第6話
アミュレットが足を踏み入れた店内は、ひどく埃っぽかった。
差し込む光の筋に、無数の塵がキラキラと舞っている。テーブルや椅子には白い布が掛けられているが、その上にも長い年月の跡が積もっていた。
だが、嫌な感じはしない。むしろ、時間が止まったようなこの静けさが、アミュレットの心を落ち着かせた。
彼女はまず、店の奥にある厨房へと向かった。
調理台は古く、棚の食器も時代を感じさせるものばかり。しかし、どれも丁寧に手入れされていたことが分かる。前の店主がこの場所を愛していた証拠だろう。
アミュレットは片隅に、レンガ造りの大きなオーブンを見つけた。
(これは……使えるかもしれないわね)
試しに魔力を少しだけ流してみると、オーブンの奥で小さな火が灯った。どうやらまだ現役らしい。
その時だった。店の入り口のドアが、ためらうようにゆっくりと開いた。
「誰か、いるのか」
低く、落ち着いた男の声。そこに立っていたのは、漆黒の騎士服に身を包んだ青年だった。第5話でアミュレットを物陰から見ていた男、ゼノン・グレイフォードその人である。
彼の脳内では、直前までこんなやり取りが繰り広げられていた。
『おい小僧! いつまでここで石になっているつもりだ! 行け! 突撃だ!』
(断る。俺は騎士だ。故なくして淑女のプライベートに踏み込むわけにはいかない)
『ええい、この朴念仁が! ならば仕方ない!』
聖剣アルドゥインが独断で魔力を発動し、ゼノンの背中を物理的にドンと押したのだ。その結果、彼はよろめきながら店内に入ってしまったというわけだった。
アミュレットは、突然の侵入者に驚くでもなく、ただ静かに振り返った。
「……何かご用でしょうか、騎士様」
「王宮騎士団のゼノン・グレイフォードだ。管轄区の巡回中に、不審な気配を感じてな。失礼だが、あなたは何者で、ここで何をしている?」
ゼノンは職務質問という体裁で、どうにか会話を試みる。
「わたくしはアミュレット。昨日まで王子の婚約者でしたが、今はただの公爵令嬢です。そして、つい先ほどこの店の新しいオーナーになりましたの」
淡々と語られる自己紹介に、ゼノンは言葉を失う。噂の令嬢本人だったとは。
「ご覧の通り、今は店の検分をしているところです。何か問題でも?」
「い、いや……問題は、ないが……」
アミュレットのあまりに堂々とした態度に、ゼノンの方がたじろいでしまう。彼女はゼノンのことなどもう興味がないとばかりに、厨房の棚を物色し始めた。
そして、小麦粉や砂糖、バターといった基本的な材料が、古いながらも密閉されて残っているのを見つける。
(……試してみましょうか)
彼女は無言で袖をまくり、手際よくボウルに材料を入れて混ぜ始める。その動きに一切の迷いはない。
しばらくすると、甘く香ばしい匂いが店内に漂い始めた。古びたオーブンの中で、生地がぷっくりと黄金色に膨らんでいく。
その匂いは、ゼノンと、そしてアルドゥインの空腹を強烈に刺激した。
『な、なんだこの香り……! 天上の果樹園から漂う神々の誘いか!?』
アルドゥインが脳内で叫ぶ。ゼノンもごくりと喉を鳴らした。
やがて、完璧な焼き色のスコーンがオーブンから取り出される。
アミュレットは布でテーブルの一つをさっと拭くと、ゼノンの前に無言で腰掛けるよう促した。そして、戸惑う彼の前に、淹れたての紅茶と、湯気の立つスコーンが二つ置かれた。
「試作品ですが、よろしければどうぞ。騎士様もお疲れでしょう」
「……いや、しかし、任務中だ。民間の方から施しを受けるわけには……」
『馬鹿者! ぐだぐだ言っておらんで食わんか! これは聖剣の命令であるぞ!』
アルドゥインの怒声に後押しされ、ゼノンは恐る恐るスコーンを手に取った。
まだ温かい。二つに割ると、小麦の良い香りがふわりと立ち上る。添えられたジャムはない。シンプルなスコーンだ。
彼は、意を決して一口、それを口に運んだ。
その瞬間、ゼノンの青い瞳が驚きに見開かれる。
(なっ……!)
外はサクッとしていて、中は驚くほどしっとりしている。噛むほどに、バターと小麦の豊かな風味が口いっぱいに広がっていく。甘さは控えめなのに、満ち足りた幸福感が全身を包み込むようだった。
今まで食べたどんな菓子とも違う。ただのスコーンではない。これは、芸術だ。
『うおおおおおおお! これだ! これなのだゼノンよ! 我が数千年の長きにわたり追い求めていた味は! まさにこれだったのだ!』
アルドゥインの歓喜の雄叫びが、ゼノンの頭蓋に直接響き渡る。
『神々の菓子だ! 伝説級とはこのことよ! 我は今、猛烈に感動しておるぞ!』
ゼノンはもう一口、夢中でスコーンを頬張った。隣の紅茶を飲むと、その芳醇な香りがスコーンの風味をさらに引き立てる。完璧な組み合わせだった。
彼は完全に我を忘れ、あっという間に二つのスコーンを平らげてしまった。
ハッと我に返ると、目の前でアミュレットが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「……お口に合いませんでしたか?」
彼女は、自分が作り出した奇跡に全く無自覚な様子で小さく首を傾げた。
ゼノンは、なんと答えていいか分からず、ただ呆然と彼女を見つめ返すことしかできなかった。
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