第9話 林業士・源田守の日常
第一章:白い灰と、遠ざかる聴覚
奥多摩の深山。チェーンソーのエンジンを切ると、世界から音が消えた。
林業士の源田守(げんだまもる・三十八歳)は、ヘルメットのバイザーを上げ、違和感に眉をひそめた。
「……雪か?」
鉛色の雲から、白い粉がサラサラと降ってくる。
グローブで受け止めると、それは溶けず、指先でジャリッと音を立てた。石灰のような乾いた粉だ。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
吸い込んだ瞬間、喉の奥が紙やすりで擦られたように焼けた。
源田は足元に落ちてきた握り拳大の塊を拾い上げた。
白い石に見える。だが、表面には鳥の羽毛の模様が刻まれ、断面からは赤黒い筋繊維が垂れ下がり、まだ微かに痙攣していた。
「なんだ、これ……病気の鳥か?」
源田はその塊を放り投げた。
山仕事をして二十年、見たことのない異物だ。
だが、本能が警鐘を鳴らしている。これは触れてはいけないものだ。
キィィィィン……。
突然、耳の奥で高い金属音が鳴り始めた。
風の音が遠のく。自分の心臓の音だけが、ドクン、ドクンと不快なほど大きく響く。
視界の端が、テレビの砂嵐のようにチカチカと明滅し始めた。
(……おい、なんだ。熱中症か?)
違う。涼しいはずの山気が、今は生温かく、腐った獣の臭いを運んでくる。
自分の体が、急速に「何か」に書き換えられていく感覚。
これが、街の連中が噂している**「触るとヤバい風邪」**ってやつなのか?
第二章:壊れたスプリンクラー
森林管理小屋へ戻る獣道は、白い霧――いや、石粉の煙幕に覆われていた。
足元がふらつく。平衡感覚がおかしい。
カ……ン……。
カ……ン……。
前方から、硬い石同士を叩きつけるような音が近づいてくる。
霧の中から現れたのは、体長一メートルほどの鳥――**『Zコカトリス(若鳥)』**だった。
その姿は、生き物というより「壊れた機械」に近かった。
翼の半分が石化して垂れ下がり、羽ばたくたびにガリガリと自分を削りながら、周囲に猛烈な勢いで粉を撒き散らしている。
(なんだあいつ……自分が壊れるのも構わず……)
制御が効いていない。
まるで、ウイルスに脳を乗っ取られ、ただ感染源を広げるためだけの**「自壊するスプリンクラー」**にさせられているようだ。
ギャァ……ッ!
Zコカトリスが飛びかかってきた。
源田は反射的にチェーンソーを構えたが、指先の感覚が鈍い。エンジンの始動音が、水底で聞くように籠もって聞こえる。
ガギィッ!!
刃が石化した翼を弾く。
火花が散り、コカトリスが転がる。
だが、すぐに起き上がろうとして――突然**「停止」**した。
片足を上げたまま、彫像のように固まる。
チャンスだ。なのに、源田の足も動かなかった。
視界の中で、コカトリスが二重三重にブレて見える。
幻覚だ。ウイルスが視神経に入り込んでいる。
源田は舌を噛んで意識を保ち、よろめきながら管理小屋へと走った。
第三章:粘つく床と、八つの眼
源田は管理小屋に滑り込み、閂(かんぬき)をかけた。
「はぁ、はぁ……!」
安全地帯のはずだった。
だが、ブーツの裏が、ヌチャッと嫌な音を立てて床に張り付いた。
「……あ?」
床一面に、薄く透明な粘液が広がっていた。
見上げると、天井から無数の糸が垂れ下がり、その中心に登山ウェアを着た男が吊るされていた。
男はまだ生きていた。だが、口を半開きにして痙攣し、その体温を糸を通じて吸い取られているように見えた。
カサカサ……。
壁の板の隙間から、毛の生えた黒い脚が一本、また一本と突き出してくる。
天井の梁には、八つの赤い目が光っていた。『Zヤマグモ』。
ここはもう小屋じゃない。怪物の胃袋の中だ。
ドオン!
背後の扉に衝撃が走る。コカトリスの石粉が隙間から吹き込んでくる。
外には石化の毒、中には溶解の糸。
「クソッ、目が見えねえ……!」
源田は目をこすった。
白いもやがかかっている。角膜が石化し始めているのか、それとも幻覚なのか。
吊るされた登山者が、ゆらりと首を動かし、源田を見た気がした。
その顔が、一瞬、自分の死に顔に見えた。
「どけぇッ!」
源田は叫び、裏側の壁板に向かってチェーンソーを突き立てた。
バリバリバリッ!
木屑と共に壁が壊れる。源田は裏手の斜面へと転がり出た。
第四章:散らばる殻と、空への消失
斜面を滑り落ちながら、源田の意識は混濁していた。
耳鳴りがサイレンのように響く。
背後から、ギギ……ガキン……という、登山者の関節が石化して擦れる音が追いかけてくる幻聴が聞こえる。
足を滑らせ、宙に浮く。
衝撃。そして暗転。
***
冷たい風で目が覚めた。
そこは、霧の晴れた谷底だった。
源田は痛む体を起こし、息を呑んだ。
谷底一面に、巨大な白いドーム――石化した巨大な卵の殻が、墓標のように散乱していた。
その大きさは、山の上で見た「若鳥」の比ではない。
殻の厚さだけで十センチはある。
(……あいつは、ただの出来損ないだったのか)
親鳥は違う。
若鳥のように自壊しながら毒を撒くのではない。もっと強靭で、完成された捕食者として、ここから巣立ったのだ。
源田は地面を見た。
濡れた土の上に、恐竜のような巨大な三本指の足跡が無数に残っていた。
その足跡の間には、ボタボタと新しい血痕が落ちていた。
すでに何か(鹿か、熊か、あるいは人間か)を襲い、腹を満たしてから移動した証拠だ。
足跡を目で追う。
下流へ。街の方角へ。
そして――
「……消えてる」
足跡は、川辺の開けた場所で、唐突に途切れていた。
その先には、何もない。
ただ、大きく助走をつけて地面を蹴った跡と、風に乗って舞う数枚の石化した巨大な羽だけが残されていた。
奴らは歩いていったんじゃない。
翼を広げ、空を飛んで、街へと向かったのだ。
源田は空を見上げた。
鉛色の雲の向こう、麓の街(さくら台)の上空に、見えない影が落ちていくような気がした。
「……逃げろ」
誰にともなく呟いたその声は、掠れて音にならなかった。
源田は壊れたチェーンソーを杖に、よろめきながら立ち上がった。
彼の目には、もう白い霧しか映っていなかった。
(第九話 完)
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