【AI小説】鎮魂歌(レクイエム)は倍音で
大隅 スミヲ
第1話
世界が狂い始めた合図は、安っぽい音で始まった。
「パチッ」
ガスコンロのつまみを戻す。だが、火は消えない。それどころか、隣のバーナーから青白い炎が嘲笑うように噴き出した。
「おい、どうなってる」
私は近くにいた同僚に顎でしゃくった。
「配線がイカれてるのか、それとも俺の頭がイカれたのか。どっちだ?」
同僚たちは無能な羊のように首を傾げるだけだ。
「さあ」
「経年劣化じゃないですか」
誰も火を消そうとしない。ゴーゴーと音を立てるその炎は、これから訪れる地獄の予行演習に見えた。
私は胸ポケットから煙草を取り出し、その暴走する炎で火を点けた。深く紫煙を吸い込む。
「ミーティングだ」
上司の声がする。私は燃え続けるコンロに背を向けた。どうせこの世の全ては、遅かれ早かれ燃え尽きる運命だ。
正午。私は街の喧騒を逃れ、会員制のイタリアンレストランの重い扉を押した。
照明を落とした店内には、金と退屈の匂いが充満している。
「食前酒は?」
「バーボンだ。ロックで」
私は即答し、テーブルについた。
平和なランチタイムは、向かいの席に座る豚のような男の一声で終わりを告げた。
「止めろ! その湿気たクラシックを止めろ!」
男は指揮者のように手を振り回し、連れの女を指差した。
「俺が聴きたいのは『生』だ! 彼女のホーミーを聴かせろ!」
狂っている。だが、今の私にはお似合いの余興だ。
女が立ち上がる。無表情な仮面のような顔から、信じがたい重低音が放たれた。
「ヴォォォォォォォ…………」
空気が震える。喉を締め上げ、二つの音を同時に響かせるモンゴルの倍音唱法。
地を這うような唸り声の上に、鋭い金属音がヒュルヒュルと重なる。
その不協和音は、高級レストランの空気を一瞬で荒野のそれへと変えた。
私はグラスのバーボンを呷った。喉を焼くアルコールと、鼓膜を震わす倍音。
悪くない。この不穏な響きこそ、今の俺たちの世界には相応しい。
店を出て、馴染みの書店へ足を向けた。
インクと紙の匂いだけが、俺の神経を鎮めてくれる。だが、それも長くは続かなかった。
「ジリリリリリリリ!!」
非常ベルが悲鳴を上げる。
「逃げろ!」
「喰われるぞ!」
本を放り出し、出口へ殺到する群衆。ガラス戸の向こうには、すでに腐臭を漂わせた「かつての人間たち」が群がっていた。
ガラスが砕け、鮮血が舞う。愚かな羊たちが、狼の群れに飛び込んでいく。
「馬鹿な連中だ」
私は舌打ちをし、逆方向へ歩き出した。
混乱する店内をかき分け、迷わず奥の棚へ向かう。「ハードボイルド」の棚の隣、「自衛火器」のコーナーだ。
俺はショーケースを肘で叩き割り、一丁のショットガンを掴み出した。
レミントンM870。ポンプアクションの名機だ。
ずしりとした鋼鉄の重みが、手のひらから脊髄へと伝わる。
これが俺のペンであり、俺の言葉だ。
『ジャキッ!』
「道を開けろ。死にたい奴以外はな」
裏口を蹴破る。路地裏はすでに死臭で満ちていた。
よろよろと近づいてくる元サラリーマンのゾンビ。その濁った眼球が俺を捉える。
「あ……アァ……」
「残業は終わりだ」
『ズドン!』
轟音。散弾が男の上半身を粉砕する。
ポンプを引く。空薬莢が宙を舞い、アスファルトに触れて高い音を立てた。
次。
『ジャキッ、ズドン!』
迫りくる腐肉の群れを、リズムよく肉塊へと変えていく。
反動が肩に食い込む。硝煙が鼻をつく。
俺は走った。銃身から立ち上る陽炎の向こうに、バリケードが見える。
味方のエリアだ。
「撃て! 援護しろ!」
乾いたライフルの音が頭上を飛び交う。俺は滑り込むようにゲートの中へ飛び込んだ。
「閉めろ! 早くしろ!」
重厚な鉄扉が轟音と共に閉ざされる。俺は冷たいコンクリートの床に背中を預けた。
荒い息が整わない。
「……おい、その腕」
同僚であるジャックの声が凍りついている。
俺は自分の左腕を見た。ジャケットの袖が裂け、そこには赤黒い歯型が刻まれていた。
痛みはない。あるのは、焼けつくような熱だけだ。
「……クソッ」
短く吐き捨てる。
視界が歪む。脳裏にフラッシュバックするのは、あの消えないガスコンロの炎だ。
いくら消そうとしても無駄だった。あれは俺の運命そのものだったのだ。
破滅はいつだって、消したはずの場所から噴き出してくる。
「離れろ」
俺は立ち上がり、愛用のレミントンを構え直した。銃口を向ける先は、かつての仲間たちではない。
閉ざされたばかりの鉄扉だ。
「何をする気だ!」
「俺はここで降りる。だが、手ぶらじゃ行かねえ」
耳の奥で、あのホーミーが鳴り響いている。
「ヴォォォォォ……」
いや、それは俺の喉から漏れる音だったか。
意識が黒く塗りつぶされていく中で、俺は最後の力を振り絞り、ポンプを引いた。
『ジャキッ』
いい音だ。
俺は扉のロックを撃ち抜くと同時に、ゾンビの群れが待つ外へと踊り出た。
「さあ、パーティの続きだ。派手にやろうぜ」
引き金を引く指が腐り落ちるその瞬間まで、俺はこのワルツを踊り続けてやる。
(了)
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