第5話 角あるもの

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 水神母娘から聞いた話を、雷と瑠々に伝え終えたのが十時過ぎ。真剣に耳を傾けた二人だったが、今はもう寝ている。神経の図太さは見習わなければならない。

 あるいは事の重大さを理解していない可能性もある。

「呑気なやつらだなあ」

 鋼刃は庭に出た。火照った体を冷ましたかったからだが、心に燻ぶった火種は消えることない。とても寝付けそうになかった。

 軽く運動しながら空を見上げると、星が綺麗だった。市街地からわずか十キロほど離れた山の中にもかかわらず、鋼刃の育ったところと変わらない。空気が澄んでいる。

 神の力か祝福なのか知らないが、ここはやはり特殊な場所なのだろう。

 風が吹いてきた。心地よい風だった。

 庭の中ほどにある池のほとりに移動し、鋼刃は揺らめく水面を見つめた。

 月明かりが反射し、鋼刃の顔をおぼろげに映し出す。

 鋼刃は左目を閉じた。

 三島慶蔵のもとでの修行の後半によくさせられたものだった。これの意味するところが未だによく分かっていないが、瞑想代わりになって心が落ち着くのだ。

「ふうん。アポロンみたいなことするのね」

 突然言葉を掛けられ、鋼刃はぎょっとした。この行の最中は集中しすぎていて、りつこの気配を感じとることができなかった。

「脅かすなよ。つうか、まだ起きてたんだ?」

「うん。本読んでたら、目が冴えちゃってさ」

「さすが勉強家だな。ところで、アポロンってギリシャ神話のアポロンのことか?」

「そうよ。ピュトンという竜を退治したアポロンが、聖地デルフォイと神託の秘儀を得て、各地にアポロン神託所ができたの。ピュチアという特別に選ばれた巫女が、神殿の奥底に降りて、水で満たされている大釜を覗き込むの。で、じっと見続けるとアポロンからの神託が現れる――んだけど、聞いてる?」

「も、もちろん」

 あわてて返事をしたものの、驚きを隠せないでいた。師匠に無理やりさせられていたといっていい修行が、りつこによって、その片鱗を明かされたのだから。しかも、異国の古代神話からなのだ。

「ふふ。あたしもやったことがあるんだよ」

と、りつこはいたずらっぽく笑う。

「お母さんに言われてね。おかげさまで、あたしは生き神さまとしての才能が開花したみたい」

「へえ。そうだったんだ。ん? ひょっとしておまえの異常な記憶力もか」

「ううん、それは……」

 りつこが言い淀むのを見て、鋼刃は話題を変えた。このあたりの気遣いには長けているのだ。

「また、いつか聞かせてもらうよ。ところでさ、この行の意味って何かわかるか? 師匠に訊いてもわからんって言うしさ」

 りつこはしばし逡巡し、やがて切り出した。

「昔、中国では不思議な習慣があったの」

 これはまたいきなり別の方向から話が始まるようだ。

「古代の中国は呪い《まじない》がいろいろな機会に行われる社会だったのね。呪術師が大活躍したの」

 ポケットから手帳を取り出すと、地面に「媚」という字を書いた。

「この字、これは眉飾りをつけた女……つまり巫女さんのことなの。戦争の時はこの媚女を軍の戦闘に何千人と並べて、眉飾りをつけた目の力で、敵軍に呪術の力を加えて攻撃したといわれているわ。武器を使う前に、こういった呪いの力を使って相手を倒すことをやったのよ。超スケールのにらめっこってところね」   

 次いで「臣」「賢」「監」と三つの字を書いた。

「いい? 臣だけど、これって、人の目の形が元になってできてるのよ。古代中国では神に仕える人は、瞳をわざと傷つけて視力を失った人がいたんだって。絵にしないとわかりにくいんだけどね」

と、言いながら、今度は臣の古代文字を書く。

「どう? 一つ注意しておくけど、これって、左目なのよ。そして、これを手でつぶす! 「賢」の又は手のことなのね。つまり、瞳に指を入れて傷つける姿ね。そうやって、神に仕えた人が「臣」よ。賢い人ってことね!」

 りつこの饒舌は止まらない。

「下の貝は後から付け加えられたんだって。貝は通貨に使われていたから、お金のやりくりとかがうまい人を賢い人というようになったんだけどね」

 鋼刃はうんうんと頷く。 

「次は「監」ね。上の部分は昔は臥だったのね。臥は人がうつむいて下を見る姿なの。「皿」は水を入れた水盤。つまり、ここでいうとこれよ」

といいながら、鋼刃に今見ている池を指差す。

「うん。それで?」 

 りつこの説明が上手なせいで、鋼刃にもよく理解できる。

「賢い人は、水鏡に映る自分を見て鑑みるのよ。ちなみに天皇家に伝わる三種の神器のひとつ八咫鏡の別名は賢所かしこどころっていうの。暗示的でしょ?」

「へえ」

 鋼刃はそれはわからず、心無い返事をする。

「でも、なぜそれが賢いことにつながるのかは、わたしもわからないなあ。専門外だもん。お父さんなら、解明してくれるかもしれないけど」

 そういえば、りつこの父には会ったことがない。それどころか見たこともないのだった。

「りつこのお父さんって、今どこにいるんだ?」

「世界中を放浪してるみたい。変わった人だから」

 なるほど。この母娘に相応しいといえば怒られるだろうか。

「いきなりふらっと帰ってくるんだけどね。この前連絡あったときは、アイルランドにいるって言ってた」

「そっか」

 落胆とまではいかぬが、内心がっかりしていた。行の秘密に少しでも迫ることができると期待したのだが。

「ぼくが代わりに説明してあげようか」

 突然聞こえた背後からの声に鋼刃は驚いた。

 気配をまるで感じとれなかったことに焦りも覚える。

 声の主は誰あろう、いつか見た少年だった。確かに俺はこいつと会ったことがある。でも、思い出せない。

「いつのまに?」

 鋼刃の問いは無視し、少年はりつこに微笑みかけた。

「お姉さん。すごいね。なんでそんなに色々なこと知ってるの?」

 鋼刃はりつこが異常なまでに秀才だということを知っている。それでも、今の説明はほんとうにすごいと思った。少年も同様らしい。

 が、りつこはさらに上を行った。

「あなたが誰だか知らないけど、代わりに説明できるなら、あなたを認めてあげてもいいわよ」

 張り合ってやがる! こんなときまでライバルと見ると対抗意識むき出しにするとは、りつこの負けず嫌いには呆れるしかなかった。 

「感覚を一時的に遮断し、実像と虚像の区別がつかないものを見続けることにより、視神経から脳に通された情報がバグを起こすんだ。でも、脳は問題解決のためにずっと働き続けるよ。さらに、脳への酸素の供給を不足させて酸欠状態にすれば、機能に狂いが生じて、自分の脳にしまいこんでいたあらゆる情報、かくされていた真実が逆流してくるってわけ。ここまではオーケイ?」

 少年はまだ説明を続けようとしていたが、鋼刃が遮った。

「そ、そうか。酸欠が鍵だったのか」

「心当たりがあるの?」

「あ、ああ」

 少年は満足そうに頷くと、再び話し始めた。

「アセナのお姉さんを未来に連れていくのがぼくの目的だったけど、お兄さんがもう摩狼怒なら、もっと上を目指してよ。そうすれば未来は変わるんだ」

 言い終えると少年は消えた。

 アセナと摩狼怒という謎の言葉を置き残して。

「おい、待て! なんで消えるんだよ? 最後まで聞かせろ」

 虚空に向かって繰り返し問いかけながら、鋼刃は混乱していた。

 りつこもまた、何が起きたのか、よくわからないままに、その光景を見つめるしかなかった。

「ねえ、摩狼怒って、三島師範から聞いたことはないの?」

「ああ、初めて聞いた言葉だ」 

客人神まろうどがみのことかしら?」 

「なんだ、それ?」

「ほら、アラハバキとか、聞いたことない?」

「日本の東北地方一帯に見られる民俗信仰の神だったかな」

「そうそう! よく知ってるじゃない」

 鋼刃も一応教養の一環として、その辺の勉強はしている。いや、させられている。

「でね。アラハバキって神様は信憑性を問われているフシもあるんだけど、おもしろい神様なの。鋼刃くんが言ったようにそもそもは東北地方の神様なんだけど、関東より南でもアラハバキを祀る神社は多いのね」

「ふうん」

「アラハバキは主祭神としてではなく、門客神もんきゃくじんとして祀られていることが多いわけ。でぇ。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神《まろうどがみ

》」のことを指すの。客人神は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているのよ。ね? おもしろいでしょ?」

「どこがだよ」

 鋼刃はすでについていけない。

「だって、外からやって来た神を地元の神が受け入れて丁重にもてなしてくれたってことなんだよ? 考えにくくない? 例えるなら、キリストとアラーを一緒に祀っているってことだよ?」

「そういうことか!」

 鋼刃は納得し大きく頷いた。

「他にも埼玉の氷川神社の門客神神社、島根の美保神社の客人社、広島の厳島神社の客神社、とかが有名よ」

 りつこにとってはだろうけど。鋼刃はあきれるばかりだ。

「それぞれの客神はアシナヅチ、テナヅチ、これはスサノオの奥さん奇稲田姫の両親ね。美保神社はこれが不思議で大国主。地元なのに客神なのには理由があって、まあ、これは長くなるからいいか」

 しかし、楽しそうに話すものだ。りつこの生き生きとした表情を眺めていると鋼刃は楽しくなる。

「厳島神社の主祭神はご存じ宗像三女神ね。客神は三女神の兄弟、その他五人の男たち」

 そんな言い方ないだろ。鋼刃は心の中でツッコミを入れる。

「まだ他にもあるんだけど……そうだ! 大事な福井の気比神宮の角鹿神社を忘れていたわ。主祭神は伊箸沙別命いざさわけのみことといって、あなたにはあまり馴染みがないよね?」

 俺に限らないと思うぞ。

「この神様は十四代仲哀天皇のときに登場するのね。でね、面白いのが気比神宮の客神はそれより遡って第十代崇神天皇の時代に敦賀にやって来た都怒我阿羅斯等つぬがあらしとと言って、これまた馴染みがない名前なんだけど、日本書紀によれば朝鮮の意富加羅国から渡来した阿羅斯等には、なんと額に角が生えていたとされているんだよ。すごくない?」

 そこまで言い終えて、りつこはため息を突いた。

「どうした?」

「ううん。今はこんなこと考えてる場合じゃないな、って。先行き不透明だしね」

「おまえの予知能力でどうなるかわからないのか」

「ここだけの話よ。バァル・グイツとの一件以来、未来とか見えなくなっちゃったの」

「そうなんだ……」

「うん。でも、なんかさっぱりするし、これでいいのかな? なんて思ったりしてる」

「もったいないような気がしないでもないけどなあ」

「未来なんて見えない方がいいって。 見えたっていいことないし」

 りつこの潔さが、鋼刃はますます気に入った。

「おまえのそういうところ好きだな」

「え?」

「あ、その、え?」

「今、なんて言った? ねえ?」

「いや、もう遅いから寝るわ。じゃ、おやすみ」

「なによ、それ!」

 なにかと物足りなさそうなりつこを振り切って、鋼刃は自室へと向かった。

 途中、振り返るとりつこも背を向けていた。

 鋼刃は思い切って声を掛けた。

「楽しかった。また話聞かせてくれな!」

 りつこは振り向きざま、あかんべえだけをして部屋に戻っていった。

 変な神さまもいたもんだ。

「やべ。うっかりコクっちまった」

 自らの側頭部を拳で叩きながら、それでもにやにやが止まらない鋼刃だった。 

   

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