ピーターパン症候群
えのぐ
第1話 カルタゴのリンゴ
ピーターパンになりたかった。
嫌なものは全部忘れて、仲間たちとの楽しい日々に溶け込んで。
そんな”現実”が、ずっと続くと思っていたのに。
* * *
「子どもだけの国って何なんだろうね。」
呟くような少女の声を、薄紫の夕日が静かに覆った。
紫に染まる空を夕焼けと呼ぶ理由なんて、もう誰も知らないだろう。
彼女の目線の先で、1人の少年が煩わしげに口を開いた。
「《およそ200年前の流行病によって引き起こされた悲劇。
主に16歳以下の子どもが発症、症状としては心身ともに成長せず大人になれない。》」
「そんなこと聞いてんじゃないよ。
これだから万年2位の
少女は呆れたように首を振った。
いつものことだと言わんばかりの仕草だ。
「……もう
一方こちらはそんなわけにはいかないようで。
みるみる歪む少年の顔にははっきりと、“嫌い”の文字が浮かんでいる。
「うわ、ごめんってば。
そうじゃなくてさ、授業でやるぐらいだから史実なんだろうけど……、そんな病気が実在したか怪しいなと。」
「まさかそんなことで呼び止めたわけ?
僕さっきから塾のアラーム鳴りっぱなしなんだけど。」
そこは二人の会話だけがこだまする教室で、アラームの音など聞こえはしない。
だけれど少女は意に介する様子もなく、ただ自らの頭を指で軽く叩き、不思議そうに首を捻った。
「アラームぐらい自分で止めれば?
真面目だねえ。」
「勝手に止めたら同期ズレるだろ。
どっかの誰かみたいに自由な家じゃないんだよ。」
ほんの一瞬、少女の目が彼を射抜いた気がしたけれど、きっとそれは夕日のせいだ。
彼女はいつもと変わらない、人を揶揄うような目で笑っているのだから。
「ごめんってば。
……けど、自由課題にはちょうど良い題材でしょ?
一緒にやろうよ。退屈はしないと思うから。」
「……考えとく。」
頭に響くチャイムを合図に、二人はその場を後にした。
子どもだけの国。
大人がいない国に、各々の思いを馳せて。
* * *
朝の淡い緑の空が透ける。
陽が上り、揺らめく光が斑らに抜けていく。
そうしてまた太陽が沈み、薄い紫が顔を見せ始めた頃、1人、また1人と教室を去っていく。
「
「おい
柘榴はその人を揶揄うような目を隠さないまま、麻陽は生真面目そうな顔を歪めたまま、そう口々に言い残すクラスメイトを見送った。
放課後の窓際の席に残っていたのは数日前と同じく、やはりこの2人だけだった。
「色々調べたけど、成果はほぼなし。
“子どもだけの国”なんて最初からなかったんだよ。」
手元のタブレットを見ながらそう告げる麻陽。
そんなものはない。わかっていた。
彼の声には、そんな諦めと、ほんの少しの安堵が滲んでいる。
横目で柘榴を見ると、その表情があまりに満足げで、思わず麻陽は眉間に皺を寄せた。
「……なに、その顔。」
「いやあ、『考えとく』なんて言っておいてこんなに調べてくれるなんて、やっぱり渡辺くんは頼りになるなあと思って。」
「……五島さんとペア組むのやめようかな……。」
「ごめんってば。
まあそうだよね、私も調べたけど、“ほぼ”収穫はなかったよ。」
「「……掲示板以外。」」
2人の視線が交差する。
好奇心と不安、そしてひとひらの期待。
互いの目に映るものは“確信”ではないけれど、何かが変わるかもしれない——そんな“予感”があった。
「それにしても、今どき掲示板って……。化石だよ化石。
しかもスレタイ?って言うの?
“子どもだけの国へようこそ”って何、ダサすぎ。」
柘榴は顔をしかめて画面を覗き込んだ。
深い夜空色の背景に、白の文字がよく映える。
まるでおとぎ話のような色合いは、彼女の輪郭をぼんやりと縁取った。
「ダサいから見つかったんだ。
文句言うな。」
「でもさー。」
「それにこの掲示板、まだ生きてる。
最後のコメント、1ヶ月前だ。」
2人が見つめる先には、《大人になりたくない》の文字が浮かんでいる。
どこかの誰かがふざけて書いたのか、それとも何かに縋りたい一心で書き込んだのか。
麻陽は目を細め、その文字に指を滑らせた。
“大人になりたくない”
“子どもだけの国”
こんな子供騙しの言葉たちのせいで、ここ数日勉強に身が入らなかった。
今さら過去の病気について調べたところで、何になるだろう——。
そんな雑念を追い払うように、麻陽は頭を振った。
ただの課題に過ぎないのだから。
そう思って再び画面に目を落とすと、真新しいコメントが書き込まれていることに気が付いた。
《子供のままでいたい。
[ユーザー名:カルタゴのリンゴ]》
このタイミングで書き込みがあるなんて、誰が予想しただろうか。
麻陽が呆気に取られていると、教室のドアを開く音が響いた。
振り返ると、先程まで隣にいたはずの柘榴が立っている。
その口元には、見覚えのある“からかい”の色。
「今日は塾、遅れないようにね〜。」
いつもの軽口を投げるだけ投げて、柘榴は教室を後にした。
ドアの閉まる音が、やけに耳に残る。
「カルタゴのリンゴ……って、ザクロの別称じゃないか……。」
——ああ、1人だけいたのか。
麻陽は窓の外へと視線を向けた。
空は、濃いラテ色が薄紫を侵食しようとしている。
もうじきに、夜が顔を見せ始める。
濃紺を夜空色と呼ぶのは、古代の空が起源らしい。
おとぎ話のような画面は現代の夜空とは似ても似つかない。
タブレットを操作してから、もう姿の見えない柘榴の後を追うように、麻陽も教室を出た。
《大人のいない世界に行きたい。
[ユーザー名:今の空]》
夜空色の背景に、白の文字が、よく映える。
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