【調査記録】埋め戻された水路跡の沈下現象

@tamacco

第1話:住民ヒアリング記録──「夜に沈む庭」

以下は、令和五年十月十五日、調査班が最初に訪問した住宅での聞き取り記録である。形式上は報告書だが、現場の空気感を再現するため、なるべく会話のまま残すこととした。


――――――――――――――


記録開始 10:12


調査担当:井澤

同席:調査助手(記録)

対象者:A氏(男性・48歳)


――――――――――――――


庭の前に立った瞬間、まず目に入ったのは、不自然な沈み込みだった。


芝生は敷き直したように新しいが、一部が盆地のようにくぼんでいる。中央に向かってわずかに傾斜し、水たまりになりそうな形状だ。だが、そこには水はない。土は乾いており、泥濘もない。むしろ砂場のようにさらりとしている。


井澤が靴底で軽く踏むと、沈む。だが水が抜けた地盤の沈下とも違う。柔らかいのに反発はなく、ふわりと逃げるような感触。この時点で、土木的な沈下ではない可能性が頭をよぎった。


井澤「沈み始めたのはいつ頃からですか?」


A氏「最初に気付いたのは七月の終わりです。夕方、水撒きしてたら、足元がふっと下がったんですよ。ぬかるんでるのかと思ったんですが、触っても湿ってない。妙だなと思って、それで夜にもう一度確かめようと思って。」


井澤「夜に、ですか?」


A氏「ええ。昼間より、夜の方が沈むんです。」


沈む、という言い回しを、A氏は当然のように使った。通常、地盤が沈むという現象を体感として語る住民は少ない。大抵は「気付いたら家が傾いていた」「亀裂が入った」という結果から気付く。だがA氏は違う。体験として語っている。


井澤「夜の方が、沈下が進むということでしょうか?」


A氏は少し黙り、言葉を選んだ。


A氏「違います。進むんじゃなくて……下がるんです。目の前で。」


調査助手が手を止めた。


井澤「動いているのが見える、と?」


A氏「ああ……いや。見えるわけじゃないんです。影なんです。形が変わるんですよ。」


A氏はゆっくり立ち上がり、庭を指さした。


A氏「照明があるでしょう。夜、ここに立つと、庭の影が……動くんです。」


井澤「影が動く?」


A氏「影が、沈む方向に引っ張られていくというか……じわっと落ちていく。最初は錯覚かと思ったんですが、数日後、芝生が沈んだのを見て、それが錯覚じゃないって気付いたんです。」


井澤「音は?」


A氏「音、あります。」


井澤「どんな?」


少し間があき、A氏は静かに答えた。


A氏「水の音です。」


調査助手「……水は流れていないのに?」


A氏「そう思うでしょう?でも、水路跡なんですよ。ここ。」


その単語に、井澤は反応した。


井澤「水路跡というのは行政資料で確認されたものですか? それとも個人の認識で?」


A氏「引っ越しの時、不動産屋から聞きました。昔は田んぼと用水路が通ってて、開発のとき埋めたって。まあ古い住宅街にはよくある話でしょう。でも……役所の資料では、水路はもっと南側にあったことになってるらしいんです。」


井澤「位置が違う?」


A氏「違うんですよ。正確に言うと、資料上の水路跡と、沈んでる線が一致しない。」


沈んでいる線。

まるで、地中に線状の何かが通っているような言い方だ。


井澤「沈下の範囲は一定ですか?広がっていく傾向がありますか?」


A氏はくぼんだ庭を眺めながら答えた。


A氏「最初は、直径一メートルくらいだったんです。でも今は……三倍以上。」


井澤「それでも家屋までは届いていませんね。」


A氏「今は。でも、あと一年もすれば玄関まで届くでしょう。」


井澤「沈下が進むとき、ご自身に体感がありますか?」


A氏「あります。」


井澤「どんな?」


A氏「立ってると、足元から引かれる感じです。吸われる、って言えばいいのか……でも、怖いのは体感じゃなくて。」


井澤「じゃなくて?」


A氏「庭に立ってる時、足首くらいの高さに……冷たいものが触れるんです。」


その瞬間、井澤は少し姿勢を正した。


井澤「実際に、何かに触れている、と?」


A氏「触れるんです。でも確認しようとライト向けても、何もない。」


調査助手「猫とか小動物では?」


A氏「それならいいんですけどね。でも、それじゃない。もっと……細い。手首みたいな細さじゃない。湖に入ったときに漂ってる藻が脚に絡む感じに似てます。でも湿ってない。乾いたままなんです。」


井澤「乾いたまま?」


A氏「そう。まるで……空気が触ってくるみたいな。」


その表現は曖昧なのに、妙に具体的だった。


井澤「その現象は、いつ頃から?」


A氏「沈下が目に見えて進み始めた頃です。八月の頭。」


井澤「最後にお伺いします。夜、沈む、という現象。これは比喩ではなく、実際に目視で確認できると?」


A氏「ええ。動画も撮りました。」


井澤「拝見できますか?」


A氏「ええ、見せます。ただ……」


井澤「ただ?」


A氏「撮った当日は確かに沈んでいたんですが、翌日再生したら、沈んでないんです。」


調査助手「記録に残らないということですか?」


A氏「違うんです。沈んでないんじゃなくて……記録が、沈んだ状態から始まってる。」


井澤「撮影中の過程が消えている?」


A氏「はい。そして……再生した日は、沈下がさらに進んでました。」


井澤「つまり、映像より現地の方が、先に沈むということですか?」


A氏「はい。まるで、追いつこうとしてるみたいに。」


――――――――――――――


記録終了 11:04


---


調査後、庭の地盤の高さを測定した。


翌日、同時刻に再測定したところ、

地表が七ミリ沈下していた。


原因不明。

振動なし。

降雨なし。

地下水変動なし。


ただひとつ、記録係のメモにこう残されていた。


「夜、地面が呼吸していた。」

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