恋を科学しようとするとだいたいこうなる。 恋はデータにならない。

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第1話 理科準備室の出会い──“揺れ”の始まり

 俺の平凡な高校生活は──

 放課後の理科準備室で、白衣の女子にこう言われた瞬間に終わった。


『ちょうどいい。被験者、確保』


 ……数分前。


「断れない性格って、本当に大変なんだね」


 放課後の廊下は、部活に向かう生徒たちの声でまだざわついていた。


 安藤(あんどう)ゆうと 、高校二年。

 特技も実績もない、ごく普通の男子高校生である俺は、担任に押しつけられた「プリント配り」という雑用ミッションを黙々とこなしていた。


「一年B組……三年A組……っと。あとは──理科準備室?」


 プリントの最後の一枚に、小さくそう印字されている。


「なんで教室じゃなくて準備室宛てなんだよ……」


 ぶつぶつ文句を言いながら、俺は校舎のいちばん奥へと歩いていく。

 突き当たりに、とってつけたみたいなプレート。


『理科準備室』


 すりガラス越しに、蛍光灯の白い光がぼんやりにじんでいる。

 中から、人の気配があるような、ないような。


「……失礼しまーす」


 軽くノックしてからドアを開けた瞬間、薬品の匂いと金属の擦れるような音が、鼻と耳を刺した。


 壁際の薬品棚、ステンレスの実験台。

 使い方のわからない装置がいくつも並ぶ、典型的な“理科準備室”の光景。


 その真ん中で──白衣の少女が、奇妙な機械のパネルを睨んでいた。


「……また壊れてるのかよ、この装置。文化祭まで時間ないんだけど」


 肩で切りそろえた黒髪、

 無駄のない動きと、無機質っぽい声。


 黒羽(くろは)アヤ。


 クラスは違うが、名前は知っている。テストでは常に上位、理系科目は教師より強いという噂の“ガチ理系女子”。


(本当に白衣着てる……キャラ濃っ)


 思わず足を止めたその瞬間、彼女が顔を上げた。


 黒い瞳が、ドアのところに立つ俺を正面から捉える。


「……え」


 ほんの一秒だけ、アヤの目が驚いたように泳いだ。


 だがすぐに、表情は氷みたいな無機質さを取り戻す。


「お前……勝手に入ってくるなって言ったはずだろ、安藤」


「いや、今初めて会話したよな!? 俺、今日初ログインなんだけど!?」


 反射的にツッコむと、アヤはきょとんと目を瞬いた。


「……そうだった。まだ“実験対象A”として登録前だった」


「なんかデータベースにぶち込まれる前提で話進めないでくれない!?」


 彼女はこほんと小さく咳払いをして、俺の手元に視線を落とす。


「そのプリント、何?」


「あ、これ。担任から。『理科準備室に届けてこい』ってさ」


 俺がプリントを差し出すと、アヤは無表情のまま受け取る。

 その長い指が紙を挟んだ瞬間──彼女の動きがぴたりと止まった。


 なにか、閃いたみたいな顔。


 そして──


「ちょうどいい。被験者、確保」


「は?」


 意味を理解する前に、俺の手首が細い指でがしっと掴まれる。


「ちょ、ちょっと待て黒羽さん!? 俺まだプリント届けに来ただけで──」


「うるさい。時間がないの。文化祭までに“恋愛行動の心拍変動データ”を揃えないといけない」


「なんか危険な単語が二、三個ほど聞こえたんだけど!?」


 有無を言わせず引っ張られ、俺は準備室の奥、見たことのない装置の前に連行された。


 椅子が一つと、コードだらけの機械がいくつも。

 パネルには、心電図みたいな波形グラフが表示されている。


「そこに座って」


「いやいや、まず事情説明という概念をだな──」


「説明するから座って」


 きっぱり言い切られ、よくわからない説得力に負けて、俺は椅子に腰を下ろしてしまった。


 次の瞬間、背もたれの両側から金属のアームが伸びてくる。


「うおっ!?」


「安心して。ただの固定具。安全性はちゃんとテスト済み」


 カチリ、カチリと音を立てて、俺の腕と上半身が椅子に固定されていく。


(いや全然安心できねぇからな!?)


 心の中で全力ツッコミしている間にも、アヤの手は迷いなく動く。

 コードの先についたセンサーが、俺の胸元へいくつもペタペタ貼り付けられていった。


「ちょ、ちょっと! どこまで付ける気だよ!?」


「心拍、呼吸、皮膚温度。それから視線の動き」


 彼女は事務的に答えながら、胸の真ん中あたりのセンサーを微調整する。

 シャツ越しに触れる指先が、ひやっとしていて、妙に意識してしまう。


 胸の内側に、変な熱がこもる。


(やべ……女子にこんな距離で触られるの、人生初なんだけど)


「……ふむ。安静時心拍数、やや高め」


 アヤがモニターを見て、小さく呟いた。


「そりゃさっきからの流れのせいだわ!」


「実験前の基準値として重要だから、黙ってて」


 一刀両断。


 装置のランプが一斉に点灯し、ピッ、ピッ、と電子音が鳴り始める。

 モニターには俺の心拍数と波形グラフが、リアルタイムで表示されていた。


「では、実験を開始します」


 アヤが椅子の正面に立つ。

 距離、およそ五十センチ。


 白衣の裾がふわりと揺れて、淡いシャンプーの匂いが微かに漂った。


「今回のテーマは“異性との距離変化が心拍に与える影響”。

 恋愛行動を、ちゃんと数字で証明する」


「なんか青春の神秘を殺しにかかってない?」


「静かに。まずは距離五十センチを基準とします」


 床には、小さなテープが二枚貼られていた。

 アヤはその一枚目の上に、靴先をきっちり揃える。


「現在、被験者A──安藤ゆうと 。心拍数、毎分八十二。わずかに高め」


「それ逐一読み上げる必要ある!?」


「ある。実況は大事」


 いやその実況は求めてない。


「では、距離を詰めていきます。五十センチから──」


 アヤが一歩、前に出る。


「四十センチ」


 床の二枚目のテープ。

 さっきより、明らかに近い。


 視界の中で、白衣と黒髪の占める割合が増える。

 モニターの数字が、八十七、九十、九十三と、じわじわ跳ね上がっていく。


「……十センチ接近で心拍数約一一%増加。面白い」


「人の心臓を面白いって言うな!」


「褒め言葉」


 アヤの目が、興味深そうに細められる。

 その顔が、さっきより近くて、なんかズルい。


「じゃあ、次──」


 彼女が、もう一歩前に出る。


 白衣の裾が、俺の膝にかすりそうな距離。


 距離、三十センチ。


 互いの息遣いが、微かに届く。

 メガネの奥で揺れる瞳まで、はっきり見える距離。


「……っ」


 喉がからんと鳴った。


 ピピッ、ピピピッ、ピピピピッ──。


 心拍計の音が、一気にせわしなくなる。

 数字は百を超え、波形グラフが高く跳ねた。


「おお……“未知の反応”」


 アヤが小さく息を呑む。


「未知とか言うな! 俺の心臓だぞ、それ!」


「ここまでの変化は想定以上。被験者A、恋愛刺激への感受性が高い可能性」


「勝手に属性盛るな!」


 そうツッコみながらも、視線を逸らせない。


 近い。

 本当に、近い。


 アヤの睫毛の一本一本、耳たぶの柔らかそうなライン──その全部が目に入ってしまう。


 そんな距離で、彼女と目が合った。


「……」


「……」


 沈黙。心拍計だけが、ピピピッと騒がしく鳴り続ける。


 アヤの肩が、ほんの少しだけ、強張った気がした。


「……データは、良好」


 無理やりいつもの無機質ボイスを作り直したみたいな声。

 けれど、白衣の襟元から覗く首筋と耳たぶは、うっすらと赤く染まっていた。


(え、今ちょっと照れた……?)


 そう思った瞬間、心拍計の数字がさらに跳ねる。


 ピピピピピッ。


「──距離、三十センチ。

 ここから先が、“本当の実験”」


 アヤが小さく息を吸い込む。


 世界が、一瞬だけ静まり返ったように感じた。


 距離、三十センチ。

 白衣のツンデレ理系女子と、固定された俺。


 心拍計の音だけが、やけに大きく教室に響いていた。


 ──俺の日常は、この三十センチから確実におかしくなっていく。


 それを、まだこのときの俺は知らない。

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