第3話 熱気の密室
消灯を告げる教師の足音が廊下の彼方へと遠ざかると、女子部屋を支配していた儀礼的な静寂は、瞬く間に濃密で粘り気のある熱狂へと変質した。二十畳の和室には、入浴を終えたばかりの少女たちの火照った肌から立ち上る湿気と、それぞれが持ち寄ったボディクリームやヘアオイルの甘ったるい香りが充満し、換気の悪い温室のような息苦しさを醸成している。窓の外からは、日本海の荒い波音が絶えず響いているが、その自然の轟きさえも、部屋の中に渦巻く「性の気配」という圧倒的な圧力の前では、単なる環境音へと追いやられていた。六組の布団は島のように身を寄せ合い、その中心では、ジャージ姿の少女たちが膝を突き合わせて車座になり、夜の密会を始めていた。
「ていうかさ、この中で経験あるの、まさか私だけってことないよね?」
闇の中で、橘美咲の声が挑発的に響いた。スマートフォンのバックライトに照らされた彼女の顔は、昼間の厚化粧を落とした素顔の幼さを残していたが、その唇は大人びた嘲笑の形に歪められている。彼女は自らの優位性を誇示するように、ピンク色のキャミソールの肩紐を指で弄びながら、意味深な視線を周囲に配っていた。その言葉は、まるで不可視の毒針のように、その場にいる全員の心臓に突き刺さる。「処女であること」が、ここでは清純さの証明ではなく、未熟さという名の恥辱として定義されていたからだ。
「……美咲ちゃんは、その、彼氏さんとどうなの?」
佐倉結衣が、眼鏡の位置を直しながら恐る恐る尋ねた。彼女の口調には、現実の生々しさに対する嫌悪と、物語の資料として吸収しようとする作家としての好奇心が混在している。美咲は待っていましたとばかりに鼻を鳴らし、実際には経験などない空想の情事を、さも昨日の出来事のように語り始めた。その内容は具体的で、どこかの少女漫画やネットの知識を継ぎ接ぎしたような粗雑なものだったが、この閉鎖された空間においては、それが唯一の「真実」として機能してしまう。彼女の語る「痛み」や「快感」という言葉が発せられるたびに、部屋の空気はさらに湿度を増し、聞いている少女たちの呼吸は無意識のうちに浅く、早くなっていた。
その輪の少し外れた場所で、高梨琴音は布団の中に下半身を沈め、じっと耐えていた。彼女を苛んでいたのは、精神的な劣等感だけではない。足首から這い上がってくる鈍く重い痛みが、心臓の鼓動と完全に同期し、脳髄を内側からノックし続けていたのだ。昼間、悠真に巻いてもらったテーピングの圧迫感は、時間の経過とともに患部の熱を逃がさない拘束具へと変わり、腫れ上がった皮膚が包帯の下で悲鳴を上げているのがわかる。ズキリ、ズキリという痛みのパルスは、不思議なことに、美咲が語る卑猥な単語と呼応するように、彼女の下腹部へも熱い波紋を広げていた。「痛い」という感覚と、「疼く」という感覚の境界線が、この異常な熱気の中で曖昧に溶解していく。
(……気持ち悪い。でも、熱い)
琴音は額に滲む脂汗を手の甲で拭った。みんな楽しそうだ。恋愛、セックス、未来。キラキラした話題で盛り上がっている。けれど、私だけが、この腐った足首という爆弾を抱え、痛みを顔を歪めないよう必死に演技をしている。その疎外感が、彼女の心にどす黒い孤独の影を落としていた。もし今、「足が痛くて我慢できない」と言えば、きっと彼女たちは心配してくれるだろう。だが、その瞬間にこの場の「魔法」は解け、私は「空気を読めない病人」として、憐れみの対象へと転落する。それは、ムードメーカーとしての私のアイデンティティを殺すことと同義だった。笑顔でいなければならない。元気でいなければならない。その強迫観念が、逃げ場のない密室で彼女を追い詰めていく。
ふと、視線を感じて顔を上げると、藤咲莉子が冷ややかな目でこちらを見ていた。彼女は会話には加わらず、壁に背を預けてストレッチをしているふりをしているが、その耳は美咲の話を漏らさず拾っている。彼女の張り詰めた太腿の筋肉が、わずかに震えているのを琴音は見逃さなかった。篠原恵麻はスマホで何かを検索しながら、時折眼鏡の奥で計算高い光を走らせている。星野梓はタオルケットを口元まで引き上げ、怯えた小動物のように瞳を潤ませて会話を聞いている。全員が、平静を装いながらも、内側で何かが決壊する寸前のギリギリの状態で均衡を保っていた。この部屋全体が、火薬庫なのだ。誰かが一本のマッチを擦れば、理性のタガなど容易く吹き飛んでしまう。
(……助けて、悠真)
琴音の手が、無意識に枕の下のスマートフォンを探り当てた。この窒息しそうな熱気と痛みから私を救い出してくれるのは、あの大きな手のひらだけだ。昼間、保健室で感じた彼の指の冷たさと、その奥にあった雄の熱。あれが欲しい。この痛み止めが効かない激痛を、もっと強い刺激で上書きしてほしい。その衝動は、もはや「治療」などという言い訳では隠しきれないほど、明確な「渇望」となって彼女の理性を侵食していた。彼女は震える指で画面をタップし、発信履歴の一番上にあった名前を押した。通話がつながるまでの数秒間、彼女は自分の心臓が破裂するのではないかと本気で思った。
電話の向こうから聞こえた悠真の声は、低く、少し焦っていた。その声を聞いた瞬間、琴音の中で何かがプツンと切れた。我慢しなくていい。この人は、私の痛みを知っている唯一の共犯者なのだから。彼女は周囲の喧騒に紛れるように声を潜め、しかし確信を持って彼を誘った。その言葉は、口から出た瞬間に、彼女自身をも縛り付ける呪いとなった。「来て」。それは、規範への反逆であり、自らの身体を彼に差し出すという契約の履行でもあった。
通話を終えた琴音は、深く息を吐き出した。画面を消すと、部屋の暗闇がより一層深く感じられる。美咲たちの会話はまだ続いているが、もはやそれは遠い世界のノイズに過ぎなかった。琴音はゆっくりと上体を起こし、這うようにして襖の方へと移動する。
「……琴音、どこ行くの?」
不意に、恵麻の声が背中に刺さった。部屋の空気が一瞬で凍りつき、全員の視線が琴音の背中に集中する。心臓が早鐘を打つ。バレたか。いや、違う。彼女たちは「待って」いるのだ。誰かがこの閉塞した状況を打破し、次のステージへの扉を開けることを。
「……ちょっと、トイレ。あと、風入れてくる。暑いから」
琴音は振り返らずにそう言い捨て、襖に手をかけた。嘘だとわかっているはずだ。トイレなら部屋付きのものがあるし、廊下の風を入れるためにわざわざ鍵を開ける必要などない。しかし、誰もそれを指摘しなかった。沈黙。それは、彼女の行動を黙認し、その結果もたらされるであろう「変化」を期待する、残酷な共犯の意思表示だった。美咲がニヤリと笑った気配がした。莉子が息を呑む音が聞こえた。全員が、これから起こることを予感し、そして歓迎している。
琴音は音を立てないように鍵を回した。カチャリ、という金属音が、静まり返った部屋に神託のように響く。これで、外部との境界線は消滅した。彼女は再び布団に戻り、入り口に背を向けて横になった。足首の痛みはもはや感じない。代わりに、全身の血液が沸騰するような高揚感と、下腹部の奥底で渦巻く甘い痺れが、彼女の意識を白く染め上げていた。廊下の床が微かに軋む音が聞こえる。
来た。
彼女はシーツを強く握りしめ、獲物を待つ肉食獣のような、あるいは生贄を待つ巫女のような心持ちで、その瞬間を待った。
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