魔法使い
宵月乃 雪白
三毛猫
その日はちょうど今日のように雨が降っていた。梅雨の時期だというのに私が行動する時間には雨が降っていることはなかったけれど、その日は溜めていた何かを吐き出すかのようにゆっくりと、雨が降っていた。
二時間に一本しか走っていないバス。電車なんてものが通っていないこの不便な場所では唯一の公共交通機なのだけど、農業を生業にしている人しかいないここでは車を持っていない人はまずおらず、この歳になって持っていないのは私だけだろう。
午後三時。中途半端なこの時間ではバスを待っている人は私だけ。朝や夕方は多少混むのだろうけど、その混み具合を知らないからなんとも言えない。
二人の人が座れるベンチで私は座っている。ありがたいことに設置されている木製の屋根のおかげで降っている雨はしのげているが、端のほうに住みついている蜘蛛が気になってしょうがないが、そこは我慢するほかない。なんせ、蜘蛛の家に勝手に座り込んでいて文句を言える立場でもなんでもないのだから。
「ミャー」
どこからかやって来た、綺麗な毛並みをした三毛猫が隣に居た。首輪をつけていないことから野良猫だということはすぐに分かったのだが、野良猫にしては警戒心がないような気がする。
ぐっしょりと濡れた体をブルブルと振るわせ、体についた雨を飛ばして、何事もなかったかのように私を見る。
「何も持ってないよ」
「ミャミャ」
「持ってないよ。ごめんね」
「ンナァー」
「本当に何もないんだって」
本当に何も持っていないのだ。スマホもお金も何もかも。着の身着のまま出て来たのだから。
「さむっ」
雨に濡れて冷えた身体。暖を取る術も取ろうという気力すらも、この雨と共に流されてしまった。
何がいけなかったのだろう。何を間違えてしまったのだろう。分かっていたことが何一つとして分からない今、私は何処へ向かっていけばいいのだろう。
そのとき、トンと何か柔らかい感触がむき出しの太ももに感じた。
「あっためてくれるの?」
「ミャ、ミャ」
短く二回目。私の言葉の意味が分かっているように返事が返ってきた。自分だって寒いはずなのに、体温を分けてくれるなんて………しばらくの間、触れていなかった優しさが目に染みて温かい。
初対面にも関わらずお腹を見せてくれた三毛猫は、両手両足を器用に使って水の滴る私の髪をチョイチョイと触れて遊んでいる。
「アハハ。髪長くてよかったな」
ベッドメリーに触れようと遊ぶ、あの子のようなその仕草に思わず撫でてしまう。
「ゴロゴロ」
「フフ。可愛いね」
三色の毛並みに柔らかな肉球。全部が全部あの子に似ているわけではないのに、こんなにも胸が締め付けられるのはなぜだろう。
「ねぇ。何処へ行っちゃったんだろうね」
「ミャ」
何処へ行ってしまったのだろう。探しても探しても見つからない、ゴールの見えない暗い道。明かりも綺麗な景色ですらない。あるのは真っ黒で沼のような、沢山のモノを押し込んだ何かだけ。
「……………帰ろう」
低く落ち着いた聴き馴染みのある声。この雨の中わざわざ迎えに来てくれたのだろうが、家に帰る気は一切ないため目も合わせず返事の一つもしない。
膝に乗ってくれた三毛猫を毛の流れにそって撫で、彼が去ってくれるのを嵐が過ぎ去るよう、ただじっと待つだけ。
「二人とも」
ビチャビチャと激しく雨音が響く中。はっきりと彼の言葉だけが耳に残った。
彼を見る。自分が濡れるのも構わず一本の傘をこちらに向け、少し屈んだ姿勢で私と三毛猫をその柔らかな瞳で見つめていた。私と同じようにできた目の下の濃いクマは彼が私と同じだけ苦しいと現しているように、はっきりと存在感を示していた。
彼も同じだったのだ。苦しくて、辛くて。それでも前を向いていないと生きていけないから、消えることのない傷を必死に縫い合わせながら日々を過ごしていただけだったのだ。
「暗くなる前に帰ろう……その子と一緒に」
「……うん」
差し伸べられた彼の細かい傷が目立つ手をとり立ち上がる。寒かった空気が一瞬、春のような生命の息吹を感じられる温かいものに変化したような気がして思わず振り返る。
そこにはさっきまで座っていた茶色いベンチしかなく、小さな命もそのカケラも見当たらなかった。
あたりを見渡しても居ない三毛猫はまるで魔法使いのように、ぬくもりという魔法を私というちっぽけな人間にかけ、何処か知らない場所へと行ってしまったようだ。
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