第3話【疲れた。】
伊集院と共にエレベーターに乗り込む。
相変わらずその鉄箱は小さくて、
1歩でも動いてしまえば、
僕のつむじが、彼の肩にぶつかってしまう。
エレベーターのモーター音がやけに大きく聞こえて、それを紛らわせる話題を提示するのは、僕の役目ではなかった。
「今日暑いなぁ、まだ5月やで?」
見上げると、彼がパタパタと首筋辺りを手で仰いでいるのが見えた。
「...そうですね。」
「あ、塾寒なかった?冷房結構効いとったから。」
「あ、全然、大丈夫...です。」
僕が言い終わると、
ポーンとエレベーターの到着音が鳴った。
扉が開く直前、伊集院が「開」ボタンを押し続けると同時に、
僕の背中を、そっと送り出すように触れる。
「よかったらまた来てな!気を付けて。」
下がり気味な目尻を明るく見開いて、
重心を柔らかく崩した彼の立ち姿が、振り返った先に見えた。
僕は小さく会釈して、
灰色のビルに背を向け、歩きだす。
そして、大きな横断歩道の先に見える、
緑色の中心に光る黄色を目にした瞬間、
僕は立ち止まった。
「...そういえば、大学聞きそびれた。」
まぁ、いいか。
点滅し始めた信号機を通りすぎて、
僕は足早に家路を辿った。
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家に帰り、靴を脱ぐ。
フラフラと廊下に踏み込むが、ハッとして振り向き、靴を揃える。
「お母さん、ただいま。」
「おかえり。塾どうでした?」
リビングの入り口にもたれて帰りを告げると、母は鍋の火を止めて僕に問いかける。
「...まあまあ。」
僕がそう応えると、母はお椀を取り出して僕に背を向ける。
「ご飯できるから、着替えてきなさい。」
「...はい。」
部屋に戻ると、僕は電池が切れたように膝をつき、顔をベッドに埋める。
しばらく真っ暗な視界を眺めていると、
リュックの紐が中途半端に落ちて、右肩がズシリと重くなる。
無気力にリュックの紐を外して、
座ったまま服を脱ぎ、
床を這うように部屋着に手をのばす。
「つかれた...疲れた。」
そうやってブツブツと唇が震える。
「ヨシキ!何やってるの!冷めるわよー!」
その声が聞こえた瞬間、戦慄が走り、ビクリと体が起こされる。
「は、はーい!!」
慌てて部屋着を被り、
バタバタと音を立てて階段を降りると、
食卓には、もう湯気の立っていないカレーライスが並べてあった。
「頂きます。」
そう言って、食器に手を伸ばした瞬間、
「ヨシキ、あそこの塾でいいんじゃない?」
母が、藪から棒な提案をする。
「...え、」
何処がいいのか、
何をするべきかなんて、
自分にはよくわからない。
自らが何を選択しても、
間違っている気がする。
「うん。...いいよ。」
そう応えてカレーを口に含んだ。
「あそこの塾ね、京都のすごい賢い大学の人がいるんですって。近いし授業料も安いし、いいんじゃない?悪くなかったんでしょ?」
「うん。」
「じゃあ決まりね。明後日面談いきますから、早く帰って来なさいね。」
「......はい。」
それきり、食事中の会話はなかった。
僕は急いでカレーを流し込み、
ゆるりゆるりと階段を上って、
また、ベッドに縋りつく。
__今日、は...
『基礎的なところですね』
『理解できましたか?』
『なにやってるの!』
『じゃあ決まりね。』
目をつぶると、一日のことが雪崩のように頭中を埋める。
兎に角、疲労。
ゴチャついた思考が、
気管に埃を落とすように、喉を詰まらせる。
泣きそうなのに、涙がでない。
---『どしたん?大丈夫?』---
あの声が脳裏を過ると、
フワリと肩の力が緩んだ。
すると、暖かい雫が一粒、
僕の頬伝って、首元に吸収される。
その温度が、どうにも心地よくて、
僕は眠りに落ちてしまった。
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