流し屋日和

宵風 時雨(よいかぜ しぐれ)

第1話 流し屋、始めました。

 悩みを聞いて、少しだけ軽くして返す――そんな“流し屋”を始めた。


 商店街の外れにある雑居ビルの二階。

 最後の階段を上がると、焙煎豆の香りが微かに漂ってきた。

 古い建物特有の埃っぽい空気に、その匂いが混じっている。

 なぜか、それが落ち着く。


 廊下の奥には、すりガラスの引き戸。

 手書きの文字で「流し屋」と書かれた札が、少し傾いてぶら下がっている。

 木の枠は日に焼け、角が丸くすり減っていた。

 初めて訪れる人なら、まず戸惑うだろう。

 何の店なのか、何を売っているのか――まるで分からない。

 そして実のところ、看板を出している本人たちも、まだよく分かっていなかった。


 柊木彰人は、窓際の椅子に腰をかけていた。

 古びた木のテーブルの上には、新発売のノートパソコンと半分飲みかけのコーヒー。

 窓の外には、昼下がりの商店街がゆれている。

 豆腐屋のラッパの音が遠くから響き、そよ風とともにどこかの焼き鳥の煙が流れてきた。


「なあ、克也」

「んー」


 カウンターの奥で文庫本を読んでいた土井克也が、気の抜けた返事をする。

 彼はいつも気怠げで、何事にも無関心。

 だが彰人にとっては、一番話の合う友人でもあった。


「俺らの仕事って、結局なんなんだろうな」

「今さらか?」

「だって、まだ誰も来てないじゃん」

「開業して三日で客が来たら、それもう繁盛店だろ。人生そんな甘くねぇよ。このコーヒーみたいにな」


 彰人はつまらないはずのジョークに笑いをこらえながら、カップを持ち上げた。

 一口啜ると、やはり苦い。少し冷めている。

 克也の淹れるコーヒーは、いつもこうだ。

 決して美味しくはないが、なぜか落ち着く。

 少しだけ雑で、少しだけ人間くさい味。

 そしてたぶん、それがこの店の空気そのものだった。


「俺たち、“流し屋”って看板出してるけどさ」

「うん」

「何を“流す”か、決めてないよな」

「抱えてる悩みを聞いて、受け流す。それでいいんだよ」

「……それ、仕事って言うか?」

「知らん。でも、俺たちがやるなら、そういうもんだろ」


 克也は本をぱたりと閉じて、背伸びをした。

 木の床がミシッと鳴る。

 午後の光が窓から斜めに入り、舞う埃がゆっくりと回転していた。


「まあ、来た人の話を聞いて、うんうんって頷いて、ちょっとだけマシな方向に押してやる。ゆるいくらいでいいんじゃね?」

「ほどほどに?」

「ほどほどに」


 二人は同時に笑った。

 それが、この店の最初の合言葉になった。


 午後二時。

 時間の流れがいったん止まったように感じられる。

 通りでは子どもがアイスを持ってはしゃぎ、遠くの工事現場では解体の音が響く。

 そんな音をBGMに、彰人はノートパソコンの画面をぼんやり見つめていた。

 開いたままの文書ファイルには、「流し屋・営業方針(仮)」というタイトルだけが残っている。

 本文は、まだ真っ白だ。


 そのとき――

 ――コン、コン。

 引き戸の向こうから、小さな音がした。


「お、来たか?」

「いや、風だろ」


 克也が立ち上がる。

 しかし、すりガラスの向こうに確かに人影があった。


「……すみません、“流し屋”って、やってますか?」


 若い女性の声だった。

 彰人と克也は一瞬だけ顔を見合わせる。

 そして、彰人が口を開いた。


「やってますよ」


 引き戸がゆっくり開く。

 白いワンピースを着た女性が立っていた。

 風鈴の音と一緒に、晩夏の湿った風が店に流れ込む。


「よかった。誰もいないかと思いました」

「どうぞ」


 彰人が椅子を引く。

 克也は電気ケトルのスイッチを押しながら、口元をゆるめた。


「いらっしゃいませ。ここ、“なんでも流す”お店です」


 女性は一瞬ためらい、それから小さく笑った。

「……じゃあ、お願いしてもいいですか。“別れ話”を、流してほしいんです」


 克也が湯を注ぐ音が、静かな室内に響いた。

 やかんの口から立ち上る蒸気が、細い糸のようにゆらりと揺れる。


「別れ話を、流す?」

 彰人が復唱した。

 女性は小さく頷く。「はい」


「どんなふうに?」

「……彼に、別れ話をする勇気がなくて。もう半年くらい、惰性で続いてるんです」

「終わらせないと、と思ってる?」

「はい。でも、怖いんです。傷つけたくなくて」


 克也がカップを二つテーブルに置いた。

 コーヒーの湯気がふわりと広がり、彼の目が細くなる。


「気持ちを、流したいんですね」

「はい。なんかこう、心に溜まった泥水みたいなのを、少しでも減らせたらなって」


 彰人は苦笑する。

「下水処理場じゃないですけどね」

「ですよね」


 女性もつられて笑う。

 その笑顔を見て、彰人はふと考えた。

 “別れ話”の裏にあるのは、残る側の寂しさだ。

 去る人は覚悟を決めている。

 けれど、心に残された人ほど、流せずに濁る。


「じゃあ、お名前をお聞きしていいですか?」

「真田遥(さなだ・はるか)です」

「真田さん、はい」


 克也が古いノートを開き、さらさらとメモを取る。

 それは形式というより、儀式に近かった。

 ――初めての依頼人。“流し屋”の最初の記録が、いま始まった。


「彼とは、長いんですか?」

「大学一年のときからだから……三年半になります」

「長いですね」

「うん。最初は、何をしても楽しかったんですけど。気づいたら、話さなくなってて」

「話さなくても続く関係って、悪くないと思うけど」

 克也が言う。

 遥は苦笑した。

「でも、沈黙が楽しい時期は、もう過ぎちゃってて」


 静寂。

 コーヒーの香りが、部屋いっぱいに広がる。

 風鈴が、かすかに鳴った。


「なるほど。じゃあ今日のご依頼は、“流したい別れ話”ですね」

「はい」

「流したあと、どうしたいですか?」

「……どう、したいんだろう」


 遥はうつむき、少しの間をおいて言った。

「たぶん、“もう終わりでいい”って、誰かに言ってもらいたかったのかもしれません」


 彰人と克也は、目を合わせる。

 その短い視線のやりとりだけで、答えは決まっていた。


「じゃあ、そういうことにしましょう」

 彰人が微笑む。

「“別れ話は、今日この場で終わり”。流し屋の責任で、ちゃんと流しました」

「……そんな簡単でいいんですか?」

「簡単でいいんです。うちは、そういう店なんで」


 克也が続ける。

「ここでは、悩みを“解決”はしません。

 でも、“持ち帰らせない”ようにはしてます」

「持ち帰らせない?」

「ええ。ここで話して、置いていく。それで十分です」


 遥は小さく笑った。

「……なんか、変な店ですね」

「ありがとうございます」

 彰人が軽く頭を下げた。


 外では風が強くなり、風鈴が鳴り続けた。

 夏の終わり。どこか寂しくて、心地いい風。


「料金は?」

「気持ちが軽くなった分だけ、ってことにしてます」

「そんなの、分かりませんよ」

「じゃあ、ゼロで」

「ゼロ?」

「はい。うちは儲ける気がないんで」


 遥は息を吐き、目を伏せた。

「……変な店だけど、来てよかったです」


 彼女は立ち上がり、深く一礼して去っていった。

 階段を下る足音が、ゆっくりと遠ざかる。

 ドアが閉まると、店の中に静けさが戻った。


 克也がコーヒーを飲み干して言った。

「初仕事、終了だな」

「そうだな」

「なんか、いいことした気はしないな」

「悪いこともしてないだろ。こんな感じでいいんだよ」

「ほどほどに?」

「ほどほどに」


 二人は同時に笑った。

 その笑い声が、少しだけ店の空気をやわらかくした。


 外では、商店街のシャッターが一枚ずつ降りていく音がする。

 今日が終わっていく。

 でも、また明日も“流し屋”はのれんを出すだろう。


 ――悩みを流すために。

 そして、自分たちの人生も、ゆっくりと流していくために。

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