第一幕 聖なる火の山へ

 さわやかな秋晴れの下、聖山にもうでる登山客の波にたゆたいながら、マルティナはぼんやりと少し先を歩く少女をながめていた。

 ミルミアール王国を創世そうせいした神が降り立ったという、聖なる山ハルディス。

 普段は眠りについたように静かだが、時折、神が息吹をしらしめすように、頂上は白い煙を吐き出す。

 聖山は、内側にふつふつと熱を貯えた火の山なのだ。

 清々しい秋風が吹き付けて、聖山詣でに集まってきた登山客の周囲に乾いた緑の香りを散らす。

 あまりにも平穏な光景が、どうにも昨夜までの自身の境遇きょうぐうとうまくつながらない。

 月明かりに濃くただよった血の匂いと、しっとり落ち着いた樹木の香り。

 様相ようそうことにするその記憶をつなぐのは、視線の先にいる華奢きゃしゃな少女から漂う香木のそれだった。

 目深まぶかくローブのフードをかぶり、うろちょろとあちこちの店の軒先をのぞく姿は、背格好は成人ではあれど、とても幼く見える。

 そんな子供じみた乙女が、ミルミアールの繁栄を引き寄せていた現人神あらびとがみ――シンシアだと、誰が思うだろう。

 シンシアはふと一軒の土産物屋みやげものやの前で足を止め、主人の売り口上に熱心に耳を傾けた。

 聞き終えると、はじかれたようにきびすを返し、人波をってマルティナに駆け寄ってくる。

「ねえ、あの店で売ってる軟膏なんこうを塗ると、どんな痛みでも治るんですって!」

 感激をたたえて輝く瞳は、水銀にほんのり朱をたらしたような不思議な色をしている。

 真珠のような光沢の白い髪はフードに隠れているが、珍しいそれらの色彩は、マルティナ以外の者には、ダークブロンドと緑の瞳に見えるらしい。

 マルティナの髪と瞳とを映し、認識をごまかしているそうだ。

「そんなわけあるか」

 あっさり否定されて唇をへの字にしながらも、シンシアはマルティナの腕にしがみついて上機嫌で歩き出した。

 歩きにくくてかなわない。

 ―……この娘は本当に、一度は手に掛け、けれどたちまち生き返るという怪異を見せた現人神あらびとがみなのか―――?

 現人神の座す塔の最上階から、通れるはずのないガラス張りの窓をすり抜けて夜空に身を踊らせた。

 あの瞬間に違う世界へ飛んでしまったような気がして、マルティナは両の目頭を軽く揉んだ。


 夜空に飛び出した後――気が付けば、ハルディス山の登山口に自分はいた。

 正確には、聖山と外界を隔てる巨大な石造りの門の前――夜明けの開山を待って集う人々の群れの片隅にいた。

 周囲に生い茂る木々の中でも、ひときわ大きなブナの木の下。

 大地から盛り上がった太い根に腰を下ろし、こわごわした幹にもたれた状態で目が覚めた。

 あたりはまだ薄暗く、状況がみ込めずに首を左右すると、周囲には似たように木の根を椅子いすに休む人が多くいた。

 衣擦きぬれの音と共にぬくもりが頬に触れ、誰かが自分に寄りかかっているのだと気づく。

 視線を向けると、白いフードが視界に入った。

 どこかで見たことがあると思った時、隙間から覗く白い肌と白いまつ毛、鮮やかに浮き上がる赤い唇、そして漂ってくる香木の香りから、その正体をさとった。

 ―……なぜ。

 状況が呑み込めないまま、呆然と見つめるマルティナに気づいたように、少女も目を覚まして寄りかかっていた身体を離した。

 唖然あぜんとするマルティナとは逆に、軽く目をこすり、次いで気持ち良さげに伸びをした現人神――シンシアは、にっこりと笑いかけてきた。

「よく休めたわ」

 化け物を見る心地のマルティナをよそに、シンシアは満足げな面持ちで一人語り出す。

「ハルディス山は、夜の立ち入りが禁じられているの。頂上で迎える朝日は霊験れいげんあらたかな神の祝福とされているから、数日かけてもうでる者もいるけれど、夜は山小屋に落ち着いて外に出ないように定められているわ。夜に活動する山の精霊は、人が嫌いなんですって。

 だから山そのものに結界も張られていて…、無理に入れなくもないけれど、結界を乱せば大神官にかんづかれて厄介だし……。そんなわけで、他の人たちにまざって、夜明けの開門を待っているのよ」

「……なぜ、私がお前に協力しなければいけないんだ?」

 思い切り嫌悪を声ににじませても、シンシアはどこ吹く風だ。

「言ったでしょ?頂上に連れて行ってくれれば、あなたの願いをすべて叶えると」

 敵意を隠さないマルティナ相手に、まるで親しい友人に内緒話を打ち明けるようにささやく。

「心配しなくても大丈夫よ。ちゃんと、わたくしを殺すっていう目的も達成できるわ」

 不穏な言葉にそぐわぬ無邪気な笑みに、マルティナは困惑を禁じえなかった。

「塔から出る時も言ったけれど、わたくしの名前は、シンシアよ。ほとんどの人が知らないし、呼んでもくれないけれど、ちゃんと名前があるわ」

 そう言った時初めて、非の打ちどころのない美貌が微かにかげりを帯びた。

「ちょっと、アンタたち」

 気詰きづまりになった二人に、すぐ近くに座っていた年配の女性が声をかけてきた。

「兄妹でお参りかい?奇特きとくなことだね。良かったらこれ、おあがんなさい。そろそろ門が開くから、その前のちょっとした腹ごしらえに」

 気のよさそうな婦人は、言いながら大振りなビスケットを二枚差し出してきた。

 マルティナが対応するより早く、シンシアが素早くそれを受け取る。

「ありがとう。とってもいい香り。いただくわ」

 シンシアの言葉に、婦人はふくよかな頬を笑み崩す。

「でも、おばさま、お兄さまではないの。お姉さまなのよ」

 シンシアがおかしそうに言うと、婦人は目を丸くしてマルティナとシンシアを交互に見た。

「おや、これは失礼したね。賢そうな良い面構つらがまえをしてるから、どこぞのお貴族さまに召し抱えられた騎士さまかと思ったよ。お姉さん、許しとくれ」

 色々と思うところはあるが、申し訳なさそうに謝られては、マルティナも曖昧あいまいに笑ってうなずくしかない。

「まあ、とってもおいしい……。はい、どうぞ」

 シンシアは早速ビスケットをかじりながら、一枚をマルティナに寄こす。

「たくさん胡桃くるみが入ってる。こんなにおいしいもの、初めて食べたわ」

 大げさだねぇと言いながら、婦人は相好そうごうを崩している。

 マルティナも仕方なしに齧ると、良く焼きしめられた、素朴そぼくなクッキーだった。

 旅の携帯食として、用意されたものだろう。

 婦人が息子らしき人物に促され、手を借りながら立ち上がる。

 東の空に覗く淡い光が、夜明けの到来を告げていた。

 もうすぐ開門なのだ。

 婦人に手を振って見送りながら、シンシアは大切そうにビスケットを少しずつ味わっている。

「ふふふ、姉妹ですって。マルティナの方がお姉さんに見えるのね。わたくしの方がずっと年上なのに」

 たのしそうな様子の意味が分からず、マルティナは渋面じゅうめんになった。

「アンタと見た目に共通点がないんだが…」

「他の人の目には、マルティナと同じ髪と瞳の色に見えるようにしてるのよ」

 マルティナはギョッとしてシンシアを改めて見たが、自分の目には、昨夜と同じ真珠のような白髪に、水銀のような目に見える。

 シンシアは嬉しそうに最後のひとかけらを口に入れ、惜しむように目を閉じた。

「自分たちの手で大切に育てて収穫した小麦…胡桃…どれも愛情込めて作られたもの…おいしかった……」

 特に何の変哲へんてつもない庶民しょみんの菓子一つに感じ入っている姿に苛立いらだちを覚え、マルティナは毒づいた。

「アンタはもっといいものを食べてるんじゃないの?王族のように、虫歯になるほど贅沢ぜいたくに砂糖やバターをたっぷり使ったものを。ああ、化け物はかすみを食べて生きているのか」

土粥つちがゆが主よ。あとは少しのパンと野菜、果物ぐらい。お腹もすくし、なんでも普通に食べることができるのに。あなたと同じように、私はかすみを食べて生きると思ってる人は多いわね」

 肩をすくめて何てことないことのように言って、シンシアはするりと立ち上がった。

「わたくしたちも行きましょう。門が開くわ」 


 したがう義理はないのに、どうにもペースを乱される。

 シンシアはずっと目の前に広がるすべてに対し、顔を輝かせていた。

 ちょこまかしては戻ってきてマルティナの腕を捕まえ、見聞きしたことを逐一報告ちくいちほうこくする姿は、少女よりさらに幼く見える。

「あまりあちこち冷やかして回るな。不審ふしんに思われたらどうする?」

「お店を見るのはおかしいことなの?他の人もしているのに」

 小首をかしげるシンシアに、マルティナはため息をつく。

 自分がたぐいまれな美貌を持っていることのあやうさは、考えにないらしい。

「目立たないに越したことはない。頂上に行くと言うなら、さっさと行くぞ」

「確かにそうだけど…こうして市井しせいの暮らしを直に見るのが初めてだから、どれもこれも珍しくって……」

 シンシアの言い分は無視して、マルティナは歩調を速めて人混みをいながら登山道を進む。

「待って、マルティナ。あのお店が見たい。これで最後だから」

 立ち止まって腕を引かれ、仕方なく足を止めると、シンシアはいそいそと細工ものの店を覗き込んだ。

 火山であれば、水晶をはじめとする天然石も多く採れる。

 大振りであったり、上質なものは神殿や王国貴族に献上されるので、市民が手にできるのは屑石くずいしではある。

 それらを巧みに見栄え良く加工し、アクセサリーや置物にして商いにしている店だった。

 記念品、そして護符ごふとして、良い商売になるのだろう。

 店先の椅子に腰かけた年配の女性が、愛想良くシンシアの相手をしている。

 近づいて後ろに立つと、シンシアは笑顔を振り向けて、店先のアクセサリースタンドに飾られた耳飾りを指さした。

 澄んだ深みのある緑色の石だった。

「とても綺麗ね。気に入ったわ」

「聖山の尊い熱に長い間焼かれ、にごりを清められて生まれた純粋なガラスさ。これほど深い緑は、そうそうお目にかかれない。お嬢ちゃんは目が高いねぇ」

 マルティナは、聞かれないように小さく舌打ちする。

 シンシアのローブを止めている真珠をあしらった留め具の方が、よほど高価であることを、当人は知らないのだろう。

 年を重ね白濁はくだくした老女の瞳には、それが見えていないのは幸いだった。

「そんなものを買う余裕はない。さっさと行くぞ」

 マルティナの言葉に、シンシアは目を見張り、老女は残念そうに目尻を下げた。

 引きずられるようにして歩き出しながら、それにあらがってシンシアは、ひざ掛けを乗せた老女の膝に、そっと手を乗せる。

「おばばさま、お話、楽しかったわ。ありがとう」

 シンシアのいたわりに、老女はしわの寄った顔を笑みなごませた。

 さらに乱暴に手を引くマルティナに、シンシアが不思議そうにたずねる。

「買うって、なに?」

 意外な問いに、マルティナの足がわずかにもつれて軽く前につんのめった。

 体勢を整え、きょとんとした顔のシンシアを、改めてまじまじと見つめる。

「店に並べられたものは、金子きんすを払わなければ手に入らないんだが」

 ああ、とシンシアは納得したようにうなずいた。

「そうよね。貨幣かへいが必要よね……。わたくし、知らなくて……」

 そして、少し慌てたようにローブのポケットを探る。

「どうしましょう。金子きんすって、どんなものか知らないの。何か代わりになるものを持ってきていたかしら……」

 マルティナは深いため息をついた。

 現人神あらびとがみは、神殿につかえ、厳格げんかく純潔じゅんけつを守っていた巫女から生まれたという。

 産声を上げた日からずっと神殿の外に出たことのないシンシアが、市井の暮らしの常識を知らないのは、当然と言えた。

 王族の姫君よりも、浮世離れしているかも知れない。

 マルティナは軽くかぶりを振ると、今度は落ち着いた速度で再び歩き出した。

「アンタのローブを止めているかざり一つで、民は三か月は働かずに食える」

 まあ、とシンシアは空いた手で飾りをいじった。

「こうして人が集まる場所は、聖域だろうがスリやひったくりがいる。気を付けていろ」

「それなら大丈夫よ、気配もほぼ消しているから。さっきの耳飾りと、この留め具を交換すれば良かったかしら」

 マルティナは再び、大きくため息をつく。

「その留め具一つで、店中の商品と交換できる。あの耳飾り一つじゃ、等価交換にはならないよ」

「でも…初めて…欲しいなって思ったのよ」

 どこか嬉しげなシンシアの言葉が、マルティナの気にさわった。

 欲しいものがないということは、欲しいと思う前にすべて与えられていたということ。

 何一つ不自由なく生きてきたということ。

 ―……他者から平穏を根こそぎうばっておきながら……。

 マルティナの中で、どす黒い感情が首をもたげる。

「今日明日には死んでいくのに、何を手に入れようが無駄だろう」

 突き刺すように言うと、一瞬、つないだシンシアの手が強張った。

 チラリと視線を振り向けると、人形のように、表情を失った美貌があった。

 けれどすぐに微笑むと、シンシアは「それもそうね」とうなずいて見せる。

「行きましょう、目的地まで、早く」

 打って変わって黙々もくもくと先を急ぐシンシアの様子に、胸のにごりがさらに広がる。

 口から毒を吐けば自らもけがれる事実を、マルティナは苦く重く噛みしめた。


 聖山詣せいざんもうでは、信仰と観光の両面から、集う人々の気持ちを高揚させる。

 天気の良さも相まって、誰もが感謝や希望に満ち、表情は輝いていた。

 そうした光景の中、目深に外套がいとうのフードをかぶって先を急ぐ二人は異質である。

 けれど、誰も気に留めない。

 まるで存在しない影のように、脇を素通りしていく長身と小柄な組み合わせに目もくれない。

 もとより気配を隠すことがならしょうになっているマルティナではあるが、今現在の周囲からの無関心は通常の比ではない。

 シンシアの力によって、存在そのものが人々の認識から外れている。

 ようやくシンシアも黙々と先を急ぐことに集中し、二合目にさしかかる辺りまではスムーズに進んだ。

 しかし、二合目に踏み込んだところで、これまで穏やかに流れていた空気がわずかに乱れた。

 かすかな変化であったが、生来の鋭敏えいびんさを生きざまによってより研ぎ澄ましたマルティナは、見過ごさなかった。

 あからさまな危険では、ない。

 けれど、自分にとっては良からぬもの。

 そうした何かが、近づいている。

 それは、危険信号だった。

 シンシアの様子を見ると、だいぶ呼気が乱れて苦しげだ。

 視線に気づいたシンシアは、汗の滴る顔を振り向けてきた。

「…あまり、長く歩いたことがなくて……」

 仕方なくマルティナは、さらに足をゆるめた。

 きたえてきた自分と、神殿から出ることのなかったシンシアの脚力きゃくりょくには、大きな差があって当たり前だ。

 さすがに気が咎め、休憩を言い出そうか迷うマルティナに、シンシアは強いまなざしを向けた。

「大丈夫よ、急ぎましょう」

「だが、」

「気づかれてしまったの」

 言葉をかぶせてきたシンシアを、マルティナは「え?」と見返した。

「さっき、親切にたくさん話をしてくれたことが、嬉しくて…おばばさまにお礼がしたくて…痛めていたひざいやしてしまったわ。わたくしの力の動きに、大神官が気づいたのでしょう。

 神殿に残した『影』も、大神官ならばその気になれば見破れる。秘密裏ひみつりに追手が放たれたわ。気配が迫ってる」

「この……バカ!!」

 反射的にののしって、マルティナはシンシアの手を引いて再び速足で先を急いだ

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