ほろ苦あんず餅
丹寧
第1話
初めてあんず餅を食べたのは、真夏の防波堤だった。
まばゆい水色に揺れる海を、真っ黒に切り取る防波堤に座り、
ただ、炎天下で食べるおやつとしては、最適ではなかったかもしれない。
「失敗したかな」
指先で、見る間に粘度を増していくあんず餅と格闘しながら、沙世はしょげた口調だった。コンクリートの護岸から海に垂れた足が、拗ねたように揺れる。
「もっと涼しげなお菓子が良かったかも」
湿気と塩気をふくんだ海風が、沙世の黒髪を揺らしていく。つややかな毛先が、白いブラウスにわずかに触れた。
「でも、お土産なんでしょ」
「うん。金沢のお客さんから、勧められたんだって」
あんず餅は、昨日出張から帰ってきた沙世の父さんが買ってきた。親が出張先でお土産を買ってきてくれて、家族みんなでそれを分け合う。何なら、彼氏にも分けてあげたりする。沙世はそういう、温かい家庭で育った。
「まっすぐ」の結晶をあつめて作られたような少女が、沙世という人だ。
透明感のある肌や、男子どもをまっすぐにとらえて離さない黒々とした目が、無垢に見えるだけじゃない。自分の魅力をまったく鼻にかけないところが、沙世の何よりの長所だ。
「涼しいところで食べればよかった」
言いながら、白い額をぬぐう。それすらも、この時期の清涼飲料水のCMを見るかのようだ。珠のような汗が浮かぶ肌も、思わず触れたくなる――もちろん、絶対そんなことしないけど。
自然にしていても人に好かれる人間というのがいるんだな、と思う。人前に出るとき、ある程度は自分というものを隠しておかないと、ふつうは嫌われてしまうのに。
「美味しかったよ。こんなお菓子、あるんだ」
「よかった。――ねえ、自分で言い出しといて何だけど、日陰に行かない?」
うん、と僕はうなずいた。
あんず餅を、防波堤で食べたいと言ったのは沙世だ。まだまだ太陽の高い時間だったけれど、沙世のいうことなら構わなかった。それに、夏休みにふたりで防波堤に陣取るなんて、いかにも青春的な絵だ。断る理由がない。
今日は港のそばで待ち合わせして、ここへ来た。高校からも、僕の家からもだいぶ離れていたから、二つ返事で了承した。立ち上がって、波間に揺れる数隻の漁船の向こうを見やると、並んだ自転車がこちらを待っている。
海と同じ色のスカートからほこりを払い、沙世が立ち上がった。
「塾、四時からだったよね。まだしばらくある」
はにかんだ笑顔は、夏の日差しのせいだけじゃなく、眩しかった。
塾へ行くには、自転車を数十分こいで繁華街へ出なければならない。
受ける講習は同じなのだが、僕と沙世は別々に塾へ向かった。沙世が先に出発して、少し遅れて僕が追う。白いブラウスの背中に近づきすぎないように、かと言って(世の中物騒だから)遠ざかりすぎないように。暮れなずみ、昼間の熱気を吐き出す街を、沙世の自転車がかろやかに駆けていく。
「一緒に行ったっていいのに」
沙世は少し不満げに――でも決して刺々しくはなく――言った。
「ごめん。でも、人に知られて、騒がれるのはやっぱりちょっと怖くて」
唇を尖らせつつも、沙世はうなずいてくれた。僕が告げた理由に、本心から納得してくれただろうか。不安になるけれど、やっぱり譲れない。沙世がどれだけ、僕と付き合っていることを屈託なく、人に明かしたくても。
沙世は男子にも女子にも、自覚なく人気の子だ。沙世に彼氏がいて、しかも相手が僕と知れたら、学年じゅうが衝撃を受けるだろう。騒がれて、動揺したくないのは本当だ。僕たちが互いを大切に思っているのは、自分たちだけで噛みしめていたい。
沙世と僕は、たまたま二年生の冬期講習から塾に通い始め、たまたま志望校が一緒だった。だから、よく講習が一緒になり、さらに、たまたま沙世が忘れたテキストを僕が貸して、仲良くなれた。本当に、運が良かった。沙世と僕が一緒にいるのは、奇跡というほかない。重々わかっていたから、奇跡が長続きするように打てる手は打ちたかった。
たくさんの人に知られてしまったら、その中の誰がいつ、ぶちこわしにしようとしにくるか、わかったものじゃない。
本当は、自習室で隣同士の机で勉強したいけど、付き合い始めてからやめた。人目があるし、話せる場所じゃないからだ。代わりに人目を忍んで、同じ塾や高校の生徒がいなさそうなところで、こっそり会うのが常だった。
駐輪場に自転車を停めた沙世に、すぐさま同じ高校の女子が声をかける。数人でたむろしている彼女たちは、見慣れた派手な色のアイスクリームを手にしている。近くの小さな複合ビルで買ってきたのだろう。たぶん、うちの高校の生徒の全員が、何度かはあの店に行っているはずだ。
僕らの町は田舎なので、土日にちょっとしたショッピングモールに行こうものなら、クラスメートの半分くらいには遭遇できてしまう。だから、二人で安心して会える場所を見つけるのは、至難の業だ。苦労して事実を隠すのでなく、他の人に見られても堂々と会いたい沙世の気持ちは、痛いほどわかる。
ことさらにゆっくりと駐輪場に入り、自転車を停めた。校舎に入ると、暴力的なまでに涼しい冷房が肌を打つ。講習を連続で受けると、残って談笑するクラスメイトを横目に、教室を出た。話題は、数日後に迫った模試のことらしい。
校舎を出ると、夏の日もさすがに暮れていた。街灯に、飛び回るこうもりの影がちらつく。がらんとした駐輪場で、ふいに沙世が声をかけてきた。
「
昼間聞いた話では、東京へ進学した沙世の兄さんが、明日帰省してくるとのことだった。それでしばらく家族で過ごすというのだ。寂しいが、沙世が家族を好きなのは知っていたから、僕は笑顔を作った。用心深く、周囲に誰もいないのを確かめながら。
「ううん。久しぶりなんだから、楽しんで」
「ありがとう。お兄ちゃんが帰ってきてて、家が狭くなるなあと思うと、気が重いけどね。――遥貴のとこは、お父さん帰ってくるの?」
僕の父は、長年単身赴任している。赴任先は、東京だったり、福岡だったりその時による。ここ何年かは名古屋にいた。
「わかんない。聞いてないな」
「そっか」
沙世の顔に、やや不思議そうな色が浮かぶ。夏休み、世の中のほとんどの人間が帰省するであろう時期に、実父が帰ってくるかどうかを知らないなんて――
僕はすかさず、無難な問いを差し向けた。
「お兄さん、元気そうなの?」
沙世と兄さんは仲がよく、ときどき連絡を取り合っている。親ともそれぞれに音信があるらしいから、離れて暮らしていても兄さんの情報はよく入ってくる。おおらかで気のいいキャラクターなのもあって、沙世はしょっちゅう話題に出していた。
「うーん、本気かわかんないけど、今の彼女と結婚するって息巻いてる」
「都会は結婚おそいって、前は言ってたのに?」
だから何年かはひたすら遊ぶんだ、と豪語していたらしいのに。パラダイムの転換を迫る相手が現れたのだろうか。
「気が合う人に会ったみたい。長岡出身の」
「ええ……言っちゃ悪いけど、ほぼ地元じゃん」
僕は半ば呆れた。これまでの放言には、地元の女とは結婚しないという失言もあったのを覚えていた。俺は都会の女と付き合うんだ、と。
沙世も苦笑した。
「そうなの。でも、近いうちにこっちに連れて来たいんだって。おかげでお母さんが気もそぞろ」
「大変だね」
「でも、お兄ちゃんに関心がいってる分、私は気楽かな。受験のこととか、あんまり訊かれなくて済むもん」
沙世の呟きが、急に、張り裂けそうな羨望を呼び覚ました。僕はつとめて何でもない顔をして、バッグから自転車の鍵を取り出した。
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