第7話「梨花の選択」

 時間は——少し、遡る。


 地上。3日前。


 梨花は、蒼司のマンションにいた。


 蒼司は——いない。


 いや、正確には——蒼司の"残響"が、仕事に出ている。


 梨花は、部屋を調べていた。


 何か——手がかりがあるはずだ。


 本物の蒼司が、どこにいるのか。


 梨花は、蒼司の書斎を調べた。


 机の引き出し。


 原稿用紙、ペン、付箋——


 そして——


 黒い名刺。


 梨花は、名刺を手に取った。


深淵 -SHINSEN-

地下5階 / 午前0時以降


 裏に、手書きで——


銀座4-8-12 柳ビル 地下5階


 梨花は——名刺を握りしめた。


 ここだ。


 蒼司は——ここにいる。


 梨花は、その夜——銀座へ向かった。


 午前2時。


 雑居ビルの前。


 梨花は、地下への階段を降りた。


 地下1階、2階、3階、4階——


 そして——


 壁。


 梨花は——前回と同じように、壁の前で立ち尽くした。


 階段が、見えない。


 だが——


 確かに、気配がある。


 梨花は——目を閉じた。


 蒼司を、思い浮かべる。


 本物の蒼司を——


 その時——


 背後から、声がした。


「君も、才能が欲しいんだろう?」


 梨花は、振り返った。


 そこに——


 蒼司が、立っていた。


 だが——


 この蒼司は、残響だ。


 梨花には、わかった。


 目が——虚ろだから。


 残響が、微笑んだ。


「編集者として——認められたいだろう?」


 梨花は、黙っていた。


 残響が、階段を指差した。


 梨花の目に——階段が、見えた。


 暗闇の中に、降りていく階段。


 琥珀色の光が、漏れている。


 残響が、囁いた。


「ここに行けば——才能が手に入る。君も——蒼司と同じように」


 梨花は——


 これは罠だと、わかっていた。


 だが——


 梨花は、階段を降り始めた。


 蒼司を——


 連れ戻すために。


 地下5階。


 扉を開けると——


 琥珀色の光。


 小さなバー。


 カウンターに——バーテンダーが立っていた。


 朔。


 朔は、微笑んだ。


「いらっしゃいませ」


 梨花は——朔を睨んだ。


「蒼司は、どこ?」


「倉田様は——奥の部屋で、創作をされています」


「会わせて」


 朔は、首を振った。


「今は——無理です」


「なぜ?」


「彼は——今、才能を燃やしている最中です。邪魔をしてはいけません」


 梨花は——カウンターに手をついた。


「蒼司を——返して」


 朔は、微笑んだだけだった。


「返す? 彼は、自分の意志でここにいます」


「違う——あなたが、騙したんだ——」


「騙した?」


 朔は、グラスを取り出した。


「いいえ。僕は——ただ、才能を与えただけです」


 朔は、グラスに琥珀色の液体を注いだ。


「梨花様——あなたも、飲みますか?」


 梨花は——グラスを見た。


「私は——才能なんて、いらない」


「本当に?」


 朔は、グラスを梨花の前に置いた。


「あなたは——編集者になりたかった。でも、才能が足りなかった。いつも——他人の才能を、羨んでいた」


 梨花は——黙った。


 朔が続けた。


「倉田様も、そうでした。才能を——求めていた。だから、ここに来た」


「でも——蒼司は、今——」


「幸せですよ」


 朔は、バーの奥を指差した。


「彼は、永遠に創作を続けられる。才能を——燃やし続けられる」


 梨花は——涙が出そうになった。


「それは——幸せじゃない——」


「なぜ?」


「心が——ないから——」


 朔は、微笑んだ。


「心は——才能の邪魔です」


 梨花は——朔を睨んだ。


「私は——心がある蒼司が、好きだった——」


 朔は、グラスを指差した。


「一口だけでも——どうぞ」


 梨花は——


 グラスを、見た。


 琥珀色の液体。


 これを飲めば——


 才能が、手に入る。


 蒼司と——同じ世界にいられる。


 梨花は——


 手を、伸ばした。


 グラスを——


 持ち上げる。


 一口——


 飲んだ。


 瞬間——


 梨花の脳内に、光が溢れた。


 物語が——見える。


 編集者として——何をすべきか。


 どんな作家を、育てるべきか。


 どんな本を、作るべきか。


 すべてが——明確に見えた。


 梨花は——息を飲んだ。


 これが——


 才能。


 だが——


 同時に、梨花は感じた。


 何かが——欠けていくのを。


 心の一部が——薄れていくのを。


 梨花は——グラスを置いた。


 朔が、微笑んでいる。


「いかがですか?」


 梨花は——答えなかった。


 ただ——奥の部屋へ、向かった。


 梨花は——蒼司を見つけた。


 小さな部屋。


 蒼司が、パソコンに向かっている。


 夢中で、キーボードを叩いている。


 梨花は——蒼司の背中を見た。


 蒼司は——気づかない。


 梨花がそこにいることに。


 梨花は——声をかけた。


「蒼司——」


 蒼司は——振り返らなかった。


 ただ——書き続けている。


 梨花は——蒼司の肩に、手を置いた。


 その瞬間——


 蒼司が、振り返った。


 その目——


 虚ろだった。


 梨花は——涙が溢れた。


「蒼司——私よ——梨花よ——」


 蒼司は——梨花を見た。


 だが——


 何も、言わなかった。


 ただ——また、パソコンに向き直った。


 梨花は——蒼司の腕を掴んだ。


「ねえ——帰ろう——地上に——」


 蒼司は——首を振った。


「帰らない」


「なんで——」


「ここで——書くんだ——」


 蒼司の声——


 感情がない。


 機械のような、声。


 梨花は——蒼司を、強く揺さぶった。


「蒼司——起きて——目を覚まして——」


 だが、蒼司は——


 梨花の手を、振り払った。


「邪魔しないでくれ」


 蒼司は——また、書き始めた。


 梨花は——


 その場に、崩れ落ちた。


 もう——


 遅いのか?


 蒼司は——


 もう、戻ってこないのか?


 その時——


 朔の声が、聞こえた。


「梨花様——下へ、どうぞ」


 梨花は——顔を上げた。


 朔が、部屋の入口に立っている。


「下——?」


「ええ。地下6階——そして、最深部へ」


 朔は、微笑んだ。


「倉田様も——そこにいます。本当の、倉田様が」


 梨花は——立ち上がった。


「本当の——?」


「ええ。ここにいるのは——もう、抜け殻です。本当の倉田様は——地下100階で、あなたを待っています」


 梨花は——


 階段を、降り始めた。


 そして——


 今。


 地下100階。


 琥珀色の泉のほとり。


 梨花は——本物の蒼司と、再会した。


 蒼司が、叫んだ。


「なんで来たんだ!」


 梨花は——静かに答えた。


「あなたを——連れ戻しに」


 蒼司は、梨花の肩を掴んだ。


「ここは——危険だ——君まで——」


「大丈夫」


 梨花は、微笑んだ。


「私——一口しか、飲んでないから」


 だが——


 梨花の目も——少しだけ、虚ろになっていた。


 蒼司は——気づいた。


「梨花——君も——」


 朔が、梨花に近づいた。


「梨花様——こちらをどうぞ」


 朔は、グラスを差し出した。


 琥珀色の液体。


「飲めば——あなたも、完全な才能を得られます」


 朔は、泉を見た。


「そして——倉田様と一緒に、ここで永遠に創作を続けられます」


 梨花は——グラスを見た。


 手を、伸ばす。


 グラスに——


 触れようとした、その瞬間——


 背後から、声がした。


「梨花——やめろ——」


 梨花は、振り返った。


 そこに——


 もう一人の蒼司が、いた。


 地上の蒼司。


 残響。


 残響が、階段を降りてくる。


 その顔は——


 もう、虚ろではなかった。


 感情がある。


 怒り、悲しみ、絶望——


 残響が、本物の蒼司を睨んだ。


「お前——まだ、いたのか——」


 本物の蒼司が、震えた。


「お前は——」


「俺は——お前の残響だ」


 残響は、梨花を見た。


「梨花——そいつと一緒に、ここにいても無駄だ」


 残響は、本物の蒼司を指差した。


「こいつが地上に戻っても——才能はもうない。俺が——全部、使った」


 残響は、自分の胸を叩いた。


「地上で——10作以上、書いた。すべて、ベストセラーだ。映画化も、ドラマ化も決まってる」


 残響は、笑った。


「こいつが戻っても——ただの凡人に戻るだけだ。何も書けない——ただの、抜け殻だ」


 本物の蒼司は——


 反論できなかった。


 残響の言う通りだ。


 才能は——もう、ない。


 梨花は——二人の蒼司を、見た。


 本物の蒼司——


 才能はないが、心がある。


 残響の蒼司——


 才能はあるが、心がない。


 梨花は——


 グラスを、持ち上げた。


 朔が、微笑む。


「いい選択です」


 だが——


 梨花は——


 グラスを、残響に投げつけた。


 琥珀色の液体が——


 残響の顔に、飛び散る。


 残響が——驚いた顔をした。


「梨花——」


 梨花は、叫んだ。


「私が愛したのは——才能じゃない!」


 梨花は、本物の蒼司の手を握った。


「不器用で——悩んで——それでも書こうとする、あなただった!」


 梨花は、残響を睨んだ。


「あなたは——蒼司じゃない——ただの、影だ——」


 残響が——


 苦しみ始めた。


 体が——光の粒子になっていく。


 朔が、囁いた。


「地上の残響を否定すると——本体も、崩壊し始めます」


 蒼司は——驚いた。


「じゃあ——僕も——」


 蒼司の体も——


 光の粒子になり始めた。


 手が——透明になっていく。


 梨花が、叫んだ。


「嘘——蒼司——」


 梨花は、蒼司を抱きしめた。


「消えないで——お願い——」


 蒼司は——梨花を抱きしめ返した。


 温もりが——


 感じられる。


 蒼司は——初めて、気づいた。


 これが——


 本当に、大切なものだったんだ。


 才能じゃない。


 名声でも、成功でも、ない。


 ただ——


 誰かを愛すること。


 誰かに——愛されること。


 蒼司は、梨花の耳元で囁いた。


「梨花——ありがとう——」


 梨花は、涙を流しながら——


 蒼司を、強く抱きしめた。


「消えないで——一緒に帰ろう——地上に——」


 蒼司の体が——


 さらに、透明になっていく。


 もう——


 梨花の腕を、すり抜けそうだ。


 蒼司は——


 朔を見た。


「朔さん——方法は、ないんですか——」


 朔は——


 初めて、悲しそうな顔をした。


「一つだけ——あります」


「何を——」


 朔は、泉を見た。


「泉に——還ることです」


 蒼司は、息を飲んだ。


「還る——?」


「ええ。あなたの才能を——すべて、泉に返すんです。そうすれば——残響も消え、あなたも——元に戻ります」


 朔は、蒼司を見た。


「ただし——才能は、完全に失われます。二度と——書けなくなります」


 蒼司は——


 梨花を見た。


 梨花は——


 涙を流しながら、頷いた。


「それでもいい——才能なんて、いらない——ただ、あなたが——」


 蒼司は——


 決めた。


 蒼司は、泉に近づいた。


 手を——


 泉の中に、入れた。


 琥珀色の液体が——


 蒼司の体に、染み込んでいく。


 いや——


 蒼司の中から、何かが——流れ出していく。


 才能が。


 物語が。


 すべてが——


 泉に、還っていく。


 蒼司は——


 激痛を感じた。


 まるで——


 魂を、引き裂かれるような——


 蒼司は、叫んだ。


 梨花が、蒼司を支えた。


「蒼司——!」


 蒼司の体から——


 光が、溢れ出す。


 その光が——


 泉に、吸い込まれていく。


 そして——


 残響が——


 完全に、消えた。


 光の粒子になって——


 消えた。


 蒼司の体も——


 透明だったのが——


 実体を取り戻し始めた。


 だが——


 蒼司の目から——


 あの光が、消えていた。


 才能の光が。


 蒼司は——


 もう、ただの人間だった。


(第七話・終)

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