第11話

 12月25日の朝は、世界が死に絶えたかのように静まり返っていた。


 水瀬悠木は、午前六時に自然と目を覚ました。アラームの電子音に頼る必要はなかった。


 昨夜、離婚届に署名し、捺印するという儀式を終えた瞬間から、彼の体内時計は奇妙なほど正確に、そして冷徹に時を刻み始めていたからだ。


 ベッドから抜け出し、リビングへと向かう。


 厚手のカーテンの隙間から、鉛色の光が差し込んでいた。窓の外を見ると、昨夜のホワイトクリスマスを演出した雪が、さらに厚みを増して降り積もっていた。


 除雪車の轟音が遠くから微かに聞こえる。その重低音は、巨大な獣が地底で呻いているようにも思えた。


 室温は十度を下回っているだろうか。肌を刺すような冷気だが、悠木は暖房を入れる気にはなれなかった。


 この寒さこそが、今の彼の精神状態に相応しい。思考を鋭利に研ぎ澄ませ、感情という不純物を凍結させるための、最適な環境だった。


 彼はキッチンに向かい、コーヒーを淹れる準備を始めた。豆を挽く。電動ミルではなく、手動のミルを使う。


 ゴリゴリという硬質な音が、静寂な空間に響き渡る。豆が砕かれる感触が、ハンドルを通じて掌に伝わる。破壊の感触だ。


 昨夜、この家には悠木一人しかいなかった。妻の市子は、秋田駅前のホテルで相場隆という男と一夜を過ごした。


 バタイユが言うところの「蕩尽」の夜だ。彼らは性というエネルギーを浪費し、倫理という枠組みを破壊することで、束の間の「至高性」に触れたつもりになっているのだろう。


 だが、その宴は終わった。


 お湯を注ぐと、膨らんだ粉から芳醇な香りが立ち上る。悠木はブラックのまま一口啜った。苦味が舌の奥に沈殿する。


 午前八時を回った頃だった。


 玄関の電子錠が解除される音がした。ピロリン、という無機質な電子音が、処刑のファンファーレのように聞こえた。


 重いドアが開く音。雪を落とすために靴をトントンと叩く音。そして、「ただいま」という、少し掠れた、しかし妙に明るさを装った声。


 悠木はソファに座り、読みかけの文庫本に視線を落としていた。ページに書かれている文字など目に入っていない。全神経が聴覚に集中している。


「……おかえり」


 視線を上げずに答える。いつも通りの、少し無愛想で、しかし穏やかな夫の声色を完璧に再現する。


 リビングのドアが開き、市子が入ってきた。


 厚手のダウンコートを着ているが、その下には昨夜悠木に見せたことのない赤いランジェリーを身につけていたはずだ。


 化粧は直されているが、ファンデーションの厚塗りで隠しきれない肌のくすみと、目の下の微かなクマが見て取れる。そして何より、まとっている空気が違う。


 他の雄の匂い。精液と汗、そしてホテルの安っぽい消臭剤が混じり合った、独特の残り香。悠木の鼻腔が微かに痙攣した。


「ごめんね、遅くなっちゃって。雪がすごくて、タクシーが全然来なくて……」


 市子は早口でまくし立てながら、悠木の方を見ようとしない。視線を逸らしながら、マフラーを解き、コートを脱ぐ。その動作の一つ一つに、罪悪感というよりは、事後処理を急ぐ焦燥感が滲んでいる。


「大変だったね。外、寒かったろ」


「うん、すごく寒かった。昨日は結局、美由紀の家に泊めてもらっちゃって。飲み過ぎて動けなくなっちゃってさ」


 美由紀。市子の高校時代からの友人だ。もちろん、昨夜彼女が美由紀と会っていないことは、探偵の報告書によって明白である。


「そうか。美由紀さんも元気だった?」


「ええ、元気元気。旦那さんの愚痴ばっかり言ってたけど」


 市子はキッチンへ逃げるように移動し、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出した。ごくごくと喉を鳴らして飲む。喉が渇いているのだろう。激しい運動の後のように。


 悠木はページをめくるふりをした。


 サドは『悪徳の栄え』の中で、悪徳こそが自然の法則であり、他者を犠牲にして得られる快楽を肯定した。市子は今、まさにそのサド的なヒロインを気取っているのかもしれない。夫という「法」を欺き、間男との情事に溺れることで、平凡な主婦という殻を破ろうとしている。


 だが、サドの物語において、悪徳を行う者は常に強者でなければならない。市子のような、承認欲求と性欲に流されるだけの弱者は、最終的には破滅する運命にある。


「コーヒー、淹れたてがあるけど、飲む?」


 悠木が声をかけると、市子はびくりと肩を震わせた。


「あ、うん。いただくわ」


 悠木は立ち上がり、キッチンへ向かう。市子の横を通り過ぎる際、ふわりと香水の匂いがした。いつものブランドではない。恐らく、情事の後の匂いを消すために、隆の車の芳香剤か、あるいはホテルのアメニティの香りが移ったのだろう。


 カップにコーヒーを注ぎながら、悠木は背中越しに話しかけた。


「昨日の女子会、楽しかったみたいだね」


「ええ、久しぶりだったし。……あの、悠木は昨日の夜、何食べたの?」


 話題を逸らそうとする安易な戦術。悠木は口元だけで笑った。


「コンビニの弁当だよ。一人のクリスマスイブなんてそんなもんだろ」


 カップを二つ持ってリビングに戻り、ローテーブルに置く。カチャリ、と陶器が触れ合う音が響く。


「座って飲んだら?」


 悠木に促され、市子は躊躇いがちにソファの端に腰を下ろした。悠木はその対面、いつもの自分の定位置に深く腰掛ける。


 湯気が二人の間に立ち上る。白いカーテンのように、互いの表情を曖昧に隠している。


 悠木はコーヒーを一口飲み、それからゆっくりとカップを置いた。そして、まるで世間話の続きのように切り出した。


「そういえばさ、市子。家計簿、今月から僕が管理しようかと思って」


 市子の手が止まる。カップを持ち上げようとしていた指先が、空中で硬直した。


「え……? 急にどうしたの?」


「いや、将来のために少し資産形成を見直そうと思ってね。無駄な出費も減らしたいし。ほら、君も最近、美容代とか交際費とか嵩んでるみたいだし」


 悠木は穏やかな口調を崩さない。あくまで論理的で、建設的な提案であるという体を装う。


「だから、昨日の女子会のレシート、あるかな? 幾らくらい使ったのか把握しておきたいんだ」


 市子の顔から血の気が引いていくのが、手に取るように分かった。瞳孔が揺れ、視線が宙を泳ぐ。


「レシート……? あ、えっと……捨てちゃったかも。割り勘だったし、美由紀がまとめて払ってくれたから、私の手元にはなくて」


「そう。でも、金額くらいは覚えてるよね? どの店に行ったの?」


「えーと、駅前の……居酒屋よ。名前は忘れちゃったけど、チェーン店みたいなところ」


「チェーン店?」


 悠木は首を傾げた。探偵からの報告によれば、二人がチェックインしたのはシティホテルの高層階にあるフレンチレストランだったはずだ。一人二万円のクリスマスディナーコース。ワインもボトルで空けている。


「おかしいな。美由紀さんのインスタグラム見たんだけど、昨日は家族でホームパーティーしてる写真が上がってたよ」


 これはカマかけだ。だが、市子の顔色を見る限り、効果は覿面だった。


「あ、そ、それは……お昼の話よ! 夜に私と会ったの!」


「ふうん。でもさ、僕の友達が昨日、秋田駅前のホテルでディナーしてたらしいんだけど」


 悠木は身を乗り出し、市子の目を真っ直ぐに見据えた。逃がさない。この視線は、バタイユが『眼球譚』で描いたような、見る者が見られる者を支配するための暴力装置だ。


「綺麗な夜景が見える窓際の席で、君を見かけたって言ってたよ」


 市子の唇がわなないた。言葉が出ない。酸素を求めて口をパクパクと開閉させる様は、まるで陸に上げられた魚のようだ。


「……見間違いじゃない? 私、そんな高いところ行ってないし」


「見間違いかな。その友達、目がいいんだよ。それに、隣にいた男の人についても詳しく教えてくれた」


 悠木はわざとらしく天井を見上げ、記憶を探るふりをした。


「若くて、背が高くて、スーツを着た営業マン風の男だって。……心当たり、ある?」


 決定的な一言。


 市子の持っていたカップが、ガチャンと音を立ててソーサーにぶつかった。中身が少し溢れ、テーブルクロスに茶色い染みを作る。その染みは、彼女の純白の嘘に落ちた、消えない汚点のように見えた。


「な、なによそれ……。私が浮気してるとでも言いたいの? 酷い……信じてくれないの?」


 逆ギレ。古典的だが、追い詰められた人間が最後に見せる防衛反応だ。市子の目には涙が溜まっている。だが、それは悲しみの涙ではなく、保身と恐怖からくる生理的な分泌物に過ぎない。


 悠木は冷ややかにそれを見つめた。かつて愛した妻の顔が、今は醜悪な仮面に見える。彼女の中にある「他者性」が、これほどまでに露わになったことはない。


 彼はゆっくりと立ち上がった。


 窓辺に歩み寄り、雪景色を見下ろす。厚い雲に覆われた空は、どこまでも重く、暗い。秋田の冬空だ。この空の下で、人は孤独に耐え、業を背負って生きていくしかない。


 悠木は深く息を吸い込み、肺の中に冷たい空気を満たした。そして、振り返る。


 その時、彼の口から出た言葉は、これまでの理性的な標準語ではなかった。


 彼の血肉に刻まれた、この土地の言葉。泥臭く、荒々しく、しかし真実を射抜くための言葉。


「おめ、何してらんだ?」


 低く、地を這うような唸り声だった。


 市子がびくりと体を跳ねさせた。悠木の口から、そんな言葉が出るとは思ってもいなかったのだろう。彼は普段、家庭内で方言を使うことを避けていた。知的で都会的な夫であることを是としていたからだ。


 だが、今の悠木は違う。ナマハゲが山から下りてきたのだ。包丁を研ぎ澄まし、怠け者や悪事を行う者の皮を剥ぐために。


 悠木は一歩、また一歩と市子に近づいていく。足音が重く響く。


「昨日、どさいった? 誰と寝た? 美由紀のへさ泊まったなんて、そんたな嘘、通用すると思ってらが?」


 秋田弁のイントネーションは、独特の圧迫感を持っている。濁音が混じり、語尾が重く沈む。それは単なる言語ではなく、呪詛に近い響きを帯びる。


「ゆ、悠木……やめて、怖い……」


 市子がソファの後ろにずり下がろうとする。だが、悠木は止まらない。テーブルに手をつき、市子の顔の目前まで迫った。


「おめ、自分の亭主騙して、他の男とホテルさいって、それで平気な顔して『ただいま』ってか? ……恥ずかしくねえのか!!」


 最後の怒号が、雷鳴のようにリビングを揺るがした。ハタハタを呼ぶ雷ではない。神の怒り、夫の絶望が爆発した音だった。


 市子の表情が崩壊した。演技も、保身も、プライドも、すべてが吹き飛び、剥き出しの恐怖だけが残った。


「ひっ……!」


 彼女は悲鳴ともつかない声を上げ、ソファから転げ落ちるようにして立ち上がった。


「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 謝罪の言葉を繰り返しながら、後ずさりする。その姿は滑稽であり、同時に哀れでもあった。


 だが、悠木の心に慈悲は湧かなかった。サド公爵が見たら拍手喝采を送るだろうか。いや、まだ足りない。これは序曲に過ぎない。


「逃げるな。座れ」


 悠木は再び低い声で命じた。方言ではない。冷徹な命令者の声に戻っていた。


 だが、市子の精神はすでに限界を超えていたようだ。彼女は首を激しく振り、乱れた髪を振り乱しながら、リビングの出口へと走った。


「いやぁぁぁっ!!」


 寝室へと続く廊下を走る足音。そして、バンッという激しい音と共にドアが閉められ、鍵をかける音がカチャリと響いた。


 リビングに再び静寂が戻った。


 残されたのは、溢れたコーヒーの染みと、悠木一人だけだった。


 悠木は追わなかった。


 今、無理やりドアをこじ開けて追及する必要はない。恐怖は、時間と共に増殖する。閉ざされたドアの向こうで、市子は自身の罪と向き合い、悠木がどれだけの証拠を握っているのか、これから何が起こるのかを想像し、震え続けることになるだろう。


 想像力こそが、最大の拷問器具なのだ。


 悠木はゆっくりとソファに腰を下ろし、冷めかけたコーヒーを手に取った。


 一口含む。


 先ほどよりも苦味が強く感じられた。それは豆のせいではなく、口の中に残る、言葉という暴力の後味だったのかもしれない。


「……秋田弁か」


 自嘲気味に呟く。


 あんな風に感情を露わにするつもりはなかった。だが、いざ口を開いてみると、腹の底から湧き上がってきたのは、理路整然とした論理ではなく、この雪国が育んだ土着の怒りだった。


 窓の外では、雪が激しさを増していた。視界を白く塗りつぶしていくその白さは、すべてを隠蔽するようでありながら、同時に世界の残酷さを際立たせているようにも見えた。


 悠木はスマートフォンの画面を点灯させた。クラウドストレージのアプリを開く。


 そこには、「Ichiko_Secret」と名付けられたフォルダがある。市子の裏アカウントから吸い出した、膨大な画像と動画データ。そして、探偵から送られてきた、昨夜の決定的な証拠写真。


 これらはすべて、彼女を社会的に抹殺するための弾丸だ。


 トリガーに指はかかっている。あとは、いつ引くかだけだ。


 寝室からは、微かな嗚咽が漏れ聞こえてくるような気がした。


 悠木は目を閉じ、バタイユの言葉を反芻した。


『エロティシズムとは、生のただ中における死までの称揚である』


 市子と隆のエロティシズムは、今まさに「死」へと向かい始めたのだ。肉体の死ではない。社会的な死、家庭の死、そして魂の死へと。


 悠木はその執行人として、静かに、しかし確実に、次の手番を待つことにした。


 今日はクリスマス。聖なる日だ。罪人たちが祈りを捧げ、許しを請うには、これ以上ない日和だろう。


 彼は残りのコーヒーを一気に飲み干すと、空になったカップをテーブルに置いた。乾いた音が、終わりの始まりを告げる鐘の音のように、冷たい部屋に響いた。

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