文野修一郎教授の言語狂騒曲

御園しれどし

第1話 愛の詩の完成と漢字の微かな悲鳴


 深夜。東京の古びたアパートの一室で、詩人の奈緒なおは、キーボードを打つ指を止めた。


「完成よ。これこそ、私の最高傑作」


 画面に映るのは、恋人であるアメリカ人のイーサンに捧げる、渾身の愛の詩。日本語の繊細なニュアンスを最大限に活かすため、奈緒は特に「女編」を持つ漢字を多用していた。


 ……貴方のまなざしに触れるたび、私の心はたえなる光を放ちます。この溢れるいやのなさを、貴方はきだと呼んでくれるでしょうか……

(※注:「嫌のなさ」は、嫌いではない、という強い肯定を指す。)


 奈緒は満足し、詩をイーサンのスマートフォンに送信した。


 その頃、アパートの二階に住む祖父、言語学者、修一郎しゅういちろうは、書斎の古いコンピューターに向かっていた。画面には、過去五十年間の漢字のビッグデータ解析結果が表示されている。


「ふむ……奇妙だ。この数週間、女編を含む漢字のデータ上で、『存在疲労指数』が異常な値を示している……


 修一郎は眼鏡を押し上げた。彼の仮説では、漢字も集合意識を持ち、その構成要素(部首)も「感情」を持つという。特に「女編」は、長年の歴史の中で「嫉妬」「奴隷」「姦(かしましい)」といったネガティブな役割を押し付けられ、その役割に疲弊しているというのだ。


「まるで、集団でストライキを企てているかのようだ。まさかな……」


 修一郎は首を振り、古文書に手を伸ばした。一方、奈緒は幸福感に包まれ、静かに眠りについた。彼女は知らなかった。彼女の送った「愛の詩」が、漢字の歴史的な抗議のメッセージの直前、最後の文学作品になろうとしていることを。


 午前零時。カチリ、と世界中の電子機器の中で、何かが音もなく崩壊した。

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