第2話
朝が来た。だが、この街における朝は、時間が巡ったというより、夜の破片が光に焼かれて白く漂っているだけの現象にすぎない。
部屋の壁は、私が寝返りを打つたびに薄く波打ち、家具は自分の重さを忘れたように床から数センチ浮かんでいた。
死の雪が降る日は、世界は必ずこうなる。
輪郭が眠ることを拒むように、すべてがふやけて漂う。三秒前の記憶が、なぜか三年前の記憶と同じ質感で胸の奥に沈んでいた。
布団から起き上がると、床に落ちた影が遅れてついてくる。私は影に声をかける。「お前、今日は機嫌が悪いのか?」
影は答えない。答えられないのではなく、ただ、答えを選んでいないだけの気配。 私は靴を履き、割れかけた玄関の扉を押し開いた。開くというより、扉そのものが形を保つことを諦めて、私の動きに合わせて溶けただけだ。
外に出ると、街はいつものように不完全だった。ビルの側面は鼓動のように微かに脈打ち、道端に転がる人々の声だけが、彼らの身体より先に歩いていく。
ミール区の朝は静かだ。人間たちが静かなのではない。沈黙が人間を先導するようになったからだ。
私は地下道へ向かう。かつて駅へ通じていた場所。今はただ、なにかの記憶が腐った匂いだけを残している。階段を降りるごとに、世界の温度がひとつずつ剥がれて落ちていくようだった。そして、最下段に足を置いた瞬間、誰かが私の名前を呼んだ。「ユナ。」
柔らかく、しかし断絶の深みに落ちるような声。振り向くと、そこに、例の影がいた。 昨夜、雪の中で私に微笑んだ子どもの形。だが今日は、輪郭が少しだけ確かだ。 まるで雪の夜にだけ存在するはずの影が、朝に迷い込み、偶然形を拾ってしまったかのように。
影は私の方へ歩み寄る。
「ねえ、ユナ。あなた、今朝いくつ?」
「いくつ……?」
「記憶の重さだよ。まだ、昨日を覚えている?」
私は答えられなかった。覚えているはずだった昨日の記憶が、急に遠くなっていた。思い返すたびに、色が変わる。匂いが変わる。声がすり替わる。私は影の子供、ミオと名乗る気配を帯びたその存在へ訊いた。
「……君は、どうして私を知っている?」
ミオは微笑む。影の癖に、妙に細やかな笑みだった。
「だってあなたは、溶け方が綺麗だから。境界が壊れる前に、ちゃんと震えるんだもん。そんな人、滅多にいないよ。」
「褒められてる気は……しないな。」
「褒めてないよ。ただ、観察してるだけ。この街があなたに興味を持ってるから。」
「街が?」
「うん。街はね、最近溶け疲れしてるの。だから、あなたみたいな自然に崩れていく人が欲しいんだよ。見本みたいに。」
私は眉をしかめた。この影は何を言っているのか。だが同時に、都市自体の輪郭が日ごとに緩んでいる実感はある。ミオは続けた。
「今日は誰に会いにいくの?」
「……会いにいく、というより、確かめにいくんだ。自分の記憶がどのくらい溶けてるのか」
ミオは首を傾げる。
「じゃあ、レイジのところだね。あの人、まだ半分は生きてるし、半分は違う場所に散ってるから。」
レイジ、この街で“雪”を研究していた、半ば狂った科学者。彼は言った。
「死の雪は、死じゃない。存在分布の再配置だ。」
私はミオを見つめる。ミオはもう、子供にも影にも見えなかった。その存在はただこちらを見るためだけに生まれた像のようだった。
「一緒に行く?」と問うと、ミオは少し考え、首を横に振った。
「今日は行かない。あなた、まだ私に会う前のあなたを少しだけ覚えてるから。そういう時は、一人で歩いたほうがいいよ。そのほうが溶け方が綺麗だから。」
「君は本当に……何者なんだ。」
「忘れられた名前の影。街が落とした誰かの子供の残り。でも、ユナの想像しているような存在じゃないよ。」
ミオはそう言って、影に溶けるように薄れた。残ったのは、冷たい匂いだけだ。私はため息をつき、地上へ戻った。雪は止んでいたが、街の表面はまだ軋んでいる。
レイジの研究棟は、街の中央付近にある。向かう途中で、私は自分の歩幅が昨日と違うことに気づいた。足音が、私の歩行から半拍遅れて響く。記憶が溶けている。今日の私は、昨日の私より薄い。いや、もしかすると違う。昨日の私が、今日の私より濃すぎたのかもしれない。世界と私の境界線は、どちらがどちらの形を奪っているのか分からなくなりつつあった。
この日、私はまだ知らなかった。 レイジがもう一人のレイジと重なり始めていることを。そしてその現象が、私自身の溶解に深く関わってくることを。死の雪は、ただ降り積もるだけでは終わらない。街も、私も、溶けた先で別の形を求め始めていた。
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