第9話
朝。
教室のドアを開けた瞬間、昨日までと違う気配を感じた。
背筋に冷たい風が通るみたいな、そんな空気。
理由はすぐ分かった。
「お、おはようございます……ゆ、結城くん」
前の席の雪城が、いつもより少し距離を置いて立っていた。
声はちゃんと出ているけど、どこかぎこちない。
「おはよ」
「っ……」
俺が返事をすると、雪城は肩をびくっと震わせ、そそくさと席に座った。
(距離……戻ってる?)
昨日までの柔らかい空気とは、明らかに違う。
昨日の“ゆうきくん”の余韻はどこにいったんだ。
周りの席では、いつも通りの小さなざわざわが起こっている。
「委員長、急に固くなった?」
「昨日は結城の隣、自然だったのに」
「三条がなんか言ってたぞ?」
その噂に、雪城の肩がさらに縮こまる。
(……雫が何か言ったのか?)
そう思った瞬間、胸に嫌な予感がよぎった。
◆
四時間目が終わり、昼休み。
弁当を出そうとしたとき――
「あ、あの……結城くん」
雪城が、いつもより少しだけ遠い距離から声をかけてきた。
「ん?」
「き、今日は……中庭は……その……ひとりで大丈夫ですか……?」
雪城は目を伏せ、ぎゅっと拳を握っていた。
「なんか用事でもあるのか?」
「い……いえ、あの……用事は、ないんですけど……」
(ないんかい)
「じゃあ――」
「す、すみませんっ! 今日は……む、無理です……っ」
言い終わらないうちに、雪城はぺこりと頭を下げ、逃げるように教室を出ていった。
その背中には、昨日まで感じなかった“恐れ”のようなものが見えた。
(……なんだ、今の)
中庭に向かいながら、俺は何度も雪城の言葉を反芻する。
(昨日まであんなに自然だったのに……)
歩幅が合うのが嬉しい、と言っていたのに。
名前呼びの練習も必死でやっていたのに。
テーブルの上で弁当を開く。
一人で食べるのは初日以来だ。
(静かすぎる……)
中庭の風の音だけが耳に残る。
雪城がいないだけで、こんなにも空気が違うのか。
そんなことを考えていたら――
「よっ、結城」
聞き慣れた声がした。
三条雫だ。
「一人で昼なんて珍しいじゃん。雪城さんは?」
「……今日は無理らしい」
「ふーん……」
雫は俺の正面に腰を下ろす。
その視線は、俺の顔をじっと観察するようだった。
「ねえ、結城」
「なんだよ」
「……雪城さんのこと、どう思ってるの?」
「っ」
箸を持つ指が止まった。
「どうって……相談乗ってるだけだよ」
「ふうん。じゃあ――」
雫は顔を近づけ、小声で言った。
「昨日、“名前呼ばれた時の顔”、教えてくれる?」
「……見てたのか」
「たまたまね」
その言い方は、たまたまの発音ではなかった。
「結城さ……気づいてないよね。自分の顔」
「顔がどうしたんだよ」
「分かりやすかった。
雪城さんに“結城くん”って呼ばれた瞬間、目が変わってた」
「目が?」
「……恋する男の目、っていうかさ」
「いやいやいや」
冗談みたいに言うな、と言おうとしたが、喉が詰まった。
「じゃあ質問変えるね」
雫はさらりと言った。
「結城は、誰にドキッとしてるの?」
「……っ」
昨日の“ゆうき、くん”が、不意に脳内再生された。
胸が跳ねる。
それを見て、雫の表情が少しだけ曇った。
「……そっか」
その“そっか”には、色々な意味が詰まっている気がした。
「結城ってさ……ずるいよね」
ぽつりと言われ、言い返せなかった。
三条は立ち上がり、背中越しに言う。
「私は……結城に取られたくないって、初めて思ったよ」
その一言が、中庭の空気を凍らせた。
◆
放課後。
図書準備室。
昨日までは二人で話すのが自然だったのに、今日は不自然な沈黙が漂っている。
「えっと……今日の練習は、“視線の置き方”だな」
「は、はい……」
「じゃあ、俺を見て、“話したいことがある”って言うのを――」
「っ……」
雪城は目を逸らした。
「む、無理かもしれません……」
「昨日まで普通にできてただろ?」
「す、すみません……“普通”じゃ、なくなってしまって……」
心が痛む言い方だった。
「無理しなくていいんだぞ」
「でも……練習しないと……余計、不安になるんです」
雪城は、胸元を押さえながら言った。
「昨日から……胸が苦しくて……怖いんです」
「怖い?」
「はい……。
なんでこんな気持ちになるのか分からなくて……
三条さんと結城くんが話してるのを見たとき……もっと、分からなくなって……」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
(雪城……見てたのか)
中庭での会話を。
「だから、練習……したいんです。
“この気持ち”に、負けたくなくて……」
そんなに真剣に言われてしまったら、断れるわけがない。
「……分かった。やろう」
雪城は、小さく頷いた。
でも、いつもみたいに感情は乗らない。
声がかすれて、震えるだけ。
「すみません……声が……」
「いや、無理しなくていい」
「無理じゃ……ないです……でも……」
どう見ても無理だ。
けれど、その一生懸命さが胸に刺さる。
(昨日までの雪城は……もっと、楽しそうだったのに)
その変化が、俺の胸にも小さな痛みを生んだ。
何をどう声をかければいいか分からないまま、練習は形だけで終わった。
◆
「じゃあ、帰るか」
「はい……今日は、ありがとうございました」
雪城はノートを抱え、扉へと歩く。
俺も準備室を出て、廊下を曲がろうとしたそのときだった。
「――結城ってさ、好きなタイプとかあるの?」
三条の声が、遠くから聞こえてきた。
雪城の足が、止まる。
(……雫か)
声の方向を雪城も見ている。
廊下の先、死角になっている場所。
「結城って……やっぱり雪城さんのこと――」
そこまで聞こえて、雪城は走り出した。
「雪城!?」
呼び止める暇もなく、雪城は階段のほうへ消えた。
走りながら、袖で目元をこすっていた。
(泣いてる……?)
胸がざわついた。
なんで泣いてる?
なにがそんなに苦しいんだ?
(……いや、理由なんて分かってるだろ)
昨日の名前呼び。
今日の距離の変化。
雫の質問。
三つが絡み合って、雪城の胸を締めつけている。
◆
昇降口の影。
雪城は、誰もいない場所で膝を抱えていた。
「……どうして」
小さな声が震える。
「どうして……こんなに怖いんだろう……」
雫と結城が話す姿を見ると、胸が痛くなる。
自分の気持ちがどれだけ強くなっていたのか、ようやく分かる。
「私……期待してたんだ……
結城くんが……もしかしたら……って」
目元に涙がにじむ。
「でも……怖い……怖い……っ」
うれしい気持ちと、苦しい気持ちが混ざって、雪城は両腕で自分を抱きしめるしかなかった。
◆
一方その頃――
俺は、下駄箱の前で立ち止まっていた。
(今日の雪城……絶対何かあったよな)
帰る方向がいつもと違う。
目元も少し赤かったように見えた。
(追いかけたほうが……いいんじゃないか?)
そんな気持ちが、初めて胸に芽生える。
裏方として相談を受けるだけのつもりが――
いつの間にか、もっと別の感情が生まれている。
(俺は……雪城に、どう思ってほしいんだ?)
雫の問いが、胸の奥で何度も響いた。
「誰に、ドキッとしてるの?」
答えられなかった。
でも――胸は、確かに反応していた。
◆
その日の夕暮れ。
三人それぞれの胸の中では、
まだ誰にも言えない“痛み”が膨らみ始めていた。
それが、次に訪れる“すれ違い”という大きな波を呼ぶことを――
俺たちはまだ、知らない。
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