好きになるまでの距離、失うまでの距離 ―The Distance to Fall in Love, The Distance to Lose It-

青葉 柊

第1話 はじめて気づいた距離

【プロローグ】


 春の午後だった。

 キャンパスの空気はまだ少し冷たくて、

 けれど胸の奥だけは、なぜか落ち着かない熱で満ちていた。


 フットサルコートの端のベンチに腰を下ろしたとき、

 横から「おつかれ」と声がした。


 佐伯美緒だった。


 同じ一年生とは思えないほどよく笑って、

 まぶしいくらいに人懐っこい。

 その手には、冷えた缶コーラが一本。


「飲む?」

 そう言って、迷いもなく差し出してきた。


 手に触れた缶は、驚くほど冷たかった。

 けれど、その温度よりも先に、

 僕の心臓が反応したのをはっきり覚えている。


 ほんの一口飲んだだけで、

 世界の色が変わったような気がした。

 たぶん、恋とはそういうものだと思う。

 理由もなく落ちていく。

 ただそこにある笑顔ひとつで、簡単に。


 彼女は僕の隣に座り、

 汗を拭きながら「楽しいね」と笑った。


 その距離は、肩が触れるか触れないかくらいで、

 風が通るたびに、

 どこか現実じゃないような気がした。


 ──あのときの僕は、まだ知らなかった。


 好きになる距離は、

 こんなにも短くて。


 失うまでの距離は、

 こんなにも長いということを。


【第1話 はじめて気づいた距離 】


四月の風は、まだ少しだけ冷たい。

大学のキャンパスに吹き込むその風に、僕は肩をすくめながら歩いていた。


入学式から三週間。

まだ「友達」と呼べる人は多くない。

講義の教室にも、人の流れにも慣れたようで慣れていない。

そんな、どこにでもいる一年生の春。


その日も僕は、いつものように図書館に向かっていた。

朝の時間は人が少なくて、空いている席を探す必要がないから。


二階のガラス窓際――いつも僕が座る、右から三番目の席。

先に誰かが座っていることは滅多にない。


だけど、その日は違った。


窓際に、女の子が座っていた。

柔らかく波打つ黒髪を後ろでひとつにまとめて、白いイヤホンを片耳だけ。

開いたノートの上に細い指先が走っている。


黒いカーディガン。

淡い桜色のシャツ。

光に透けて見える横顔。


僕は、知らないはずのその子から目を離せなくなった。


いや、それは正確じゃない。


――見たことがある。


新歓の説明会。

学食の行列。

偶然すれ違った中庭。


名前も知らないけれど、

なぜか目に入るたびに印象に残る人だった。


僕は、三番目の席に座るのをやめて、

少し離れた場所に座った。

その距離は、三メートルくらい。

近くてもなく、遠くもなく。

声も届かないけれど、存在は感じられる微妙な距離。


勉強に集中しようとしても、

彼女のページをめくる音が耳に入ってくる。


窓の外には、淡い緑の葉が揺れていた。

春の光がその子の横顔を照らしている。


すると――

彼女が立ち上がって、荷物をまとめた。


席を立つとき、ノートの間から何かが落ちた。


白い、小さな封筒。


僕は思わず立ち上がった。


「これ……落としました」


そう声をかけるつもりが、

振り向いた彼女は僕より早く床に手を伸ばして、封筒を拾い上げた。


「あ……ありがとう」


その声が、思っていたよりずっと落ち着いていて、

少しだけ笑ったように聞こえた。


その瞬間、胸の奥で小さく音がした。


距離が変わる音

――そんな気がした。


彼女はまた微笑むと、

「じゃあね」と言って静かに歩き去った。


名前も知らない。

何を勉強しているかも知らない。

ただ、ほんの一言だけ交わした。


それだけなのに、

図書館の空気が少し変わって見えた。


僕は席に戻りながら、

自分が思っているよりもずっと長く彼女を目で追っていたことに気づいた。


自分の心に生まれたその変化を、

恋とはまだ呼べない。

呼ぶには、あまりに距離がある。


でも、その日を境に、

僕は図書館の窓際に向かうとき、

必ず三番目の席の前で一瞬だけ立ち止まるようになった。


好きになるまでの距離は、

いつだって、ゆっくりと、静かに始まる。


そのことを、僕はこのときまだ知らなかった。


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