第3話 五島 柘榴の家庭事情

五島いつしま 柘榴ざくろの家は少し……いや、かなり変わっている。少なくとも、柘榴自身はそう感じていた。

今日も、ほら。



「……ただいま。」


柘榴が玄関の戸を開けると、父親が廊下の奥に立っていた。彼女の方を見ない辺り、娘の帰宅を待っていたわけではないらしい。


〈柘榴、早く研究室——に来な……い。〉


間髪入れず届いたのは、誰のものでもない、柘榴自身の声。

転送された父親の思考だ。

家族の声など、もう何年聞いていないだろう。

父親は研究室に篭り、母親と双子の妹はいつもそこで微笑んでいるだけ。



「でも、宿題が——」


〈そんなも……お前に必要ないだろう。早くし——なさい。〉


そんなささやかな反抗も許されない。

いつものこと、ただの日常だと柘榴は自分に言い聞かせ、重い足取りで父親の後を追った。



そこは有無を言わさぬ、父の空間。

チリ一つない真っ白なその部屋は、興味のないものは徹底的に排除する彼の人格そのものだ。

……たとえば、失敗作とか。


「……お父さん、先程のやりとりでノイズが確認されました。前回の同期データが軽通信と干渉したか、バッファの残骸が混ざったかもしれません。」


〈そうか。あとで見——ておく。〉


およそ会話と呼べるかも怪しいけれど、柘榴はもう、慣れてしまった。慣れるしかなかった。

父親は柘榴の方を見ることもせず、ただ傍にあるベッドを顎でしゃくった。


〈昨日——の続きだ——。準備しなさい。〉


柘榴は言われるがまま、ベッドに寝そべった。

すると機械音が鳴り響き、ゆっくりとアーチ状の装置へ吸い込まれていく。

機械の光が脈打つたび、呼吸も胸の鼓動もそのあとを追うように、少しずつ重なるのがわかった。



『同期ヲ開始シマス』


「……ッ!」


頭の奥で弾けるような痛みを感じた。同時に、彼女の脳内に膨大な量の情報が流れ込んでくる。

まるで雪崩だ。逃げることは許されない。


——昨日の続きと今日の分なら、終わるのは夜中かな。


冷静な自分が、まだどこかでこちらを見ている。

柘榴はそれを探すことを諦め、遠のく意識を手放した。



* * *


あれは確か、4年前。

私と葵の10歳の誕生日。

滅多に研究室を離れない父だったが、何かしらの祝いの場には必ず顔を出してくれた。

幼心にそれが嬉しかったのを、今でも覚えている。


両親からのプレゼントを2人で開けて、はしゃいで、ただ純粋に楽しかった。



……思い返せば、あの日が地獄の始まりだった。


父が言ったのだ。

もっと楽しい世界に連れていくと。

葵と顔を見合わせた。わくわくした。

母の悲しげな目にも気付かないまま。


「ここに寝転んでごらん。」


そう言って父が指さしたのは、ドームのついた、秘密基地のように大きなベッド。

葵が先に寝転んだ。私はお姉ちゃんだから、葵に順番を譲ったんだ。


秘密基地に吸い込まれていく葵。

楽しそうに手を振る葵。

手を振り返した私。




——耳をつんざく機械音と、誰かの悲鳴が聞こえた。


それから先は覚えていないけれど、あの日から私の脳内の片隅には父の思考が居座るようになった。



初めは単純なものだった。

父は声を発していないのに、父の考えていることがわかった。

家に帰れば、私の思考とは別に『おかえり』の言葉が浮かぶとか、その程度。

だけれど少しずつ、父の思考が私の脳内を占めていく。そう気付くのに——いや、“理解”するのに、あまり時間はかからなかった。


バッファ、同期、思考干渉。

データの流れやメモリの限界。

あの機械に寝かされるたび、知らないはずの言葉や知識が、“結果”として蓄積されていく。


父の理想も、学ぶ間もなく理解した。

思考は電気信号であり、感情や記憶は神経パターンとして蓄積される。

ならば、そのデータを直接複製・転送できるようにすれば、送受信——いわば“共有”は理論上可能になる。

現状私は受信しかしていないけれど、いずれ……。

いや、それを考えるのは父だけで十分だ。


父はこの理論を実現するために、体内チップに目をつけた。

国で義務化されている体内チップ、通称“ネバーコード”。

元々は未成年の保護管理を目的とし、スケジュールや体調管理に保護者が適切に介入できるようにするための装置だったのに。

まさかその同期機能が、父の研究を助長することになるなんて。


……恐らく、私や葵はその実験台となったのだろう。



ああ、嫌だ。

ああ、羨ましい。

普通の家が、普通の親が、普通の“私”が。

クラスメイトと話すたび、羨ましくて仕方がない。


何不自由なく、親に愛されて育ったであろう平和ひらわくんも、少しばかり窮屈でも、子どもの安全のために管理を怠らない親を持つ渡部わたなべくんも。


全部全部、夢ならいいのに。



* * *


柘榴が目を覚ましたのはその日の真夜中。

隣で父親がモニターに齧り付いたままの光景は、もう見慣れたものだった。


これをおかしいと言わずして、何をおかしいと呼べるだろうか。

少なくとも柘榴は、この家が現実だと、知っている。

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