第9話
「カフェ・ミュレット」が開店してから、一週間が過ぎた。
その間の客は、変わらずゼノン・グレイフォードただ一人。
彼は毎日、任務が終わると律儀にこの裏路地のカフェを訪れた。そして、アミュレットがその日の気分で作ったお茶とお菓子を、至上の喜びといった顔で味わい、短い感謝の言葉を残して帰っていく。
アミュレットにとって、それは悪くない日常だった。
誰にも邪魔されず、自分のためだけに厨房に立つ。新しいレシピを試し、完璧な味を追求する。そして、それを心から美味いと感じてくれる、たった一人の客がいる。経営という観点から見れば落第点だが、彼女の「退屈しのぎ」としては上々だった。
しかし、このあまりに平和な状況に、我慢の限界を迎えている存在がいた。
聖剣アルドゥインである。
その日、ゼノンはアミュレットが試作したばかりの、熱々のアップルパイを堪能していた。キャラメリゼされたリンゴの甘酸っぱさと、サクサクのパイ生地、そして添えられた冷たいアイスクリームの組み合わせは、まさに悪魔的な美味しさだった。
『……ゼノンよ』
ゼノンの脳内に、どこか不満げなアルドゥインの声が響く。
(なんだ。今、集中している。邪魔をするな)
『このままではいかんぞ!』
(何がだ。毎日これほど美味しい菓子が食べられて、何の不満がある)
『否! 断じて否! この神の如き味が、我ら二人だけにしか知られていないなど、あってはならんことだ! これは世界にとっての、いや、全人類にとっての重大な損失である!』
(大袈裟なやつだ)
『それだけではない! 我はもっと見たいのだ! この味を初めて知った人間たちの、驚きと感動に打ち震える顔を! その魂の輝きこそが、我ら聖剣にとって最高の栄養となるのだ!』
要するに、もっと注目されたいし、他人の反応を見て楽しみたい、ということらしい。聖剣の威厳など欠片もない。
ゼノンはアルドゥインの戯言を無視し、最後の一口を名残惜しそうに味わった。
『……ちっ、この朴念仁め。お前が動かぬなら、我が動くまでのこと!』
(おい、何を……)
ゼノンの制止も虚しく、アルドゥインは独断でその力を解放した。
店の外、大通りを歩いていた恰幅のいい商人風の男の脳内に、突如として荘厳な声が響き渡った。
『そこのお主! そう、赤いターバンを巻いたお主だ! その忙しない足を、今すぐ止めるがいい!』
「ひっ!? だ、誰だ!?」
商人は驚いてあたりを見回すが、誰も彼に話しかけた様子はない。
『お主の人生には、まだ味わうべき至福が残されているぞ! このまま通り過ぎるは、あまりに愚か!』
幻聴か、あるいは疲れているのか。商人は首を傾げたが、その声には不思議と逆らえない力があった。
『さあ、恐れるな! その角を曲がり、細い路地へと進むのだ! そこに、お主の運命を変えるパイがある!』
「運命を変える……パイ……?」
商人は、まるで何かに導かれるように、ふらふらと裏路地へと足を踏み入れてしまった。
アルドゥインの客引きは、それだけでは終わらない。
買い物帰りの主婦二人組にも、その声は届けられた。
『おお、か弱き乙女たちよ! 日々の生活に疲れてはおらぬか?』
「きゃっ!」「な、今の声は!?」
『癒しを求めるのなら、我が指し示す光の道へ! そこには、どんな宝石よりも甘美なタルトが、あなた方を待っている!』
二人の主婦は顔を見合わせ、恐怖と好奇心に揺れながらも、ゆっくりと路地へ入っていく。
その結果、静かだった「カフェ・ミュレット」のドアが、立て続けに開かれることになった。
「あ、あのう……」
おずおずと入ってきたのは、商人風の男と、主婦二人組だった。
厨房で片付けをしていたアミュレットは、初めて見る客の顔に、ぴたりと動きを止める。そして、彼女の口から出た第一声は、歓迎の言葉ではなかった。
「……何か?」
そのあまりに無愛想な対応に、三人の客はびくりと肩を震わせる。
(客……? 面倒だわ)
それがアミュレットの偽らざる本音だった。
一方、ゼノンは目の前の光景に愕然としていた。
(アルドゥイン……貴様、本当にやりやがったな……!)
客たちは、あまりの塩対応に帰ろうかとも思ったが、店内にふわりと残る甘い香りに引き留められる。
「あ、あの……何か、温かいものと、甘いものを……いただけませんか」
商人が、勇気を振り絞ってそう言った。
アミュレットは小さく、本当に小さな溜息をつくと、無言で頷いた。
「……コーヒーと、アップルパイでよろしいですね」
やがて、三人の前に、先ほどゼノンが食べていたものと同じアップルパイと、淹れたてのコーヒーが置かれた。
客たちは、無愛想な美人の店主を前に緊張しながらも、恐る恐るパイを口に運ぶ。
そして、次の瞬間。三人の顔が、驚愕と、歓喜と、至福に彩られた。
「なっ……! なんだこれは! 美味い! 美味すぎるぞ!」
「まあ……! こんな美味しいアップルパイ、生まれて初めて食べたわ!」
「天国って、ここのことだったのね……!」
彼らの魂が放つ輝きに、アルドゥインは『ふっふっふ、そうだろうそうだろう』と満足げに頷いている。
アミュレットは、その騒ぎを少し離れた場所から無表情に眺めているだけだった。
その日、店を出た三人は口々に語り合った。「裏路地に、謎の天啓に導かれてたどり着ける店がある」「店主は氷のように美しいが、驚くほど無愛想だ」「しかし、そこ菓子の味は、間違いなく天国の味だ」と。
王都の片隅で、奇妙で魅力的なカフェの噂がこうして静かに広まり始めたのだった。
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