第4話

 少年は、自身がいわゆる性格の悪い人間であることを強く自覚していた。小学校に通う中で友達と呼べる存在を自然に作れないこと、担任の教師から「素直になりなさい」「思いやりを持ちなさい」などといった言葉で叱られること、そもそもクラスメイトから「お前は性格が悪い」とストレートに言われること。普通に生きていてそうなるのならば、きっと自分がそういう人間なのだろうと、彼はそう思うしかなかった。


 少年は物心ついた頃から本を読み、物語を書いていた。彼にとってそれは、外でかくれんぼをするよりも、家でテレビゲームをするよりも相当に楽しいことで、娯楽であり習慣であった。当たり前の感覚で当たり前のようにそうしていると、周囲の子たちは不思議がった。不思議がるには留まらなかった。


三尋木みひろぎは暗い」

「三尋木は偉そう」

「ノリが悪い」

「嫌味たらしい」

「気持ち悪い」

「ウザい」


 陰口はいつからか全て耳に入ってくるようになったし、持ち物にイタズラをされることも日常茶飯事になった。いじめだと思えば苦しかったし、意固地に「そういうものだ」と思えばなんとか無関心でいられた。一昨日はからかわれて突き飛ばされたし、昨日はノートがなくなっていたし、今日は靴を履かずに家に帰らなければならない。そんな学校生活が一年近くも続いたが、三尋木少年は、それが『性格の悪い人間の歩む道』であると理解することにして、無理矢理に、憮然と、靴下越しに晩秋のアスファルトを踏みしめた。冷たかった。


 そうして辿る家路の中ほどで、何やら背中のずっと後ろのほうから自分の名前を呼ぶ声がしたので、三尋木は足を止めた。振り返ると、二人の同級生の姿が見える。知らないようで知っている顔、隣のクラスの鍛代就介きたい しゅうすけ鈴野勇吾すずの ゆうごだ。

 三尋木は二人と話したことはないが、誰だかがわかった。誰だかはわかったが、何故呼び止められたのかは直ぐにはわからなかった。二人がこちらに向かって急いで走ってくるのが見える。三尋木の頭には『逃げる』という選択肢も過ったが、今日は靴を履いていないので、諦めた。


「一組の三尋木渉みひろぎ わたるくんだよね。これ、キミのだろ」


 走って三尋木に追いつくなりそう言ったのは、三組の鍛代少年だった。毎年、運動会でリレーのアンカーを務めている彼のことを知らない同級生はいない。三尋木は、彼が何故自分の名前を知っているのか、何故話しかけてきたのかと考えてしまい、返す言葉がすぐには出てこなかったが、彼が差し出した物を見て状況を少し察することができた。


「……僕のノートだ」


 ノートは少し土で汚れていたが、聡い三尋木には、これが『もっと汚れていたが誰かがその汚れを拭いたもの』であることがすぐにわかった。


「あとこの靴。これもお前のだろ」


 三尋木が状況をひとつずつ理解する作業の中、鍛代の隣にいた三組の鈴野少年は、黒いスニーカーを足元に置いた。紛れもない、三尋木のものだ。

 鈴野勇吾といえば、背の高い、学年のガキ大将のような存在で、三尋木にとっては相容れなさそうな存在という印象しかなかった。でも彼はこうして、友達でもない自分の、隠された靴を取り返してきてくれている。


「……見るに、君たちが僕の持ち物を、誰かから取り返してくれたか、どこからか見つけてきてくれたように思う。そうだろうか」


 三尋木がやっと二人に投げかけることができた言葉は、小学四年生らしくもないそれだった。足の速い人気者とガキ大将。同じ学校に通っている同い年の少年という以外に共通点のない二人が、何故か自分のためになることをしてくれるという、ただただ不思議なことが起きていると思い、内心焦っている。内心焦っているからこそ、素直な言葉が出てこなかった。


「何て? お前なぁ。こういうときはまず『ありがとう』だろ? そんなんだからいじめられるんだぜ?」

「ユーゴ、やめなよ。別にお礼をされたいわけじゃない」

「……いや、本当にその通りだ。二人とも、ありがとう」


 言わされるような形になるのは良くないと思いながらも、三尋木は急いで感謝を述べるしかなかった。不思議である以上に、これまで感じたことのない嬉しさを覚えていたからだった。


「俺は鍛代就介、こっちは鈴野勇吾。二人とも三組」

「僕は、一組の三尋木渉」

「ワタルか。お前な、やられたらちゃんとやり返せよ」


 ガキ大将の鈴野は、三尋木がやられっぱなしで黙って素足で家に帰るなんてことが単純に信じられなかったが、まずその卑怯なやり口のほうがもっと信じられないという考えであった。

 鍛代は三尋木を『詰める』ような鈴野を制止しつつ、事を説明する。


「さっきさ、俺たち校舎裏で喋ってて、そのノートが捨てられてるの見つけちゃってさ。そしたらそこに、一組の子がその靴を投げ捨ててた」

「くだらねーことする奴がいるよな」


 状況を教えてくれる二人の話を三尋木は黙って聞くが、四年生になって初めて、同級生とまるで友達の関係であるかのように話をしていると思い、鼓動は大きかった。


「あとごめん、ノートに名前書いてなかったから、中を見ちゃったんだよね」

「……!」


 三尋木は一瞬、見られたくないものを見られたことへの恥ずかしさ、拒否反応を示すような表情を瞬時に浮かべてしまったが、予想外に、それはすぐに解かれることになった。


「これすごいよ! 面白い!」

「すまん、俺も読んだ。これ小説だろ? 大人が書くようなヤツじゃん。めっちゃおもしれー」

「三尋木くん、これ最後まで読んでいい?」


 三尋木にとって、気付けば苦しいだけだった学校生活が青春に変わった瞬間だった。まだ靴を履いていないというのに、足の裏から頭の先に向かって熱が伝ってくるような感覚が突き抜けて、それは大粒の涙となって溢れ出していた。



 ──。


 人は夢の中で号泣すると、大抵現実でも涙を流している。過去の出来事をそのまま夢に見て、そうして目覚めた書斎のひじ掛け付きの高価な椅子で、三尋木はまず涙を拭いながら現実を確認した。時刻は十六時。遊びに来ていた旧友をリビングに放置したまま、書き上げた原稿を編集者にメールで送付したところで、ひと休みの転寝をしていた。ここのところ忙しかったからか、と誰にするわけでもない言い訳を内心でしつつ、今しがた得た「気付き」を伝えにリビングへと向かう。旧友はまだ帰っていないだろうか。


「あ、ごめんよ。長い時間居座って」


 鍛代はソファで少し昼寝をした後に、パソコンを開いて仕事をしていた。書類の作成中なのか、忙しそうにタイピングをしている。三尋木は、エル字になっているそのソファの斜向かいに着座した。


「いや、いいんだ。僕もうっかり寝てしまっていた。ところでカジ。昔、伝書鳩を飛ばしたことを覚えているかい?」

「ああ、中学の時だ。結局帰ってこなかったアレね」

「うむ。唐突な話だが、たとえばこの猫は、伝書鳩だったりしないだろうか」

「……うん?」


 鍛代は作業の手を止めた。


「依頼人、高橋の家には元々猫がおらず、どこからか、贈られるようにやってきたのだろう」

「うん。寄こしやがってという言葉から、そうかなっていう話だったよね」

「この猫は首輪をつけている。たとえばそこに、先方からの情報が記載された何か、紙などが挟まっていた」

「それを受け取って、猫は用無しになったから逃がした……? うーん。でもその後に自分で逃がした猫を探すのはおかしい気がする」

「ダミーだったのだよ。目に見える紙のようなものだったら、情報が簡単に洩れてしまうだろう。高橋は、ダミーを受け取った後に、そこに記載されている情報がデタラメであることに気付き、先方から騙されたと勘違いした」

「騙された?」

「そうだ。こんな手法でのやりとりだ。とても表には出せないような情報を、取引のような形で受け取る手筈だったとは考えられないだろうか」


 鍛代は、三尋木の話が危険な匂いを発するような、まるで漫画やドラマじみた内容であったために少々冗談のように思えてしまったが、彼の表情を見て思い直した。三尋木の話は続く。


「騙されたと思い込んで、怒って猫を家から叩き出す。その後に先方に問い合わせ、首輪に挟んであった情報はダミーだったと知らされる。そして再び本当の情報を手に入れるために、自分で逃がした猫を探した」

「で、三尋木くんの家の前で、一度は捕まえたわけだ」

「そうだ。その猫がいないと困るという、少々引っかかる言い回しもそれなら腑に落ちる」

「うーん。でも、もう一度自分で逃がして、もう一度自分で探してるわけで……。そもそも情報とやらを、どうやってこの猫ちゃんに仕込むんだろう」


 ソファの上を軽い足取りで歩く猫は、いつの間にか鍛代に懐いていたようで、その足取りのまま鍛代の膝に座った。鍛代は嬉しそうにその背を撫でる。


「マイクロチップだ」

「……なるほど」

「ペットショップで売られている犬や猫には、個体を識別できる番号が記されたマイクロチップが埋め込まれていることが多い。不可能ではないだろう」

「うーん。仮にそうだとして、やっぱりまた逃がして探すという流れに至るのが不可解だ」

「今の話の通り、この子に元々、先方が仕込んだものとは関係ない、単なる個体識別のためのマイクロチップが埋め込まれていたとしたらどうだろうか」

「……マイクロチップが二枚。もしかして、高橋はその関係ないほうのチップを読み込んでしまって、また偽の情報を掴まされたと、勘違いしたとか」

「そういうことだろう。そして今、マイクロチップが二枚入っていたという事実に気付いて、焦ってまた探している」

「いちいち怒って逃がすあたり、よっぽど猫が嫌いなのかな……」

「僕のこじつけはこんなところだ」


 本人がこじつけと言うように、話が飛躍しているというよりは、少ない情報でどうにか立てた仮説という印象を鍛代は受けたが、単なる飼い猫でないということはまず事実のように思っていたので、とりあえず筋は通るとまでは感じた。

 唸りながら考え込む鍛代を横目に、三尋木はスマートフォンをポケットから取り出して電話をかけ始めた。


「もしもし。お願いがあるのだが、犬や猫の体内に埋めたマイクロチップを読み取る装置のようなものを、手に入れてきてくれないだろうか。うむ。ありがとう」


 鍛代は三尋木の行動の早さとその内容に、ただ目を点にして口をあんぐりと開けてしまった。

 まだ推測に推測を重ねただけの話ではないか、一体誰にそんなお願いをするんだ、そもそもそんな物が簡単に手に入るのか、などと色んな疑問が思い浮かび、彼がもうすでに電話を切っているというのに、まだ言葉が出てこない。


「カジ。これから妻が持ってきてくれるそうだ。確かめてみよう」


 妻。鍛代はどうにか出てきそうだった次の言葉を再び見失ってしまった。

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