第4話 深淵の揺籠

 ズルリ――。

 切断された頭部が、まだ立ち尽くしていた怪物の身体から滑り落ちる。


 「これで…全部か?」


 痺れた両手で剣を持ち上げ、背へと回す。

 疲弊しきった体に、鉄の重みが“ズン”と沈むように響いた。


 「っと……おっと」


 よろめいた僕の肩を、ギルが支えてくれる。


 「お疲れさん。これで島にいた怪物は全部だな」

 「…うん、たぶん」


 村の中にも、外れの僕の家の方にも、もう影はない。

 シオンたちとは島の反対側――村人の避難場所で合流する手筈だとギルは言った。


 「君も大丈夫? 足とか怪我してない?」

 「ええ、大丈夫よ。心配してくれて、ありがと…」


 少女は妙に落ち着いていた。

 記憶喪失だから、という理由だけでは説明がつかない静けさだ。

 あの怪物の爪が喉元に迫った時ですら、怯えの“反射”がなかった。


 それに――戦闘中ずっと気になっていた。

 怪物は僕を狙っていたというより、僕の後ろにいた少女を狙っていた。


 「ねぇ、君…あいつらのこと、知ってる?」


 極力刺激しない声で。

 眉の震えや喉の動きまで見るようにして問いかけると、少女は小さく頷いた。


 「名前は…確か、『アビス・ニア』って呼ばれてた」

 「アビス・ニア……深淵の“縁”か」


 アビスとは何か。その“縁”とは何を指すのか。

 意味は分かっても、実体は掴めない。


 誰がそう呼んでいた?

 人工物なのか、自然物なのか――それすら不明だ。


 ギルに視線を送ると、無言で首を振った。

 旅のベテランが知らないのなら、本当に全く別の概念なのだろう。


 「あぁ、クソッ…何がどうなってるんだ」

 「ごめんなさい。役に立てなくて…」


 少女の肩が縮まり、影のように小さくなる。

 ハッとして僕は慌てて頭を下げた。


 「違う、怒ったんじゃないよ。ごめん。…あ、そうだ! 君の名前、教えてよ」


 少女はしばし口を開かず、やがて絞り出すように言う。


 「名前も…覚えてないの。自分が何者なのかも…何も」


 その目に涙が溜まり、肩がかすかに震えた。

 僕は言葉を持てず、ただ立ち尽くす。


 「だ、大丈夫だって! ゆっくり思い出せばいいさ! そんな日もあるさ、なぁソラ?」


 目で助けてくれと訴えかけてくるギル。

 いや、そんな日はないと思うよ。


 ギルは明るい性格のくせに、こういう時には途端に不器用だ。

 その必死さが逆に温かくて、思わず僕は苦笑した。


 少女も少しだけ笑った。

 ギルの“裏のない優しさ”にほだされたようだった。


 「じゃあ、僕は家に戻って靴と服を持ってくるよ。裸足のままじゃ歩けないし」


 倉庫を離れ、家へ向かう。

 家は無事だった。おそらく気配がなかったから、怪物が寄らなかったのだろう。


 ここは――母との思い出。ギルたちとの思い出。

 全てを失った僕に残された、唯一の“僕”の帰る場所。


 ――だった。


 無情にも、空が裂けた。


 巨大な“アビス・ニア”が影の塊となって降りてくる。

 家屋の屋根が音もなく押し潰され、柱が折れ、僕の記憶の形が一瞬で瓦礫へ変わった。


 「ソラ!! 下がれ!!」


 ギルの声が飛ぶ。

 伸ばされた手が視界に入る。


 ――だけど、僕の足はギルではなく、怪物へ向かって動いた。


 勝てる保証なんて、ない。

 それでも、これは“そういう戦い”じゃなかった。


 全身の血が一気に沸き立つ。

 指先まで熱が駆け上がり、視界が赤くにじむ。


 殺す。

 絶対に。

 確実に。

 跡形もなく。


 沸騰した怒りとは裏腹に、手足の動きは驚くほど静かだった。

 意思だけが凶器になっていく感覚。


 僕の叫びは、喉の奥で煮え立つ熱のまま言葉になった。


 「どけよ!! それは…お前が! 踏み潰していいモノじゃないんだ!!!」


 腰から抜いた剣を横一文字に振る。

 足首が飛び、怪物の体が崩れる。


 伸びてきた腕を――


 「遅い!!」


 切り落とす。


 動きは最小限。

 怒りが“余計な動作”を全部切り捨てたかのような集中。


 崩れ落ちた胴に駆け上がり、剣を顔へ突き立てる。

 同時に口から複数の触手が伸びる。


 「くっ!」


 剣の背で さばききれない一本が腹に刺さる。

 熱い液体が腹を伝う。


 ――止まらない。


 痛みは憎悪に変換され、さらに一歩、さらに一撃へつながった。


 「今さら…こんなんで! 僕が止まるわけ……ないだろ!!」


 口腔の奥へ剣を突き入れ、力任せに縦へ裂く。怪物の叫びが絶叫へ変わり、そのまま沈黙した。

 触手が崩れ去り、僕の腹の傷口から血が溢れる。


 口にたまる鉄錆の味を感じながら、復讐の熱が冷めていくのと同じ速さで体温が奪われていく


 僕は瓦礫の上――思い出の残骸の上へ崩れ落ちた。


       ➖➖➖➖➖


 「ソラー!!」


 崩れ落ちるソラへ、ギルは反射的に駆け寄った。

 地面に倒れ込む寸前で身体を抱きとめると、その軽さに胸が痛んだ。


 ゆっくりと横たえ、傷の状態を確かめる。


 腹から背へ、風穴のように貫通した致命傷。

 素人でも理解できる――助からない。そんな現実が容赦なく突き刺さる。


 大きく息を吸い、震えを無理やり押さえ込む。


 腕の中のソラは氷のように冷たく、息は細く消え入りそうだった。

 口元からは血が泡のようにあふれ、胸元には温かいはずの血が触れた瞬間に急速に冷えていく。


 落ち着け…落ち着け。


 焦りが喉を焼き、判断力を奪おうとする。


 「とにかく、早く止血を…!」


 間に合わない――それでも何かしないと、ただ見ているだけなんてできるわけがない。


 ギルは着ていた服を引き裂き、布切れを傷口へ押し当てる。

 しかし、指先へ伝わる血の温度で悟る。これでは止まらない。


 「頼む…止まってくれ、頼む……!」


 あとは祈ることしかできなかった。


 次第に弱っていくソラは震える手を伸ばし、ギルはその手を強く握り返した。


 「ソラ、大丈夫だ。きっと助かる。だから――」


 「ごめ…ん。我慢…できなかった」


 ゴポッ。血に混じって、かすかな声が漏れる。


 「守りたかった。あの家…みんなとの……思い出を…」


 「もういい、喋るな。これ以上は――」


 「みんなに、ありがとう…って」


 「ソラ…もういい。本当に、喋るな…!」


 これ以上の失血はまずい。

 腕の中で静かになっていく“家族”を前に、何もできない自分が許せなかった。


 ギルの頬を大粒の涙が止めどなく伝う。

 声にならない祈りだけが、空へ逃げていく。


 そのとき――


 「私に任せて…」


 静かな声とともに少女が近づいた。


 「いったい何を――」


 「集中するから、話しかけないで」


 少女はソラの上に手をかざし、目を閉じて呼吸を整える。

次の瞬間、淡い光がソラの身体を包み込んだ。


 太陽のような温もり。

 草原を渡る風のような清涼感。

 芽吹く葉のような柔らかい生命の息吹。


 光がすべてを満たし、傷の縁がゆっくりと閉じていく。


 「な、傷口が…閉じていく…」


 人智を超えた光景に、ギルは言葉を失った。


 少女は肩で息をしながら呟く。


 「はぁ…はぁ…とりあえず傷は塞がったわ。でも、失った血は戻らない。病院に…早く」


 ソラは気を失ったまま静かに横たわっていた。

 だが先ほどまで感じなかった体温が戻り、顔色もわずかに赤みを取り戻している。


 少女はふらつく足でどうにか立ち上がった。


 「じゃあ、私は行くから…。その人に、よろしく言っておいてほしい」


 「待ってくれ、どこへ行くんだ?」


 「私には…人と違う力がある。アビス・ニアが私を狙った理由も、記憶喪失も…きっとそのせい」


 他人に拒まれるのが怖い。

 でも、自分のせいで誰かが傷つくのはもっと怖かった。


 だからソラを助けた。

 そして――この力を見られてしまった以上、この場所にはいられない。


 「どこか遠くに行くわ」


 ギルは強く首を振る。


 「待ってくれ。君は家族を救ってくれた恩人だ。口外しないと誓う。礼をさせてほしい」


 「でも、私は…」


 少女は一歩だけ足を止めた。

 

 行くあてもない。

 孤立した島で、逃げ場所などどこにもない。


 ギルは静かに手を差し出した。


 「君さえよければ――どうかな?」


 少女は答えられず、ただその場に立ち尽くした。


 その時だった。


 島を覆う雲が左右に裂け、暗い影が地上へ迫る。


 「オォォォォ!!!!」


 地を揺るがす咆哮。

 豪風が森を薙ぎ、空気そのものが震えた。


 「――あれは、バイオ・アビス(深淵の揺籠)」


 少女は、迫りくる巨大な影を見上げながら呟いた。


      ➖➖5分ほど前➖➖


 「何よアイツ!!」


 シオンは苛立ちを押し殺せず、窓を開けて外を覗いた。

 機体が雲を突き破った瞬間、乱気流の向こう側――

 雲と巨体のあいだにある、不自然なまでに“風のない空間”へと滑り込んだ。


 その静寂は逆に不気味だった。

 つい先ほどまで機体を揺さぶっていた暴風が嘘のように消え、空気そのものが息を潜めているような感覚さえする。


 「あれが元凶? まさかこんな奴とは思わなかったわね。ママ、見覚えある?」


 「あるわけないでしょ。シオンが生まれる前から空を渡ってきたけど、あんな化け物は初めて見るわ」


 「ですよねー」


 あまりの規格外さに、逆に落ち着いてしまう二人。


 「もう少し近寄ってみるわ」


 「気をつけて。得体が知れないわよ」


 シオンは微細な風圧の変化を感じ取りつつ、慎重に操舵する。

 近づくほどに、怪物の“ありえない構造”が浮かび上がった。


 どす黒い外殻のあちこちから風が漏れ、無数の円筒状パーツが鼓動のように脈打つたび、低い振動が空気を震わせる。


 「機械……? でも、生きてるみたい」


 リーゼは思わず息を呑む。

 機体整備を担当としてきた彼女の頭の中で、仮説が高速で組み上がっていく。


 熱を外へ逃がす排気、内部の温度差を利用して生じる上昇気流、異常な風力の源になる“何か”が確かに動いている。


 ――ただの機械でも、ただの生命体でも説明できない。


 「両方……機械生命体ってこと?」


 その瞬間だった。

 巨体の“目”がこちらを向く。

 紅い眼光がギョロリと動き、背筋に冷たい汗が走る。


 実際に視線が合ったかどうかなど分からない。

 それでも直感した。

 ――見つかった。敵と判断された。


 「っく……! シオン、離れて!!」


 「えっ!?」


 リーゼは咄嗟に舵を切る。

 次の瞬間、雲海に轟く咆哮が空を裂いた。


 「オォォォォ!!」


 耳を塞いでも貫くほどの衝撃波。

 振動で肺が震え、胸の奥まで響きわたる。


 「うるっさいわねあのデカブツ!!」


 「ママ、それどころじゃないってば!!」


 後方を映すと、巨体の腕が振りかぶられていた。

 手のひらの影が空を覆い、巻き上がる風が機体を揺らす。


 「まずい――!」


 振り下ろされた一撃に乱気流が発生し、機体が制御を失う。

 機首が地面に向かって急加速した。


 「墜落する!!」


 リーゼの悲鳴と同時に、シオンは覚悟を決める。


 「私がいるうちは墜落なんてしない! 掴まってて!!」


 彼女は歯を食いしばり、限界ギリギリで機体を立て直す。

 地表が目前に迫った瞬間、機首がグッと持ち上がる。


 「きゃぁぁ!!」


 衝撃で身体が床へ弾き飛ばされる。

 リーゼは床に叩きつけられ、シオンは基盤に頭を打ちつけながらも、血の流れる額でハンドルを放さなかった。


 操舵手として、

 命を預かる者として、

 手を離すという選択肢は存在しなかった。


 車輪が地面を削り、火花と巨音を撒き散らしながら機体は滑走し――ついに停止する。


 リーゼが顔を上げた時、そこはソラの家の前だった。


 だが家は崩れている。

 その瓦礫の前に、血まみれのソラ、ギル、そして見知らぬ少女が立っていた。


 「……ソラ……?」


 血の溜まりを見た瞬間、リーゼは弾かれたように立ち上がる。


 機体のドアを蹴破る。


 「ギル!! 早く!!」


 「分かった!!」


 ギルはソラと少女を抱え、機内へ飛び込む。


 「シオン!」


 「捕まってて! 出発する!!」


 かすれた声で叫び、再びエンジンを噴かす。

 限界の機体を無理やり走らせ、跳ね上がるように離陸する。


 空船は、巨大機械生命体――

 「深淵の揺籠(バイオ・アビス)」 を背に飛び去った。


 深淵の縁(アビス・ニア)に踏み潰された村。

 そこからの逃避は、本来なら“旅の始まり”になるはずだった。


 だがその幕開けは、あまりにも凄惨で、あまりにも突然だった。

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