霧の道をキミと
朝霧一樹
第1話 霧が開く駅
霧が、ゆっくりと揺れていた。
音もなく、風もなく、
白い霞だけが世界を覆い尽くしている。
少女は、ぼんやりと目を開けた。
どれほど眠っていたのかも、
どうしてここにいるのかも分からない。
ただ、冷たい空気と、足元に敷かれた鉄の感触だけが鮮明だった。
――駅?
そう思ったのは、
靄の向こうにぼんやりと“ホームらしい影”が見えたからだった。
誰もいない。
列車の気配も、アナウンスの声もない。
けれど、確かにここは駅の構造をしている。
自分の名前は……思い出せる。
でも、その続きを探そうとした途端、
記憶は霧に溶けるように曖昧になった。
(どうして……?)
小さく息を吸い込んだときだった。
指先に、固い感触があった。
少女はそっと手を開く。
そこには、小さな銀のペンダントが握られていた。
まるで誰かの形見のように、
強く握りしめていた跡が残っている。
見覚えはない。
けれど、なぜか手放してはいけない気がする。
そのとき。
「――あ、それ俺のだわ。」
霧の奥から、軽い声がした。
少女は驚いて顔を上げる。
霧をかき分けるように、
ひょい、とひとりの青年が現れた。
肩までの癖のある茶色の髪。
眠たげで、どこか底の見えない琥珀色の瞳。
軍服のような深い紺の上着を着ているのに、
腰の抜けるほど軽い雰囲気。
そして何より――笑っている。
「いや、まじで。持っててくれてありがとな?ずっと探してたんだよ。」
青年はペンダントを覗き込み、
にやっと片側だけ口元を上げる笑い方をした。
まるで古い友人に話しかけるような自然さで。
「……あなたの、もの?」
少女は戸惑いながら手の中の銀を見つめる。
「そうそう。懐かしいやつ。」
青年はひょいと手を伸ばし、
でも奪うようには触れず、
「返してくれたら助かるけど……無理にとは言わねぇよ?」
と軽く笑った。
少女は、わずかに考え、そっとペンダントを返した。
青年は受け取ると、少しだけ大事そうに指で撫で、
すぐに胸元へしまい込んだ。
「……ありがとう。」
その一言だけは、軽くなかった。
少女が息を呑んだとき、彼はもう笑っていた。
「でさ。ここで立ち尽くしてても寒いだろ?よかったら、一緒に歩かない?」
彼は霧の奥へ続く道を指さす。
「行き先が分かんないなら、とりあえずこっち。まぁ、俺も明確に分かってるわけじゃねーけど。」
軽さしかない誘いなのに、
なぜか、不思議なくらい怖さはなかった。
少女は小さく頷く。
「……はい。」
「よし、決まり。」
青年は軽い足取りで先を歩き、
少女はその後ろに続く。
霧は深いのに、
その背中だけははっきり見えた。
二人の足音だけが、静かに駅を離れていく。
こうして――
名前も思い出せない少女と、
正体を名乗らない青年の旅が始まった。
霧の道の、本当の意味を知らないままに。
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