迷霧が繋ぐ心 〜霧の竜と孤独な少年の交流譚〜

夢寺ねむ

第1話

 この山は、常に霧で覆われていた。

 その中腹、いつ建てられたかも分からないような古い社に、私は暮らしている。

 暮らしぶり自体は、普通の人と変わらないだろう。ご飯を食べて、掃除や洗濯をして、たまに山を散策する。ごく稀に、山の深い霧に惑わされた人間を、人里に戻すこともあった。

 私は、基本的に一人でここに住んでいる。

 理由はとても簡単で――まず私には、“家族”というものが分からないからだ。

 生まれてこのかた、私はずっと一人だった。だから寂しさを感じたことも無かったし、そもそも寂しいという言葉さえ知らなかった。

 一人ぼっちになった理由は多分色々あるのだろう。だけど、一番に思い当たる理由があった。

 私が、人間ではないからだ。

 竜。

 私は、そう呼ばれる生き物だ。

 生き物であるかさえ怪しいその存在であるから、私は家族が何かも分からないまま、こうして生きてきたのだと、思う。

 何十年、いや、何百年という、少し長い時間を。




沙霧さぎりはいつもと同じように、境内をほうきでせっせと掃いていた。

 まだ春先とはいえど、落ち葉は容赦なく降り注ぐ。もし数日サボろうものならば、狭い境内は簡単に落ち葉の絨毯じゅうたんに覆われてしまうことだろう。

 少し強い風が、沙霧の前髪を揺らす。淡い桜色の長い髪が、花吹雪のように舞った。

 一体いつ頃から伸ばし始めたのか忘れてしまった髪は、いつの間にか背中を隠すほどの長さになっていた。

 長いと見栄えはするが、手入れが面倒なんだよな、と沙霧は内心困っていた。

 何がきっかけで伸ばそうと思ったんだっけ、と考えてみたが、上手く思い出せない。

 きっと、大した理由ではなかったのだろうと結論づけ、沙霧は掃除を再開した。

 しかし、その手がすぐに止まった。

 気配を感じたからだ。

 境内に、ではない。境内には沙霧以外に誰もいない。

 山の入り口から少し進んだ場所――人間が足を踏み入れてしまうと、迷ってしまう可能性が高い場所だ。

 沙霧は軽くため息をつく。最近はあまり人間が入り込んで来ることは無かったので、大分久しぶりだ。二百年ほど前はしょっちゅう子供が迷い込んできて困ったものだったが、いつの間にか人間そのものを見なくなっていた。

「――まったく。どこのやんちゃ坊主さんかな」

 沙霧はほうきをしまうと、人間の気配がする場所に向かう。

 山中は静かだ。白い霧が暗幕のように立ち込め、真昼だというのに薄暗い。時々鳥の気配を感じたが、霧に隠されて種類までは分からなかった。

「……それにしても、いつぶりかな?最後に人間がここに入ってきたのは。確か――明治って元号の時だったような……」

 独り言をつぶやきながら、沙霧は山を歩く。作業着代わりに着ている白いシャツワンピ―スの裾が引っかかって、少し動きづらい。山を歩くと分かっていたら、袴を穿いてきたのに、と沙霧は少し恨めしく思った。

 しばらく歩いていると、不意に落ち葉を踏み分ける音が聞こえた。

 沙霧のものではない。だとすると――?

 音の方へ、沙霧は歩を早めることもなく進む。こういう時、焦って大きな音を立ててしまうと、相手に逃げられたり、警戒されたりしてしまうのだ。

 最初に音を聞いてから五分も経たずに、沙霧は気配の正体の元へたどり着いた。

 そこにいたのは、一人の少年。

 十代の後半くらいだろうか。若干華奢きゃしゃさの残る体格に、着られている、と言いたくなる詰襟の着こなし。長めの前髪から覗く艶やかな瞳は、引き込まれるような藍鼠色だ。随分と整った顔立ちだな、と沙霧は思わず考える。

 少年は霧の中からいきなり現れた沙霧に驚いたようで、前髪の隙間から覗く目が大きく見開かれていた。霧に惑わされた人間を助けようとすると、皆同じ顔になるのが少しだけ不思議だった。

「君、どこから入ってきたの?名前は?」

 沙霧は穏やかな声で話しかける。

 しかし、少年は何も言わなかった。表情から窺うに、警戒と驚きが半々、といったところか。

 彼に警戒を解いてもらいたくて、沙霧は再び口を開く。

「言っておくけれど、怒ってる訳じゃないからね?ただ、そろそろ対策を考えてもいいかもと思って」

「……対策?」

 沙霧の発言に、少年が食いつく。凛とした響きを持つ声が、静かな山中に紛れそうな音量で響いた。

沙霧は頷いてみせると、穏やかに微笑みながら言った。

「この山、霧が深くて迷いやすいでしょう?だから何か対策を打てないかなって」

「……それ、お前――じゃなくて、あなたがやらないといけないこと……なんですか」

「だって、他にする人がいないんだもの。この山、私以外に誰も住んでいないから」

 そう答えたが、少年はあまり腑に落ちていない表情をしていた。理由は分からないが、それ以上答えることが出来ないので、その件に関しては無視することにした。

「ところで、君の名前は?私は沙霧。この先にある社で、巫女まがいのことをして過ごしているの」

「……俺は……深崎誠悠みさきあきはる

「誠悠かぁ。かっこいい名前じゃない」

「……そうか?」

 名前を褒められたことなんてないのか、少し困惑している誠悠の様子に気付かずに、沙霧は頷いた。

「私の名前を考えてみてよ。霧の深い場所に住んでるから“サギリ”って、そのまますぎるでしょう?とは言っても、私は自分の名付け親が誰なのか知らないんだけどね」

 沙霧は特に何も思わずにそう言ったが、誠悠はなぜか驚いていた。

 それに言及したい気持ちになったが、あまり彼を引き留める訳にはいかなかったと気付き、沙霧は自分の頬を軽くたたいた。

「……あ、ごめんなさい。引き留めちゃって。早く帰りたいわよね?とりあえず人里までの道に案内するから、ついて来て――」

「っ――だ、ダメだ‼」

 いきなり、誠悠は大きな声で沙霧を制した。急に叫ばれた沙霧は怪訝そうな様子で振り返る。

「まだ、町には――戻りたくない……」

「……?どうして?」

「……」

 誠悠は理由を答えようとしなかった。

 しかし沙霧は、彼の手の甲に傷跡が――古い火傷の跡があることに気付く。

 事情は全く分からない。

 だが沙霧は何となく、彼を人里に返すのは正しくない判断のような気がした。

「……なら、社に来る?落ち着くまで、境内にいていいよ。でも、落ち着いたらちゃんと帰ってね」

「……いいのか?」

「うん。よく分からないけど、帰れない理由があるんでしょう?」

 沙霧はそっと微笑んだ。

 不安そうな表情を浮かべていた誠悠は、しばらくためらっていたが――他に方法が思いつかなかったのだろう。そのうち、ゆっくりと頷いた。

 沙霧は頷き返すと、彼を伴って社までの道を歩き始めた。

 霧に包まれた道は、二人分の足音くらい、簡単に隠してしまう。

 沙霧にとっては慣れたものだったので何とも思わないが、誠悠――人間にとっては違うようだ。彼は不安を悟らせまいとはしていたが、迷いなく歩いていく沙霧に驚きを隠しきれていない。

「ねえ、どうして山に入ろうと思ったか、聞いてもいい?」

 沙霧は後ろを歩く誠悠にそう尋ねた。迷い込む人間は昔からたくさんいたが、山に入った目的はバラバラだった。狩りのためとか、家畜が迷い込んでしまったとか、かくれんぼにちょうど良さげだと思ったとか――深刻そうなものからしょうもないものまで、本当にバラバラだった。

 彼は、一体どんな理由で迷ってしまったのだろう。

 好奇心に駆られて尋ねた沙霧だったが、彼は何も答えない。

 軽く後ろを振り返ってみる。彼はうつむき気味に、沙霧の後ろをついて来ていた。

「……答えたくない?」

 彼は、重苦しく頷く。

「そっか」

 沙霧は特に気にせず、再び前を向いた。

 竜にはあまり分からない――人間に化けている沙霧には、何となく分かる気もしたのだが――人間には、他人ひとに話せないことというものを、いくつか持っているという。

 きっと、彼にとって、山に入った理由がその一つなのだろう。

 沙霧はそう結論づけ、社への道を歩く。




 境内は少しだけ、霧が薄い。

 そのためここに帰ってくると、霧深い環境に慣れた沙霧だって、どこかほっとした気分になった。

「着いたよ。ここ、昔は神社で、たくさんの人間が参拝してたみたいだけど……私がこの山に住み始めた頃には、もう誰もいなくなってたの」

 誠悠は沙霧の言葉を聞きつつ、境内を見渡す。そこまで広くない場所ではあるが、気に入ってもらえたら幸いだ。

 沙霧は社の階段に向かうと、段の一つをぽんぽんと手で示した。

 誠悠には伝わったようで、彼は手で示した場所に腰掛ける。山歩きに疲れていたのか、どこか身体が重そうに座った。

 その隣に、沙霧は何も考えずに座る。

 すると、誠悠は驚いたような顔をして、その後どこか居心地が悪そうにもぞもぞと動く。しかし沙霧はそのことに全く気付かない。彼が年頃の少年であることを、これっぽっちも意識していなかった。

「この山の名前、知ってる?」

 沙霧の問いかけに、誠悠は首を横に振る。

天霧山あまぎりやまっていうの。ずっと霧がかかってて、雨が降っているみたいだからって説と、天女みたいな、天界の住人がいるとされていたからって説があるんだって」

「……霧が晴れたことはないのか」

「少なくとも、私がいる間は晴れたことが無いよ。この社の周りは霧が深くないけれど、他の場所の霧が濃い理由も分からないみたい」

 沙霧はそう言うと、誠悠の顔を覗き込む。彼の、血色の良くない顔が、少し赤くなった。

「もっと知りたい?この山のこと」

 暗くて艶やかな瞳に向かって、そう問いかける。

 彼は少しだけ、沙霧の意図を図りかねているような表情を浮かべたが――やがて頷く。

 沙霧はそれを見て微笑むと、何を話そうか考え始まる。

「……なあ、沙霧」

「ん?」

「……近い」

「近い?何が?」

 誠悠は顔をほんのりと染めてそう言ったが、沙霧はなぜ彼がそんな反応をするのか全く分からなかった。

 とりあえず彼の隣に座り直したが、なぜ彼があんなに拒否感を示したか、全く見当がつかない。

 人間って興味深いな、と思いながら、沙霧は静かに語り始める。

「この山は、ずっと昔から霧が晴れなくて……人々は不思議がった。彼らなりに理由を考えてみたけれど、思いつかなかったみたい。そのうち、こんな噂が流れ始めた」

 沙霧の静かな言葉に、誠悠は耳を傾けていた。長い前髪から覗く瞳だけではその感情を窺い知れないが、興味を持っていることは分かる。

「色々な噂が、生まれては消えた。元々は、さっき話した二つ以外にもたくさんの話があった。それなりに科学が発展してきて、色んな学者がその謎を解き明かそうともした。だけど結局、昔から存在する一つの説に戻ってきてしまうの」

「……一つの説?」

「この山には、霧を司る竜が棲んでいる、って説よ」

沙霧はうっすらと霧に覆われた境内を見つめながら、続きを語った。

「その竜はこの山の主。一人を好み、自身の縄張りを守るために霧を起こして、山を荒らす人間が入って来ないようにしている。この伝承が、科学が発展した後も信じられているの。きっと、未だに」

沙霧の話は、短いものだった。

それ以上、語ることが出来ないのだ。

霧の竜の名を、口に出してはいけない。

竜は名を知られることを嫌う。そう、この町には伝わっているからだ。

沙霧はあまりそう感じたことは無いが、他の竜はどうやら違うらしい。また。あまり長い話だと誠悠が飽きてしまう可能性も考えて、かなり端折ったのだった。

「……今も、霧が晴れない理由は分からないのか?」

「分かったら、霧の竜に対する信仰も無くなってるはずよ。この山の麓にも神社があるみたい。その神社でも、霧の竜を祀ってるわ。それが答えだと思う」

沙霧の言葉に、誠悠はどこか腑に落ちないといった様子を浮かべた。

「……お化けの類は信じない感じ?」

「そういうのじゃなくて――何でわざわざ“竜”の仕業にしたのか、分からないだけで……」

「あー……なるほどね……この町には昔から、竜を信仰する文化があることは知ってる?」

彼は首を横に振る。

「そっか。もうそんなに信仰されてないのかな。でも、霧の竜の伝承が出来た頃はそれの全盛期だったの。あらゆるもの、あらゆる概念に、それに対応した竜がいる。その竜は各々の性質の差はあれど、自分が司るものを守ろうとする――そう言われているわ」

「……じゃあ、霧が晴れない山なら、霧を操る竜がいる。昔の人は、そう考えたんだな?」

「飲み込みが早いね。そういうこと。なぜ竜がいるのか、なぜ竜は己が司るものを守るのか。そこまでは思い至らなかったみたいだけど」

沙霧はそう説明したが、誠悠はまだ納得していないようだ。

やっぱり彼は、よく分からないものは信じないタイプかな、と沙霧は思う。別に珍しいとも、変だとも思わないが、ちょっと悲しい感じはした。

「この話、どのくらい信じられる?」

「……半分、ってところ。竜の仕業ってのは納得いかないけど、霧が晴れない理由が今も分からないなら、そう言われても仕方ないかな、って思うし……」

誠悠は少し悩ましい様子ではあったが、そう答えた。恐らく、彼の中でも、結論がついていないからだろう。“半分”という中途半端な値にも、彼の迷いが現れている気がした。

「……君って珍しい感じね」

「……そうなのか?」

「大体の人間って、全部信じるか全く信じないかの二択だって思ってた」

「それも極端だと思うけど……」

きょとんとした沙霧に、誠悠は呆れたような表情になる。なぜ彼は呆れたのだろう?沙霧にはちっとも分からなかった。

「なあ」

「ん?」

「……他にも、この山にまつわる話って、あるのか?」

「んー……たくさんは無いけれど、あるよ」

「聞かせてくれないか」

誠悠の頼みに、沙霧は一瞬虚を突かれた気がした。

沙霧は話している間、ずっと見ていなかった方に目を向ける。暗くて艶やかな瞳が、わずかな好奇心にきらめいている気がした。

「そういう話自体は、好きなんだ」

どこか照れくさそうに、彼は打ち明ける。

好きであることの、どこが照れくさいのだろう。

よく分からなかったが――聞かれて困るようなものでもない。

「いいよ。思う存分、聞いて行って」

沙霧はそう答え、別の話を始める。今度は、竜に育てられた人間の話だった。

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