第三ターン
第7話 風祭黄泉④
人の気配はする。
けれども姿は見えない。
時折絹を裂くような悲鳴が聞こえてくるが、その全容を知るすべもなかった。
真口神社への道を駿とおっかなびっくりと歩く。
いつもは清々しい散歩道も、今では不気味に脈打っているように感じられた。
「黄泉、かがんで」
「え、しゅ、駿?」
彼の短い髪が視界から消え、私の手を掴んで身を縮こまらせた。
茂みの中で息を殺す私たちの前を、刃物を手にした人が……いや、人だったものが通り過ぎていく。
「てぇんにぃーましますぅー、われぇらがちちぃーよぉー」
調子はずれ、というよりは不協和音のような雑味のある大声。
清水のおじさん……かな、あの服装は。
ご近所の気の良いおじさんが、今では――
「はてぇーのぉーこらをー、えでんにめしまぁせぇー」
決して声はかけられない。
なんだったら呼吸をすることすら危険にも感じる。
体から枝が生えている。
華恋と同じように、目や耳、鼻の穴からひょろりと長い枝が数本。
「ひっ……」
「シッ。黄泉、こらえて」
掴んだ手は決して放したくない。
目の前を闊歩している化け物が到底受け入れられず、町の混乱も謎だらけ。
そんな中でも、駿の手だけは信じられる気がしたんだ。
「行ったみたいだ。それにしても……」
「うん、やばかったよね。見つかったらどうなっちゃうんだろう」
「怒られるだけ……じゃなさそうだった。よし、それじゃあ気を付けて進もう」
あれは
一般的には『餓鬼』とも呼ばれている、人が鬼へと移行する間の存在らしい。
「明日香町では昔飢饉があってね。その際、何でも……そう、口に入るものならば何でも食べた者がいたそうだよ」
「それが……
「ああ。藁で編まれた草履や、木の皮。果てはご神木とされている楢の木のドングリも口にしたってさ」
駿は物知りだ。
暇さえあれば本を読んでいるし、きっと郷土資料館に入り浸って調べたのだろう。
「華恋も……あの悪食鬼になっちゃったのかな」
「そこまでは断定できない。けれどあの時、華恋は正気じゃなかった」
百八十度曲がる首に、逆向きの関節部分。何かを常に噛んでいるような口の動き。
華恋はきっと何かに憑かれたのかもしれない。
この町の異常事態は、きっと何か原因があるはずだ。
「急ごう。もしかしたら神社っていう選択肢は悪くないのかもしれないぞ」
「うん。お姉ちゃん……お願い、無事でいて」
水面に映る月影のように、私たちは気配を殺して神社への高い階段を沿っていく。
もし何か悪意のある者が、私たちの町をおかしくしているのであれば。
きっと私は、そいつを許しておくことができないだろう。
◇
「結構、きつかったな。黄泉、大丈夫か」
「息が……というより心臓が破裂しそう。こんなに辛かったっけ」
「ゲームばっかりやってるからだ。少しは体を鍛えないとな」
駿は慎重に周囲を見渡しながら、私を引っ張り起こした。
生まれたての小鹿みたいに、私の足はプルプルと揺れるばかりなのが悔しい。
「人の気配がしない、というよりは……」
「やめてよ……だって……ここはいつも縁日のときに賑わってた、思い出の場所じゃない」
「ああ……そうだったっけな。それよりもこの臭い……まさか本当に……」
鼻の奥を掻きまわすような、鉄錆びた臭い。
静謐な森に囲まれた神社の奥から、濃密に漂って来ている。
「黄泉はここで隠れてたほうがいい。俺一人ならどうにかなる」
「駄目だよ! だって駿に万が一のことがあったら……!」
彼の指が私のおでこをピンと軽く弾いた。
「心配するな黄泉スケ。何が起きているのか確認するだけだ。それにその、黄泉のお姉さんも……心配だしな」
「うん……どうしよう、嫌な予感が止まらない。駿、私……」
「大丈夫だ。それじゃあ行ってくる」
駿は中腰のまま建物の壁を縫い、社殿の奥へと進んでいった。
私は大きな百葉箱の影にしゃがんで隠れ、階段から『お化け』が来ないように祈っている。
「ん……眼が、痛っ。これって……まさか……」
少し仮眠したことで治まっていたはずの眼痛がぶり返してきた。
まるで焼きごてで焙られるかのような、重くて鋭い痛みに顔が歪む。
「頭痛薬、持ってくるんだった……」
その瞬間、社殿の奥で大きな悲鳴が聞こえた。
今、奥にいるのは一人か二人。そのどちらも大切な人で。
「お姉ちゃん! 駿!」
矢も楯もたまらず、私は跳ねるように駆けだしていた。
ローファーでぬかるんだ泥を蹴り飛ばし、落ちているドングリを踏み潰す。
自分に何ができるかわからないけれど、きっと誰かの助けになれると信じて。
◇
「げほっ、うぐっ」
あまりに密度の高い血の匂いに、喉が呼吸を拒んでいる。
それどころか胃の中身を戻しそうにすらなった。
「誰か……いる……?」
社殿の奥。
御神体が安置されているであろう、本殿の前には大きな血だまりが広がっている。
人が倒れていた。
肌は既に土気色で、命の残り香すら感じ取れない。
それも一人ではない。
目に映るだけで十人以上はいると思う。
「うぷっ、うえええええっ」
生気の無い瞳に射すくめられ、私は我慢できずその場で戻してしまった。
こんなところにお姉ちゃんがいたの?
駿は大丈夫なの?
千々に乱れた思考が、嘔吐感で流れ出ていく。
「黄泉……逃げろ……」
不意に聞こえた駿の声に、私は碌に口元を拭わず顔をあげた。
視線の先には学生服に大きく血液を付着させた駿がいて。
「駿っ!!」
思わず大声を出し、駆け寄ってしまった。
そっと抱きしめると、駿はハッとしたように私の腕を掴む。
「痛いよ駿。ねえ、一体どうなってるの」
「話は後にしよう。ここはヤバい」
そんなのは見ればわかる。どう見ても惨状そのものであり、誰かがここで何人も殺したに違いないのだから。
「まさか……お姉ちゃんは……?」
「いや、姿はなかった。きっとこの社殿を見て避難したのかもしれないな」
「そうかもしれないけれど……ん、あれ?」
社殿の木張りの床に、桜のヘアピンで止められた紙片があるのを発見した。
お姉ちゃんが愛用しているものだから、見間違えるはずがない。
急いで手に取り、中身に目を通す。
『黄泉へ
神社にお参りはできないみたいです。
町が大変なことになっているので、もしこれを読んだらちゃんと安全なところに避難するようにしてください。
お姉ちゃんはお籠り場所に行ってみます。
きっと神様が見守ってくれるので、心配しないでくださいね。
風祭有架』
バカ。
お姉ちゃんの大馬鹿!!
思わず手紙を破りそうになった。
どうしていつもいつも、周りの人のことを優先するんだろう。
それで今まで何回傷ついてきたのか、数えたことはあるのだろうか。
「黄泉?」
「駿、ごめんだけど奥に行こう。お姉ちゃん、お籠り場所にいるみたい」
「それは駄目だ。というより今すぐここを離れ――」
じゃり、じゃり、じゃり。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
何かが、いや、何者か達がこちらに近づいてきている。
砂利を踏みしめる高音と、泥を足でかき回す低音。
「黄泉、行くぞ」
「はぁ……はぁ……、駿……でも」
ガビュ、と肉質的な音が聞こえた。
顔に飛び散る、赤い飛沫の正体がよくわからなかった。
「し、駿……」
「が、あ、あぁ……」
駿の顔に噛みついている、木の枝まみれの男たち。
駿の腕に歯を立てている、木の枝絡みの女たち。
「うああああああああああっ!!」
駿が、目の前で、食べられて、いく。
頭の中まで真紅に染まった気がした。
私は近くに落ちていた箒を手に、化け物——悪食鬼たちを引きはがそうとした。
頑張った、頑張ったんだよ。
命からがら駿を引っ張って、社殿の中に立てこもった。
駿の呼吸は浅く、あちこちから夥しい出血だらけ。
「駿、駿! お願い、息をして!」
「だい……じょうぶ、だ。黄泉、しん……ぱい、するな」
つないだ手と手は、まるで祈りのように。
聖なる場所で聖なる行為。
だから駿は大丈夫なはず。
動かなくなった彼は、きっと眠っているだけ。
涙混じりのキスは、優しい桜のフレーバーがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます