婚約破棄?ああ、どうぞお構いなく。

パリパリかぷちーの

第1話

王立魔法学園の卒業記念パーティーは、その年の社交界で最も華やかな夜会と言われている。


シャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に反射し、きらびやかなドレスを纏った令嬢たちと、仕立ての良い礼服に身を包んだ御曹司たちを眩しく照らし出していた。


甘やかな花の香りと高級な香水、そして楽団が奏でる優雅なワルツ。誰もが笑顔で語らい、グラスを交わす。未来ある若者たちの門出を祝う、完璧な夜。


その完璧な均衡が、壇上に上がった一人の男によって、いとも容易く打ち破られることになるとは、まだ誰も知らなかった。


「皆の者、静粛に! 余の話を聞いてほしい!」


凛とした声の主は、この国の第一王子、エリアス・フォン・ヴァイス。陽の光を溶かしたような金髪に、空の色を映した碧眼。まさに物語の王子様といった彼が、可憐な少女の肩を抱いて壇上に立っていた。


少女は男爵令嬢のリリア・ブラウン。庇護欲をそそる愛らしい容姿で、最近、王子の寵愛を一身に受けていると噂の人物だ。彼女は今にも泣き出しそうな顔で、王子の腕にすがりついている。


「エリアス様……わたくし……」


「大丈夫だ、リリア。私が君を守る」


壮大な音楽でも始まりそうな雰囲気に、会場は水を打ったように静まり返った。ざわめきが波のように引いていく。誰もが固唾を飲んで、王子の次の言葉を待っていた。


エリアス王子は会場をぐるりと見渡し、やがてダンスホールの隅、壁際のテーブルに一人で佇む女性を鋭く指差した。


「そこにいる、アミュレット・フォン・クライン公爵令嬢! 今すぐこの壇上へ!」


指名された女性――アミュレットは、金色の縦ロールに、アメジストを思わせる紫の瞳を持つ、人形のように整った顔立ちの令嬢だった。クライン公爵家の令嬢であり、エリアス王子の長年の婚約者。


彼女は、指を差されても特に驚いた様子もなく、ただ静かに目の前のカナッペを口に運び、ゆっくりと咀嚼している。


「……何か、ご用でしょうか、殿下」


ようやく口を開いた彼女の声は、まるで感情というものが抜け落ちたかのように平坦だった。


「とぼけるな! 君がリリアにした数々の嫌がらせ、私はすべて知っているのだぞ!」


「はぁ」


「リリアの教科書を破り、ドレスを汚し、階段から突き落とそうとした! こんな悪逆非道な女を、未来の国母となんて到底できん!」


王子の糾弾は続く。隣でリリアが「うぅ……そんな……皆様の前で……」とか細い声で泣き崩れる。同情的な視線がリリアに、そして非難の眼差しがアミュレットに突き刺さる。


典型的な断罪イベント。茶番、とアミュレットは思った。


(早く終わらないかしら。紅茶が冷めてしまうわ)


そんな内心を知る由もなく、エリアス王子は勝利を確信したように、最も大きな声で言い放った。


「よって、私はここに宣言する! 悪役令嬢アミュレット・フォン・クライン! 君との婚約は、ただ今をもって破棄させてもらう!」


ついに来た。会場の誰もが息をのんだ。歴史的な瞬間に立ち会っている、と皆が思った。罵倒か、泣き叫ぶか、あるいは失神か。悪役令嬢の末路を、誰もが見届けようとしていた。


しかし、アミュレットの反応は、その場の全員の予想を、遥か斜め上に裏切るものだった。


「はぁ、左様でございますか」


凛と響いたのは、抑揚のない、あまりにも静かな声。


「……は?」


一番驚いたのは、宣言したエリアス王子本人だった。


「え、今……なんと言った?」


「『左様でございますか』と申し上げました。婚約破棄の件、承知いたしました、と」


アミュレットは、まるで天気の話でもするかのように、あっさりとそう言いのけた。彼女の紫の瞳には、悲しみも、怒りも、絶望も、何一つ映ってはいない。ただ、目の前の王子が映っているだけだ。


「なっ……お、お前は! 自分が何を言われたのか、分かっているのか!? 婚約を破棄されるのだぞ! この私に捨てられるのだ!」


「はい、理解しております。つまり、わたくしと殿下は、もう何の関係もなくなる、ということでよろしいのですね?」


「そ、そうだ! そうに決まっているだろう!」


「それは結構ですわね」


心底安堵したように、アミュレットは小さく頷いた。


「けっ……こう……?」


王子の頭は完全に混乱していた。隣のリリアも、涙を浮かべたまま目を白黒させている。思い描いていた展開と、あまりにも違いすぎた。


アミュレットは、優雅にカーテシーを一つしてみせる。


「これまで長きにわたり、ありがとうございました、エリアス殿下。それでは、お話はもう終わりでしょうか?」


「え、あ、いや……まだ……」


「そうですか。では、わたくしはこれで失礼いたしますわね。あちらのローストビーフが、そろそろなくなりそうですので」


そう言うと、アミュレットはひらりと背を向け、壇上から降りてしまった。


後に残されたのは、口をパクパクさせている王子と、作戦が狂って呆然とするリリア、そして、目の前で起きたことが信じられずに凍り付いている大勢の招待客たちだけ。


誰もが、あの塩対応の悪役令嬢の後ろ姿を、ただただ見送ることしかできなかった。


アミュレットは、宣言通りローストビーフの列に並びながら、そっと息をつく。


(ああ、やっと終わった。これで明日からは、面倒な王妃教育もなく、毎日心ゆくまでお茶が飲めるわ)


婚約破棄の悲しみなど一欠片もなく、彼女の心は、解放感と、これから始まる自由な日々への期待で満たされていた。

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