第2話 偽りの夢見市
三限目の授業中。頭痛が限界を超えた。
ズン、ズン……と脳を叩く痛みと共に、またあの「耳鳴り」が聞こえる。
……ここにいてはいけない。
本能がそう告げていた。ただのサボりではない。何かに背中を蹴られるような焦燥感。
不快な響きを伴う痛みだ。 仮に保健室で横になっても、回復する気がしなかった。
──今日は、もうサボって帰ろう。
そう決めた瞬間、背中が少し軽くなった気がした。 三限が終わると同時に、鞄をひっつかんで教室を飛び出した。
そのとき、一瞬だけユウトと目が合ったが、俺はすぐに視線を外した。 心なしか、苦しそうに、何かを訴えかけているような顔に見えた。
バス停に着くと、タイミング良くバスが来ていた。 時間帯のせいか、車内はがらんとしている。俺は空席に沈み込むように腰を下ろした。
バスの揺れが、やけに心地よかった。
秋の日差し。対向車線を走るトラックの走行音。ありふれた日常のノイズが、意識を遠のかせていく。
……ガクンッ。
不意に、体が落ちるような浮遊感に襲われた。
まるで、座っていた椅子が唐突に消滅したような──
「……っ!?」
目を開ける。
俺は、バス停の青い木製のベンチに尻餅をついていた。
(痛って……なんだ? 寝てたのか?)
慌てて顔を上げる。だが、視界に飛び込んできた光景に、思考が凍りついた。
「……バスは?」
ない。
俺が乗っていたはずのバスも、運転手も、跡形もなく消えている。
それだけじゃない。
目の前を走る県道は、夢見市でも有数の交通量を誇る幹線道路だ。
平日だろうと、トラックや営業車がひっきりなしに行き交っているはずだ。
なのに──一台も、ない。
見渡す限りのアスファルトが、灰色の川のように静まり返っている。
慌てて周囲を見渡す。ここは駅前か?
随分と乗り過ごして、自宅のバス停はとうに通り越してしまったらしい。
終点まで眠り込んで運転手に降ろされたのだろうか。いや、そんなことが、現実にあるだろうか。
商店街の看板、信号、街路樹。完璧に"いつもの"
──だけど、何かが決定的に違う。
(……人が、いない?)
駅前も、横断歩道も、公園も──生きている人間が、誰一人としていない。 世界から人間だけが消え失せてしまったような、異様な静寂と冷たさだ。
「……嘘だろ」
俺の声が、やけに響く。 スマホを取り出すが、当然のように圏外。ネットもつながらない。 バス停前の電光掲示板には「88:88」という、意味不明な数字が点滅していた。
(ここ、夢見だよな……? でも、何かが違う)
現実の景色なのに、肌に触れる空気だけが異質だ。 まるで、夢見市の完璧なコピーの中に、俺だけが放り込まれたような感覚だった。
「……ここ、どこだよ」
誰に向けるでもなく呟き、立ち上がる。 足元には俺自身の影。光源がないのに、影は不自然に揺れていた。 頭痛は消えていたが、だるい。そして、嫌な予感しかない。
その時、ガラガラガラ──、無人のアーケードの奥から、シャッターが開く音が響いた。静まり返った街の中では、その音は轟音に等しい。
(人……だよな?)
嫌な予感が強くなる。だが、一人で路地裏をさまようのも心細すぎる。 生きている人間に出会える可能性──それだけが、今の俺にとっての命綱に思えた。 俺は吸い寄せられるように、アーケードへ一歩踏み出した。
──すると、いた。
制服姿の女の子と目が合った。 白を基調にしたセーラー服。肩口と袖には特徴的な紫のライン、胸元には揺れるリボン。
お嬢様学校として有名な綾香女学院の制服だ。 小柄で、切り揃えられた黒髪のボブが首筋を揺らしていた。
その華奢さは、まるで子猫のようで、整った顔立ちに制服がよく似合ってはいる──が、その少女はどこか異様な気配を纏っていた。
大きな瞳が一瞬だけ怯えを見せたが、すぐに冷たい無表情へと変わった。 まるで野良猫のように、不用意に踏み込めば容赦なく爪を立てる──そんな張り詰めた空気を漂わせている。
(この子……ヤバいかも)
それでも、俺は声をかけた。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……」
無言で睨まれる。反応はないが、明らかにこちらの声は届いているだろう。
「誰もいないんだけど、ここ夢見市だよね?」
少女は静かに、俺の意図を測るように目を細めた。 ──そして、ようやく彼女の唇が動く。
「……なるほど。初めて、ね。初心者」
声は静かだが、どこか愉悦にも似た響きがあった。 彼女の唇がゆるく歪んだ瞬間、周囲の空気が一変する。
少女の全身から、野生の猛獣のような殺気が放たれた。
「じゃあ、悪いけど。あなたで、ノルマを達成させてもらうわ」
風を切る鋭い音。 ──見えたのは、銀色の刃。 右手に握られた細身のナイフ。滑らかで、訓練された動きだ。
刃が、首筋に迫る。
思考より先に、体が動いた。
「退き技」。剣道で染み付いた足運びが、紙一重で刃を躱す。
(こいつ、マジかよ……!)
この女、本気で俺を殺しにきている。 間合いを取り直す彼女。足元のベルトには、すぐに抜ける位置にナイフが吊るされていた。呼吸も重心も完璧だ。
少なくとも格闘技の経験者だろう──この迷いのなさは、過去にも誰かを、いや、それ以上は考えたくない。
こっちはただの高校生だ。丸腰。頼れるのは昔の剣道の記憶で培った、身体の反応だけ。
このままじゃ死ぬと思った瞬間、脳裏に夢のあの声が響く。
『……ヨシツネ』
死にたくない。いや、死ねない。 俺が死んだら、この声の主は、誰が助けるんだ?
「……クソッ!」
俺は恐怖をねじ伏せ、無我夢中で駆け出した。今は生き残るのが先だ。 背後で足音。靴が地面を打つ正確なリズムが、恐ろしいほどに近づいてくる。
(なんなんだよ! ここはどこだよ! なんで俺が殺されかけてんだよ!)
無人のシャッター街を全力疾走。 脇腹が痛む。息が切れる。それでも足は止まらない。 視界が滲み、音が遠のく。
まるで夢の中を走っているような、現実感のない世界。 だが、肺の痛みが、これが夢ではないことを教えてくれる。 足がもつれ、転倒した。
(頼む……誰か……!)
──その瞬間、周囲の空気が大きく揺れた。 追ってきた足音がピタリと止まる。
「──やっぱりか……」
低く、息を呑むような聞き覚えのある声。
「なんでお前"も"なんだよ……」
見上げると、そこに──かつての親友ユウトが立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます