第2話 若浦市事件

 アストラントでの死闘から数年、人間界でいえば千数百年が流れた頃───。

 生と死の狭間に存在する異界・アストラントより、守霊たちは人間界へと降り立った。だが、彼らはそのままの姿ではない。魔詛を一切消費しない人間の体へと換装し、死界の侵攻がこの世界に及ぶ前に、彼らに最適の契約者を探さねばならなかった。

 魔詛の供給なしでは、いずれ消滅する運命にある。

 それは、彼らにとって命そのものと言っていいほどに重要なことだった。

 守霊たちは人口約5万7000の都市・若浦市へと散らばり、自らの力を最大限に引き出せる者を探す。港の方へ往く者、中心街へ往く者、山間部に往く者。どこへ行って契約者を見つけるかはその守霊次第である。

 この街のどこかに自らと契約し、共に戦うに足る「才能ある者」がいるはずだと、彼らは確信していた。


   * * *


 更にそこから時は流れ、2005年冬。雪が降る曇った空に覆われた日だった。

 街路樹はうっすらと雪化粧を纏い、歩道には踏み固められた雪がまだら模様を描いている。

 都市の一角、住宅が立ち並ぶこの場所のとある一軒家。表札には筆書きで立派な久保江くぼえの文字が書かれてある。その家から一人の男が出てきた。まだ20代中頃のような凛々しいようで素っ気ない顔つきの男で、灰色のコートに身を包んでいる。

「……寒いな」

 嫌気が差すほどの寒さ。男は自分の手に息を吹き掛けて、それを摩って手が凍らないようにする。

 家の外の寒さを実感して直ぐに眠そうに欠伸をする。どこか頼りなさそうな雰囲気を纏っている、な人間である。

 彼の足元で雪が軋む音が響く。それに混じって窓を開いた手で叩く音が聞こえた。ちらりと振り返ると、家の窓にはまだ幼さの残る少女の姿があった。男は幼女に向かって手を振ると、そのまま門をくぐって道路へ出る。

 昨日の夜からチラホラと雪が降り続けたせいか、道路は一面雪だらけ。

什造しゅうぞう、如何した?元気がないようだが」

 脳内に聞き馴染みのある声が響いてくる。マンガやアニメでよく見られるテレパシーというものだ。そしてその発信源は、彼の背後にいて、それは黒スーツに身を包んだ男である。

「義輝か。雪がこうも振ると電車が止まらないか心配でな」

「この程度では止まらんだろう。越後や陸奥はこれよりも酷い雪であるぞ」

「ドカ雪の場所と比べりゃイカンでしょ…」

 義輝が口を一切開かず、什造が一人で声を出すという奇妙な会話が続く。

 冬の朝の街並みは、まだ静けさを保っている。遠くで除雪車の音が響き、すれ違う人々は肩をすくめながら足早に歩いていく。そんな中、什造はふと、雪を踏みしめながら呟いた。彼が義輝と呼ぶそれは「確かにそうでもあるな」と返したっきり黙り込んだ。数秒の沈黙の後に什造は言った。

「死界が大規模侵攻を始めるのはいつ頃になりそうだ?」

「早く見て今日か明日、遅くとも1週間以内には起こりうる。その際、この場所に住まう者が大勢死ぬことも覚悟なされよ。既に什造含め、40人の契約者コヴェナントが居るようであるが、我が実力を知るのは什造のみよ」

「そりゃ困ったな。40人いて知ってるのは俺だけとかどうなってんだよ守霊のネットワークは……ホーレンソーくらいしっかりしてくれないと困るぜこっちも」

「魔詛による妨害を受けているのだ、こればかりはやむを得まい」

 什造はポケットに手を突っ込みながら、ぶつぶつと文句を言う。守霊や契約者同士の連携が取れていないことへの苛立ちやこの状況で誰がどう動くのか分からない不安感が募っていた。

 一人で道端を歩きながら何かを呟いている男。そしてその後を付けるスーツ姿の男。

 他人から見れば、完全に「変なヤツ」だった。しかもそれが家の中ではなく外なのだから、尚更である。

 角を曲がり、人通りの多い大通りからそれた道。近くに大通りがあるとは思えないほどの静寂さ。サスペンスドラマでよくある夜に人が殺されるような感じの道というのが正しいほどに薄暗く、周りは寂れた壁の建物が立ち並んでいた。

「どうしても戦わないといけないのか?」

「什造と我の間で交した契約であろう。嫌ならば破棄もできるがその際は…」

「仕事が終わったら帰って休みたい」

「戯け者め。それで死界の侵攻が始まればどう対応すると言うのだ」

「義輝に任せる」

 義輝は「まったく自由人な奴よ」と言う。それに義輝は間髪入れずに続けた。

「戦いから逃げることはするでない。ましてや、この地には娘がいるであろう?」

 什造の顔から笑みが消える。

「…分かってるよ」

 ポケットの中の手が、無意識に拳を握る。寒さのせいじゃない。

「分かってるさ」

 もう一度、言い聞かせるように呟く。

 分かっている。

 自分には、戦う理由があることも。

 その理由のために、どれほど無様に足掻こうと、最後までやらなきゃいけないことも。なのに。

 それでも、心のどこかで「逃げられたら」と思ってしまうのが、なんとも情けない話だった。


 ギチギチの満員電車の中で揺られ、熱の篭ったバスに揺られ、ビル群にある仕事場へ着いた。中へ入り、押し込まれるようにエレベーターの中に入って、仕事場である13階に向かう。チン、と機械音とアナログのベルの音の中間のような音がしてドアが開いた。

「おはようございます」

 少し眠そうに挨拶した什造は、久保江什造の名が入ったタイムカードを切り、自分の仕事机へと向かう。

「おはよう、久保江くん。今日も寒いねぇ」

「えぇ、こんなに雪が降ると電車が止まらないか心配で…」

「いつもより20分早く来れたんだし良いじゃないか」

「そうですね」

 上司とのありきたりな会話。

 温かいコーヒーの香り。

 同僚のタイピング音と、遠くで鳴る電話のコール音。

 こんなものが、当たり前のように続くはずだった。変わらないはずの日常。

 守霊なんていなければ、死界の侵攻なんてなければ、ただの退屈な冬の一日だったはず。

 だからこそ——守霊と出会う前と変わらない日常を仕事中は演じていた。

「昨夜9時頃、若浦市の住宅地に何者かが押し入り、この家に住む50代の夫婦が殺害される事件が起こりました。警察によりますと────」

 オフィスとは仕切られた休憩室のテレビから、かすかに聞こえるニュース。タイピングの音に紛れて流れていくニュースは、ただの雑音のようだった。それを耳にした同僚の笠原が言う。

「最近物騒な事件多いよなぁ。什造の所のレイちゃんは大丈夫なのか?」

 隣の席の笠原が、画面に目をやりながら呟く。その声は普段と変わらない明るめなトーンでありながらも、確実に久保江一家を心配している。同僚にこんないい人がいて、その人と巡り会えたことは神さま仏さまへ毎日感謝してもし足りないくらいだった。

「…まぁ、何かあった時のことは考えてるさ。常に妻がいるし、何かあれば近所の葦高あしたかさんの家へ避難するように言ってある」

 ありきたりな日常の延長のような会話。

 でも、知っている。この事件は、単なる物騒な出来事なんかじゃないことを。しかし、それを安易に言うことは信じて貰えないか大きな混乱を招くか。その結末も神のみぞ知る。

(ここは保守的に、何も知らないフリでいこう)

 什造はそう心の内で決めた。ヘタに混乱させたり信用を失うくらいならそっちの方が遥かにマシだ。今はただ静観するしかない。事が起こった時に対処すればいい——そう考えていた。

 とりあえず、今日こなすべき仕事に向き合うために自分の机に向かう。今日もパソコンと午前4時間、午後6時間、合計10時間のにらめっこだ。

 パソコン画面を想像しただけで目がすでに目が乾いてくる気がする。什造は深いため息をつきながら、げんなりと椅子に腰を下ろした。

 オフィスではひっきりなしに鳴る着信音にコピーを取る音、タイピング音と機械音に混ざって紙をめくる音、ホチキスの音が混ざっている。その忙しさは見なくとも聞くだけでよくわかる。会社の年間売上やれ前年比との比較やれ、洗いざらい引っ張ってこないといけないこの大変さはもう何度目だろうか。

 あまりの忙しさに時間を忘れ、お昼まで時間が飛んだかのようにも思えた。

 什造はスーツの上にコートを羽織ると「昼休憩入りまーす」と言って呑気にエレベーターの方へとオフィスを出ていった。1階に降りて外に出る。外は相変わらず寒く、体の芯まで冷えそうだ。

「什造。ここ数時間で魔詛が大きくなってきている、恐らくは───」

 義輝の言葉を聞いて嫌な予感が脳裏を過ぎる。暑くもないのに汗が一滴流れた。

 その嫌な予感は数秒後、現実のものとなる。

 突然、カラスの群れがカーカーと鳴きながら羽ばたくや否や什造の後ろのビルの看板が落ちてきた。

「うおっと危ねっ!」

 什造は咄嗟に身を全身に投げるように飛んで間一髪、下敷きになる事は避けられた。

「なになに?」

「やだ定年劣化?」

 周囲にいた人々が集まってくる。幸い、下敷きになった人は誰一人としていないようだが破片で負傷した人が数名居たようだ。什造がケガをした若者に駆け寄ろうとしたその時。

「什造、上だ!」

 義輝が急速な魔詛の増加を感知し什造に伝える。什造は身を捻って上から落ちてくる何かをかわす。が、その変わりに近くにいた一人が落ちてきたモノに貫かれて死んだ。

「キャー!」

 女性の悲鳴が引き金となり、周辺は一気にパニック状態に陥った。人々があちこちへと走り出し、辺りは騒然。市民たちの叫び声がビルの谷間にこだまする。

「鉄パイプ…!?」

 什造が上を見上げると空には常闇の虚空が開き、その中から得体の知れない物体が降ってきている。だが降ってくるソレらは什造にとっては馴染みのある者たちだった。よく目を凝らして見ると、骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビ、死霊に突然変異種ミュータント——どれも什造が飽きるほど相手した、彼の会いたくもないオトモダチ・・・・・と言っていい連中たち。若浦市の中心地で姿を見せたということは、つまりそういうことなのだろう。

 悲鳴をあげてパニックに陥る群衆を押しのけて什造はオフィスに戻る。

「折角の昼休みが台無しだ!なんて事してくれるんだコノヤロー!」

 叫んだところで、連中に通じるはずもない。奴らは操り人形のように、人間を見つけては襲う耳なしの下僕たちサーヴァントだ。言葉など意味をなさない。

「義輝、出てこい義輝!」

 走りながら什造が叫ぶと、近くの路地裏から出てきて併走する義輝。人間の姿のままだが、目つきは既に守霊の目であった。

「命令されよ。さもなければ我は動かぬ」

「義輝!あの厄介な奴らを蹴散らしてきてくれ!俺はオフィスに戻って避難させる!」

 義輝は什造の指示を聞くや否や、守霊・足利義輝としての責務を全うするべく換装を解いていく。服装がみるみるうちに黒スーツから具足姿へと変貌。紫色の袴の上に、黒色の胴具足に身を包んだ姿は宛ら戦国に生きる武士そのもの。

「承知仕った。骸兵を蹴散らせば良いのだな?」

「あぁ。それと刀一本借りるぜ?」

 いつの間にか腰の刀を一本取られていた義輝は、笑いながらその場に踏み留まると什造を背にして、骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビらと対峙する義輝は自身の腰に帯びている残りの2本の刀の1本、鬼丸国綱を抜刀して八双の構えで骸兵と睨み合う。

「足利義輝が相手にならん。我が刃に斬り伏せられたい者よりかかってくるが良い」

 無数の死界の雑兵たちが束になってかかってくるのに対し義輝は、全神経を研ぎ澄ます。敵との距離、速度、刀を振る最適の角度、距離、速度。1つでも目測と計算を誤れば、待っているのは自身の消滅だけ。アストラントのイシスケロスのような死が待っているだけである。

「いざ参らん」

 着実に距離を詰めてくる死界の兵たち。己の契約者、什造を守るために義輝も剣を振るう。

 連中が5メートル近くまで近づいた。

「ぬぅ…!」

 義輝は斬撃を繰り出して、最前線を走ってくる骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビを吹き飛ばす。奴らは言葉にならない声を上げながら斬撃により首を裂き、あるいはその骨を噛み砕かれた。

 その斬撃はさながら剣の極意と言っても過言では無い。剣聖・塚原卜伝の愛弟子であり、様々な剣技を直々に教わった足利義輝の強さの元がここにある。

 永禄の変あの日とは時間は違うが、一人で無数の敵を相手するというところは同じ。義輝の剣先が光る。

(ここで討死は避けるべきか?が、これで回避に専念すれば、若浦の民が死ぬ。やはりここは一人で耐える他あるまい…)

 斬っても斬っても、死界の雑兵どもは湧くように押し寄せてくる。

 骸骨が軋み、腐乱の肉が叫ぶ中、義輝は思考を研ぎ澄ます。

 敵の動きを予測してかわし、刃で断つ。その刹那の間にも、次の一手と未来を読む思考が走る。

 戦う肉体と、先を読む頭脳。どちらか一つでも鈍れば、即死が待っている。無数の雑兵ザコを相手にしながら、頭の回転を急ぐ義輝。

 雪、雪、雪。

 あたりは一面、血に染った雪で敷き詰められ、その上に異形のもの達が折り重なって積み上がっているのだ。

「まったく、その様な戦は変わらず性にあわぬな」

 敵の攻撃を予測して回避、斬りつける攻撃と、次の一手と、未来を先読みする思考の両方に労力を割かないといけない。仲間がいれば、多少なりとも楽になるのであろうが、ここには師・塚原卜伝も弟弟子であり忠臣の細川藤孝も居ない。什造が仕事場の同僚たちの避難を終えるまで、一人で耐えるしかないのだ。


 一方、足利義輝が戦闘している同時間軸。什造は急いで仕事場のオフィスに戻っていた。たった20メートルの距離も、乗り捨てられた車や落ちてきて山積みになっている看板やれ建物の瓦礫やれで遠く感じる。車のボンネットを駆け上がり飛び越え、オフィスまで何とか戻れた。が、その安堵も一瞬のうちに砕かれる。電気は止まりエレベーターは使えないし、壁には無数の血が飛び知っている。

 什造は思わず息を飲んだ。既に受付のカウンターに居た3人のスタッフは無惨にも心臓を貫かれたり、首に深い傷を負わせられたりして殺されていて、壁は斬られたような傷ができている。

 歯を食いしばり、亡骸に合掌をすると四角状の螺旋階段を無我夢中で駆け上がる。

(頼む。どうか間に合ってくれ…!)

 心の中で祈りつつ什造は階段を駆け上がる。13階まで駆け上がるのは骨が折れる。足が悲鳴を上げ、肺が焼けるように痛む。だが、それでも立ち止まるわけにはいかない。

 あきらめるな。ここで足を止めたら、また誰かが死ぬ——!

 万人が助からずともせめて自分と関わりのある人たちだけでも死なせたくない。その思いだけが、彼を突き動かす。

「会社員にこんなハードワークさせんなコンチクショー…!」

 意地でも命を救うつもりの什造は火事場の馬鹿力で会社員とは思えない速さで駆け上がる。階数を重ねる毎に血の匂いが充満して鼻がひん曲がりそうだ。

 12階と13階の間。ようやくここまで来れた。上を見上げると、案の定骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビが13階の階段ホール前で閉められた防火扉の前に群がっている。

「コノヤロ!そこから退け!」

 什造は義輝から拝借した三日月宗近を抜刀し、背後から奴らに斬り掛る。一体の蘇死者ゾンビの頭をかち割って倒す。それに気づいた骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビたちが一斉に什造の方を向いて、いくつかの骨のような音を立てて動き出した。その動きに一瞬の緩みも許されなかった。死界から降り注いできた不気味な兵たちが、彼に向かって歯をむき出しにしながら突進してくる。

「くそっ、何匹来ようが関係ない!」

 什造は息を吐き出し、肩を震わせながら必死で立ち向かう。三日月宗近を握りしめ、力を込めて一太刀を振る。鋭く輝く刃が空気を切り裂く。その動きに合わせて骸骨兵スケルトンの一体が頭部を切り裂かれ、無様に倒れ込んだ。だが、次から次へと現れる骸兵たちはしぶとく、倒しても倒しても数が減ることはなかった。思わず目の前の景色に少し圧倒されかけるが、何とか気を取り直して剣を振るい続ける。「こんなことで屈してなるものか!」と自らを奮い立たせ、再び前へと踏み込んだ。群がっている骸兵は後を絶たずその剣を振ってきて、ただの契約者である什造に勝ち目は無い。剣は高校時代の体育の授業で剣道をやったきりで上手く扱えないし、これといった打開策がある訳でもない。要するに、完全に詰みだ。

 何度か骸兵と刃を混じえたその先に、什造の手に握られていた三日月宗近は、骸骨兵スケルトンによって飛ばされる。

「あぁっ…!」

 什造は三日月宗近の飛んでいく方に顔を向ける。三日月宗近は転がり壁にぶつかって静止する。骸兵の刃が振り下ろされる。什造は思わず目を閉じた。これが自分の最期なのかと覚悟する。一瞬の内に幼少期からの思い出が噴水のように湧き上がってきた。

(もうダメだ…!)

 その時、風が切り裂かれる音が響いた。ズバッという音が聞こえ、思わず目を開くと目の前の骸骨兵スケルトンの身体が、いつの間にか真っ二つに裂けている。

 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 だが、一つだけ確かなことがある。誰かが自分を助けた、ということだ。

 什造は反射的に顔を上げた。そこにいたのは、一人の剣士。日本の甲冑をまとい、長い髪をなびかせた姿。しかし、甲冑のせいか体つきも分からず、髪の色も影になってはっきりしない。

 声も発さず、ただ無言で敵を斬り伏せていく。

 ──男か?女か?

 なぜそんなことを今、この状況で気にするのかは自分でもよく分からないが、什造にはただその疑問だけが頭の中を埋めつくし、目の前で骸兵を蹂躙するその人の姿は、視覚情報は、入ってこない。それに加えてその問いすら、無意味に思えた。戦場にただ佇み、ただ戦うだけの存在。

 あっという間に骸兵が全滅する。恐ろしく早い神業。什造は荒い息をつきながら、その戦士を見つめた。

「…あんたは…?」

 問いかける。しかし、返事はない。瞬きをしたその瞬間、風が吹き抜ける。気づけば、そこには誰もいなかった。

 幻を見たのか?それとも本当にいたのか?分からない。

 ただ、確かに自分は、救われた。そして、それが存在した証拠に、防火扉の前に群がっていた50体近くの骸兵たちは文字通り骸の山となっていた。

「…!そうだ、笠原は…!?」

 壁際に落ちている三日月宗近を拾って鞘に収め、防火扉を力強く拳で叩く。

「誰か!誰かいないか!?」

 だが、反応はない。什造はさらに耳を澄ませ、焦燥感を抱えながら扉に耳を押し当てる。しばらくの沈黙の後、微かに鋼鉄の扉の奥から曇った声が聞こえる。中からはわずかに、しかし確かに話し声が漏れてきていた。少なくとも、二人はいるようだ。

「俺だ!什造だ!誰かいるなら返事してくれ!」

「什造、什造なのか!?」

 返事が返ってきた。その声は明らかに同僚の笠原のもので、什造はひとまず胸を撫で下ろす。

「あぁそうだ什造だ!頼むからこれを開けてくれ!」

 防火扉の潜り戸がゆっくり開く。そしてその間隙間から笠原が顔を出した。笠原は、「早く入って!」と言って手招きすると、什造を迎え入れた。中に入ると、重傷を負ったであろう人が3人仰向けになって動いていない。他にも負傷者は山ほどいるようで、血なまぐさいニオイで充満したこの階は、フロントよりも痛々しい惨状であった。

 笠原はふと什造の手にある一本の刀に気づいて彼に問いかける。

「その刀はどうした?」

 什造はそれに対して少し噛み付くように返した。

「あぁこれか?昼飯に行った時に少し縁があってその時に貰った」

 口が裂けても守霊云々なんて言えない。契約者であるなんてことは絶対に隠し通さなければならない。

「じゃぁ、あの階段のところに転がってた死骸は……まさかお前が?」

「そう思いたいならそう思っておけ。俺は何も言わんから」

 什造はそのまま窓の方まで歩いていく。この階で生き残ったのは、パッと見20名弱と言ったところ。義輝が居ないんじゃ骸兵たちの攻撃を捌きながら避難者の誘導なんて高度なテクニックは、ごく普通の会社員だった自分に出来る訳が無いのは明白。いくら三日月宗近に魔詛を流して死界の兵を片付けても、個人戦闘能力には限界がある。

(他にも40人契約者が居るって言ってたが…。いてくれたらどんなに楽なことか…)

 什造は内心そう思いながらため息をついた。窓から下を見ると、骸兵があちこちを破壊して回り、空にも面倒なことにドラゴンが飛んでいる。

(那須与一とか立花宗茂とか、そういう弓の名手が居てくれれば空の監視も潜り抜けて逃げられるんだろうな…)

 ふと什造はある一つの案を思いつく。自分が囮となって外に出て骸兵やドラゴンやれを引きつける。その間に笠原たちはまだ火の手の上がっていない西の住宅街まで逃げる。道中には戦っている契約者や守霊が居るはず、警察とか消防も避難者の誘導をしているはずだ。

「笠原、俺は先に降りて表の連中を全員引きつける。その間に西の住宅地まで走れ」

「牧野のか?」

「そうだ、牧野の所まで行ければあとは全員無事帰宅。荷物まとめてさっさと逃げないと家族も危ないぞ」

 笠原は一言「分かった」と言って他の人々を集め始める。什造は元きた方を戻り、外へ飛び出し骸兵たちのヘイトを自分に向けさせる。

「こっちだノロマぁ!」

 ゾロゾロと骸兵たちは什造の方へと向かい、ビルの目の前はガラガラで瓦礫と燃える炎だけ。笠原たちは回りから何も居なくなった隙をついてビルを出て、西方の住宅市街地へと走った。

 什造は何体かの骸骨兵スケルトン蘇死者ゾンビを斬り裂きながら義輝の元へ合流する。

「什造。想定以上に侵攻が速い。如何するか?」

「この際派手に潰すってのも悪くないんじゃないか?あのビル倒して骸兵をすり潰すってやり方が手っ取り早いんじゃないかと思うんだがどう思う義輝?」

 義輝は骸兵たちの方を見ながら「ふむ…」と声を上げる。

「承知した、上手く誘き寄せられるか?」

「やれる所までならやるさ」

 義輝は地面を蹴って飛び上がると、そのまま什造が指定したビルの方へと向かう。一方の什造は魔詛を三日月宗近に溜めて斬撃としてそれを撃つ。斬撃で無数の骸兵たちが斬り飛ばされて道ができ、そこを突っ走って誘導する。脳がない骸兵たちはただ追いかけて殺そうとするだけで深い思考はしない単純さ。什造は心の中でありがたい、ありがたい。と思いながらビルの方へと走った。ビルの影に差し掛かった瞬間に彼は叫ぶ。

「義輝!今だぁ!」

「鹿島新當流面之太刀十二箇条、柳葉之太刀やなぎばのたち!」

 黄緑色の斬撃が剣を振るうごとに現れてビルの柱という柱を破壊する。ギシギシという鈍重な音とガラスが割れる音が混ざり奇妙な音が響く。ビルの崩壊は一瞬だった。破壊された柱が支えを失い、上階の重みが一気にのしかかる。建物全体が揺らぎ、悲鳴のような鉄骨の軋む音を響かせたかと思うと次の瞬間、ガラスやコンクリートの破片が四方に飛び散りながら崩れ落ちる。

 骸兵たちはそれに気づく間もなく、瓦礫の下敷きになっていく。スケルトンは砕かれ、ゾンビは肉塊となって埋もれていく。数体がしぶとく這い出そうとするが、上から降り注ぐ瓦礫の雨がそれを許さない。

 什造は一歩引いてその光景を見届けながら、肩で息をする。

「あっぶね…本当に死ぬかの瀬戸際だぜ今のは…」

 義輝は静かに鬼丸国綱を鞘納め、崩れて横倒しになったビルを見ながら言う。

「しばしの足止めにはなろうが、これで全てを防げるわけではない。次の策を考えねばなるまい」

「分かってるさ。でも、まずはひとまずは家に帰ろう。響子とレイが心配だ」

「確か妻子であったな?」

「あぁ。まだ家の方まで骸兵たちが行ってないといいんだが…」

 2人は瓦礫が散乱するの道路を風の如く走り、什造の家へと向かった。それをにやにやしながら見ている者がいた。

「ほぉう…?あの数の我が配下の骸兵をいとも容易く葬る契約者か」

 まるで生きているかのように風に翻弄され、常に崩しながら燃え上がる炎。それを脇に瓦礫まみれの道を駆ける一人の契約者と一人の守霊を、一人の男がビルの屋上から見下ろす。その男は茶色いローブを羽織り、フードを深く被っているために目元までは見えないが、その口は戦いで楽しみが出来たと言わんばかりに笑っている。

「我が主の覇道のためにも死んでもらわねばな」

 日は既に暮れかけて、闇が徐々に広がり、遠くの建物のシルエットさえ見えなくなる。若浦市は混沌の闇夜に包まれようとしていた。

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