第2話 1年目──新婚旅行の喧嘩
離婚式の申し込みを済ませて帰る車の中で、美沙がぽつりとつぶやいた。
「……1年目のこと、覚えてる?」
「1年目?」
「新婚旅行で、大喧嘩したでしょ。あの時、あなたが海に向かって“知らん!”って言って歩いて行ったやつ」
亮介は、久しぶりに顔をしかめた。
「ああ……あれか。忘れてたかったやつな」
車窓の外には、夕焼けが黙って沈んでいく。
二人は一度だけ微笑んで、20年前の思い出にそっと触れた。
⸻
◆
新婚旅行の行き先は沖縄だった。
ふたりとも初めての南国で、ホテルのロビーでさえテンションが上がり、美沙は小さな貝殻のキーホルダーを買い、亮介は部屋のバルコニーから海を見て「おお……」と子どものようにはしゃいでいた。
だが翌日、ツアーの自由時間に事件は起きた。
「このビーチ行こうよ!」
「いや、こっちの海中展望塔の方が絶対いいって」
行きたい場所が真逆だった。
「昨日はあなたの行きたい場所に行ったでしょ」
「だから今日は俺が……」
「そんなの言ってない!」
「言ってたよ!」
声が大きくなり、とうとう亮介が言い放った。
「じゃあ勝手にすればいいだろ!」
そして、炎天下のビーチに向かってズカズカ歩き始めた。
美沙は怒りと呆れと悲しみが混ざって、白い砂浜の上でぽつんと立ち尽くした。
あとで思えば、ただの“慣れない旅行の疲れ”だった。
だけどあの時は、世界の終わりみたいに胸が痛かった。
その日の夜、海の見えるレストランで、亮介がぽつりと言った。
「……悪かった」
「……うん」
視線は合わせなかったが、テーブルの下で手が触れたのを美沙は覚えている。
亮介も、その温度を忘れられなかった。
あれが二人の“初めての衝突”で、そして“初めての仲直り”だった。
◆現在──車の中
「思い出すと、なんか可笑しいよね」
美沙が窓の外を眺めながら笑う。
「お互い若かったしな。あの頃は、素直になる方法がわからなかった」
亮介の言葉は、どこか静かに沈んでいた。
20年経った今のほうが、むしろ“素直”から遠くなっている気がしたからだ。
「ねえ、離婚式……何話そうか」
「なんだ、もうスピーチの準備か?」
「だって、20年分だよ? 思い出だけでも山ほどあるじゃない」
亮介は小さく頷いた。
その横顔に、20年の重みが滲んでいた。
──あの日の喧嘩のように、
素直になれなかった瞬間は、きっと何千回もあった。
その積み重ねが、二人をここへ連れてきた。
だが、美沙は続けた。
「でもね……今日はあの時みたいに、“勝手にすれば”って思わなかったよ」
それは、ほんの小さな告白だった。
亮介は初めて、それが嬉しいと思った。
「……そっか」
車は家に向かって静かに進む。
二人は、20年前と同じように同じ方向を見てはいるが、
その距離は少しだけ離れていた。
離婚式まで、あと六日。
ふたりはまだ、語るべき7300日のほとんどを胸にしまったままだった。
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