふたつ!」
「はいよ!」
ドロシーの伸ばした両手が投石のうち二つに触れる。瞬間、岩石は乾いた砂になって飛び散った。
ドロシーの能力、“灰の手”は、触れたものを経年劣化させる。有機物は腐り、無機物は砕け散るのだ。
残りひとつの岩を時子さんのバイク操作でかわし、岩石が地面に突き刺さる轟音を真横で聞く。
「希! こっちから攻撃できないの!?」
防戦一方で逃げ回っている状況が不満なのか、ドロシーが言った。
「……えっと、一応、思いつきはしたんだけど」
「さっすが希! どうするの!?」
「これだと、そのう……チャンスは一回切りと言いますか……いや、がんばって、やりたくはないけど……二回……いや! 一回! 一回でお願いします!」
「なに!? なに思いついたの希!?」
敵とスピードがほぼ拮抗しているため、なかなか撒くことができないでいたのがわたしも気になってはいた。
やはりこちらからも攻撃し、相手の動きを止めなければならない。
わたしは思いついた作戦を小さな声で時子さんに言う。
「……陽動がカギです。時子さん、援護をお願いします。ドロシーちゃん、敵が急に攻撃してきたら防御をお願い」
「オッケー任せて!」
「大胆かつ冷静な作戦ですわねえ! 気に入りましてよ!」
時子さんが運転しながら片手を離し、風になびくメイド服のスカートの裾をまくった。
「頭を下げてくださいませ!」
太ももにつけられていたホルスターから拳銃を取り外すと、後ろを振り返って立て続けに発砲する。
すぐさま猿拳の一つが間に入り、盾となって銃撃を防いだ。読み通りだ。これは次の攻撃を当てるための時間稼ぎが狙いだった。
「し、失礼します!」
「そんなに緊張せずともよろしくてよ。さ、力を抜いてくださいませ……」
「ちょっと黙っててください!」
わたしは意を決して時子さんに教わった通りの場所、メイド服のスカートの内側に手をつっこみ、中をまさぐった。
やがて大きな丸いものを探り当て、それらを後ろに勢いよくばら撒く。
時子さんがそれらに向かって一発だけ発砲した瞬間、わたしたちの後ろで爆発が起きた。
手榴弾だ。
「何それ! ずるいあたしもやる!」
「よろしいですとも。時子のポケットには何でも入っておりますよ」
こんな状況だというのに軽口を叩き合う二人を尻目に、一呼吸置いて噴煙の舞い上がる道路の横から水柱が噴き上がった。水流が爆発の炎を飲み込む。
「……そうか! 水が遠いんだ!」
水を操る能力者は自分で水を作り出しているわけではない。いつだって水は地下から噴き出していた。
この道路の横にはさっきから川が見えている。今のは川の水を持ち上げて使ったのだ。
追ってくる最中に水による攻撃をしてこなかったのは、さっきまで水源が近くになかったからだ。
なんならしほりの言っていた“水を操る能力”という言葉も嘘の可能性がある。水ならなんでもいいのではなく、もしかして、地下水や湧水限定なのではないか。
水蒸気と爆炎の中から、ところどころ焼け焦げた猿拳を盾にして二人を乗せた拳が飛び出してくる。
「びっくりすんだろコラ! 今のぜってーメイドの仕業だろ!」
「希さま!」
時子さんの合図と共に、わたしはすでにボタンを外していた自分のシャツを、勢いよく、潔く——脱いだ。
「——は!?」
時子さんのスピード調整によって先ほどよりも近くに来ていたバイクに面食らった敵たちは、空中に投げ出された“動かない”シャツに、真正面からぶつかった。
サイドカーをつけて三人が乗っているとはいえ、舗装された道路を爆走する大型のバイクと同じスピードで飛んでいたのだ。わたしのシャツにぶつかった衝撃は、そのまま大型のバイクが同じスピードでぶつかってきた衝撃に等しい。
ぶつかった衝撃で宙に投げ出された敵の二人は、地面に叩きつけられた。
「このまま逃げ切ります! 希さま、お見事でしてよ!」
わたしの能力、“仮縫い”は、触った布をその場に固定する。
解除するまで決して動かないその布は空中でぴたりと静止し、銃弾も弾く硬度となる。
早見さんたちと乗っていた車が打ち上げられた時に、車のシートを布とみなして固定できたのはラッキーだったが。
わたしは黒いインナーのみを身につけた上半身を隠すように、より時子さんの背中にしがみついて言った。
「女は度胸です!」
一枚で決まって、本当によかった。
地面に叩きつけられ、標的のバイクが逃げ去る音を聞きながら、しほりは立ち上がった。
「……マリィ、立てる?」
「……わり、無理」
衝突の瞬間、マリアはとっさにしほりを庇った。
敵が突然脱いだ服。最初は単なる目くらましかと思ったが、戦闘慣れしたマリアの勘は、一度も見ていないはずの希の能力に対し、警鐘を鳴らした。
反射的に体が動き、固定された服にはマリア自身が盾となってぶつかり、しほりを守ったのだ。
宙に投げ出され地面に叩きつけられる瞬間も、猿拳を操作してしほりとの間に挟み、受け止めた。
時子との戦闘ダメージと今の衝突で全身の骨が折れたかのような痛みに耐えるマリアには、しほりを守るので精一杯だった。
力なく答えるマリアを見下ろしていたしほりは、やがて視線を標的たちの方に向けた。
「あの子達、きっと涼子姉のところに戻るわ」
しほりは再び指で輪をつくり、山の上の方を見た。
「あそこに涼子姉が居る」
地面に横たわるマリアに視線を戻す。
「……マリィ」
「いいよ」
マリアはしほりの目を見上げて言った。
「ウチらの仲じゃん?」
笑うマリアに、しほりの口元にも笑みが浮かぶ。
「ありがとう。もう少し遊んでくるわ」
「おう。行ってきな」
地面に転がっていた猿拳のひとつがもぞもぞと動き出し、しほりを乗せて浮かび上がった。
猿拳が山の上の方、涼子の捕らえられていた別館の方角に向かって飛び立つのを見届けると、マリアは道端の木陰まで這って進んだ。
仰向けになり、被っていた帽子を脱ぐと、空にかざして見る。
「……やば。ボロボロじゃん」
お気に入りの帽子だった。実用性一辺倒の大きな麦わら帽子は日焼け対策にばっちりで、ギャルにとって日焼けは許すまじなのだ。
愛用の帽子は時子との戦闘の跡で、ところどころ擦り切れている。
「あー。マジ疲れた。てかなに、あの、メイド? メイドとか、今どきいなくね?」
マリアの顔の上に、ぽとりと帽子が落ちた。
「……無理すんなよ、しほ」
「涼子さん! 無事だったんですね!」
「なーんだ。元気そうじゃん」
「ええ。心配かけたわね」
わたしたちは今、涼子さんの捕らえられていた別宅に集まっていた。
先に向かっていた早見さんの手で解放された涼子さんは、特に怪我や衰弱している様子もなさそうだった。わたしは安堵する。
ちなみにわたしはこの屋敷に置いてあった服をお借りして、下着の上に着ている。時子さんが別宅に着いてすぐ調達してくれた。
「涼子さま、よくぞご無事で」
「いつも悪いわね、時子。今回は楽しめたかしら」
「ええ。おかげさまで、それはもう」
「なによりだわ。もう少し続くけど、ここからは私に譲ってちょうだいね」
「もちろんですとも」
涼子さんと時子さんは、わかるようなわからないような会話をしていた。
「あのう、涼子さん」
「何かしら」
「もう少し続くって、どういう意味ですか?」
涼子さんはかすかに首を傾げ、微笑んだ。
「そのままの意味よ。私が助け出されることは、必ずしも事の終わりを意味しないの」
涼子さんを救出しても、終わりじゃない。
どういうことだろう。私は考える。
敵は賞金稼ぎだ。目的は涼子さんをさらって換金すること。
敵を倒し、涼子さんを救い出した今、その目的は阻止できたはずだ。
これで終わりじゃないとすれば、それは。
「……敵の目的は、そもそも涼子さんをさらうことじゃなかったってことですか?」
「よく気づいたわね、希ちゃん。私としほりの因縁を知らずにそのことに気づけたのは、あなたが本当に頭が良いことの証明になるわ」
涼子さんは微笑むと、窓の外を見た。
「外に出ましょう。まだ最後の仕上げが残っているの」
「——この屋敷の裏にはね、湖があるの。それほど大きくはないんだけど、魚も居るし、水は綺麗なのよ。人もほとんど来ないしね」
涼子さんの案内で別宅の裏手に行くと、森の中の小道を抜けた先に、確かに湖が広がっていた。
「しほりとはね、昔私がまだ若かった頃、一緒に旅をしていたことがあるの。あの頃はまだ、しほりは十歳にも満たない子供だったわ。内に閉じこもり、他人と関わろうとしない子だった」
静かに波打つ水際を眺めながら、涼子さんは語り始めた。
過去、涼子は自身の能力を抑える方法を探して世界中を旅していた。
ある日立ち寄った雪山の麓の村で、一人の子供が迫害を受けていることを知った。
その子供は能力者だった。幼い遠目塚しほりである。
会って話をするうちに、涼子はしほりが皆に認められるための方法を思いついた。「自分は悪い魔女だから近づかない方がいい」などと言ってしほりを遠ざけると、翌日、涼子は“うっかり”雪山の雪をすべて解かしてしまった。
季節外れの猛暑に、雪解け水は氾濫を起こして麓では洪水となった。流されそうになった村の危機を救ったのが、しほりだった。
しほりの水を操る能力は村を救い、夏と共に災いを運んできた涼子はここでも魔女扱いされ、村から追い出された。
村の者たちはしほりに、それまで迫害してきたことを謝った。村の危機を救った英雄。忌避すべきものではなく、有用なものであるという認識の変化。
しかし幼いしほりは、村の者に黙って姿を消した。
追われるように村を出た涼子に、ついて来たのである。
どうしてついて来てしまったのかと涼子は叱ったが、しほりは強情だった。
あそこにずっと居るよりも、涼子と旅をしてみたい。能力ゆえに恐れられているのは涼子もしほりも同じなのに、涼子は自分が恐れられることでしほりを皆に認めさせた。
そんな能力の使い方があるなんて知らなかった。もっと自分の知らないことをたくさん知りたかった。この人は直接は教えてくれないかもしれないが、ついて行くことで何か大事なことが学べる気がした。
涼子は自分が起こした騒動が、しほりにとって根本的な解決にならないことにも気づいていた。強大な力によって救われた村の者たちの感謝が、強大な力への恐れに変わるのは時間の問題だった。
やや引け目を感じていた涼子は最終的にしほりがついて来ることを了承し、二人は一緒に各地を巡った。
しほりは涼子を歳の離れた姉のようにしたい、涼子もしほりにさまざまなことを教えた。
やがて涼子が現在住んでいる地域に根付き、廃れていた街を農園を立ち上げて復興させると、しほりは涼子の元を離れていった。
今度は一人で旅がしてみたい、と言い残して。
それ以来二人は会っていなかった。
「あの子は能力のせいで虐げられてきた。だから他人を信じられなくなっちゃったのね。別にそれでも良いんだけど、自分の信じたい人くらいは、信じられるようになってほしかったの。今思うと親でもないのにそんなこと、余計なお世話だったのかもしれないわ」
「ん? そういえば涼子って、今何歳なわけ?」
ドロシーが口を挟むと、涼子さんはくすくすと笑った。
「だから魔女なのよ」
湖岸を吹く風はほんのりと涼しく、涼子さんの長い黒髪が揺れていた。
「しほりさんと、少し話しました。あの人は涼子さんのことを、この世で唯一分かり合える人だと言っていました。……だから殺す、って」
湖の向こう岸を見つめる涼子さんの顔を、風でなびく黒髪が覆った。
「ああ。そういうこと」
長い髪に隠れたその表情は、横からはうかがい知ることはできなかった。
「……当時は私も若かったわ。不安を打ち明ける相手として、幼いしほりを選ぶべきじゃなかったのに。それがあの子を私に執着させ、生き方を縛ってしまった。反省しているわ。未熟だった」
「……そうだったんですね」
「ごめんなさい。こんなこと、希ちゃんに言っても仕方ないことだったわね」
涼子さんの視線が、空へと動いた気がした。
「いえ、そんなこと」
「いいの。これは最初から最後まで、私が原因で、私がなんとかすべきで、私がしほりと、話すべきこと。巻き込んでしまってごめんなさいね」
湖の中央に、空から何かが落下した。
「決着をつけさせてちょうだい」
湖水の中央が盛り上がり、爆ぜた。
わたしとドロシーは時子さんに思いもよらないほど強い腕力で後ろに追いやられた。
すぐさま涼子さんの前に早見さんと時子さんが立つ。
車のクラクションの音がし、迫り来る水流を早見さんの念動力が吹き飛ばした。降り注ぐ飛沫は時子さんがどこからともなく取り出した日傘に遮られ、涼子さんが濡れることはない。
「二人共。もういいわ」
「はい、涼子さま」
「かしこまりました」
水面の盛り上がった湖の中央には、ひとり、あの女が立っていた。どのような理屈かはわからないが、湖面にそのまま立ち、こちらを見ているのがわかった。
「しほり」
決して大きくはない涼子さんの声は、不思議と確かに、彼女に聞こえているようだった。
「おいで」
遠目にも、彼女が小さく頷くのが見えた。
それでいい、と呟いて、涼子さんは微笑みながら少し首を傾げた。
ああ、この仕草は。
そこからは、長いような短いような、不思議な時間だった。
雄叫びを上げるしほりに応えるように、うねる湖水は荒々しい高波と化し、そのまま山ごと崩すのではないかという勢いで押し寄せた。
対峙する涼子さんはひらりと片手で空を払うと、地面から整列した木々が次々と生え、密集したたくましい若木の間をツタがみっしりと覆った。
夏の主を守るために生まれた木々の壁に軌道を逸らされ、水流は涼子さんと屋敷を避けるように二股に分かれて山の斜面を流れ落ちていった。
間髪入れずに涼子さんの足元から水の柱が吹き上がり、涼子さんの姿が飲まれたかと思うと、瞬く間もなく空からさらに太い光の柱が落ち、水柱を飲み込んだ。異様に濃い太陽光が一瞬で水を蒸発させ、辺りを霧が包むやいなや、すぐさま突風が吹き視界が開ける。
地面に立ち軽く髪を整える涼子さんの周りで、止まない風は渦を巻き、辺りが暗くなり始めた。どこか遠くで、低い雷の音が轟き始める。
木々も、風も、太陽でさえも。
夏の生命のすべてが、この人の支配下にあった。
夏に囚われ、夏に呪われ、そして夏に愛された日輪の女王たる高木涼子に挑むのは、歪んだ愛に囚われた、水燿の魔女たる遠目塚しほり。
二人の戦いに割って入ろうとするものなど、この場には誰もいなかった。
巻き込まれないようにするので精一杯というものあったけれど、それはたとえ二人がここまで大規模な能力を持っていなくても、邪魔できるようなものではなかった。
だって二人は、あんなに楽しそうなのだから。
決着は一瞬だった。
しほりの猛攻に涼子さんの防御が間に合わず、涼子さんとわたしたちは屋敷ごと水流に呑まれ、押し流された。
勝ち誇り、高笑いする彼女は、不意にめまいを感じ、ふらついた。
足に力が入らない。水面に倒れ込む体を支えきれず、湖水に沈みかけた彼女の体は、数秒と待たずに引き上げられた。
「しほりさん」
水面に立ち、両手で彼女の服の襟を掴んで引き上げたのは、流されたはずの、わたし。
「涼子さんから伝言です」
濡れた前髪の張り付く顔は、どんな表情を浮かべているのか、こちらからはわからなかった。
「夕飯食べていきなさい、だそうです」
しほりはしばし無言でいたが、やがて観念したかのように大きなため息を吐いた。
「……いただくわ」
水中に半身を浸したしほりさんを引っ張りながら、靴の中に仕込んだ布を交互に固定解除しながら空中を歩いて戻ると、涼子さんの屋敷があったはずの場所は、一面のひまわり畑になっていた。
「みんな無事かしら?」
水流に流され崩れた別宅の、唯一無事だった屋根の部分だけが、地面に残っていた。そこに腰掛けた涼子さんが聞くと、ひまわり畑の各所から返事をするみんなの声がする。
「ぷっはー! 死ぬかと思った!」
「ドロシーちゃん!」
ドロシーの周りは人型のミステリーサークルのように、ごっそりとひまわりが枯れていた。反射的に能力を使ったのだろう。こんな時だけど面白くて、少し笑ってしまった。
別宅が水流に呑まれたのは本当だ。ただし、直撃したわけではなかった。
涼子さんは初めから、気温を操り、光を屈折させて屋敷を別の場所に見せかけていた。
いわゆる蜃気楼である。
戦いの最中、わたしは涼子さんに言われ、最後は水中に沈むであろうしほりさんを助けることになっていた。蜃気楼によって姿を隠し、こっそりと上空を歩いて近づいていたのだ。
涼子さんの能力“九夏”は、およそ夏に起こり得るすべてのことを起こすことができる。
しほりさんが倒れたのは熱中症によるものだった。
ただ日差しを強くしたとかではない。涼子さんは能力の範囲内にいる相手を、いきなり熱中症にできるらしい。
特に直接触ればすぐに相手を熱中症にできるそうなのだが、かなり距離があったため、時間がかかったそうだ。相手自身も気づかないうちに意識を失うレベルで熱中症にできるとは。夏の現象ってそういうのもありなんだ。
水流の直撃は免れたものの、あまりにも広範囲なしほりさんの攻撃は、蜃気楼で隠していた本物の別宅まで及んだ。
全員が屋根の上に移動していたため直接流されることはなかったが、とっさに涼子さんの体が飛ばされないように支えた時子さんと、涼子さん以外は、空中に投げ出された。
「ひまわりって背が高いし。意外と丈夫なのよね」
投げ出されたドロシーと早見さんをキャッチするべく、涼子さんはこの辺一帯をすべてひまわり畑に変えてしまったのだった。
「うーん。でも、困ったわね、時子」
「はい、涼子様」
涼子さんの横に立つ時子さんは、足を揃え、体の前で両手を重ねた美しい立ち姿で、楽しげに返事をした。
涼子さんもまた、腕を組んで頬杖をついてひまわりたちを眺めながら、どこか楽しげに言った。
「どうやって帰ろうかしら」
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