第3話

どれほどの時間が経ったのか。


絶望の中で涙が枯れ果てた頃、部屋の扉が控えめにノックされた。


「エレノア。父だ。入ってもいいか」


弱々しく、疲れ果てた父、ヴァルガス侯爵の声だった。


私がかろうじて返事をすると、父はゆっくりと入室してきた。


数日ぶりに見る父の顔は、心労でひどくやつれ、その威厳ある姿は見る影もなかった。


「……すまない、エレノア。お前がこのような目に遭っているのに、父親として何も……」


「お父様……」


父は私を責めなかった。


その優しさが、かえって私の胸を締め付けた。


彼は力なく椅子に腰掛けると、重い口を開いた。


「今朝方、王家より正式に通達があった。我がヴァルガス家は、追って沙汰があるまで、王宮への一切の出入りを禁ずる、と」


「……!」


それは、事実上の勘当だった。


王家と侯爵家は、長年にわたり国を支える両輪だったはず。


それが、たった一度の、王子の一方的な婚約破棄によって、こうもあっさりと切り捨てられるとは。


「理由は、お分かりですわね」


「……リリアン王女が、今回の騒動でひどく心を痛めておられる、そうだ。王妃様が、王女の心を乱した我らを許すおつもりはない、と」


乾いた笑いがこみ上げた。


なんと馬鹿馬鹿しい茶番だろう。


心を痛めているのは、どちらだというのか。


被害者のふりをした強奪者が手厚く保護され、すべてを奪われたこちらが罰せられる。


それが、この国の正義だというのか。


父は、さらに声を落とした。


「それだけではない。王家からの信頼を失ったことで、他の貴族たちも我らとの取引を控え始めた。領地の運営資金も、王家からの助成が差し止められた。このままでは……」


「……ヴァルガス家は、立ち行かなくなると」


父は、悔しさに顔を歪め、深く頷いた。


そうだ。


私は、私自身の悲しみや屈辱にばかり気を取られていた。


けれど、エドワード様とリリアン様が私から奪ったのは、婚約者という立場だけではなかった。


私の家族の、ヴァルガス侯爵家の未来そのものだったのだ。


彼らは、私と私の家が築き上げてきた全てを、あの可憐な王女の気まぐれのために、踏みにじった。


父が、私を庇うように言った。


「エレノア。お前は何も悪くない。これは政(まつりごと)だ。お前は……今はゆっくり休みなさい。すべて、この父が何とかする」


休む?


休んで、どうなるというの。


お父様が一人で、この理不尽な仕打ちに耐えろというの。


優しく、誠実に、王家のために尽くしてきた父が、なぜこんな屈辱を受けねばならない。


私が、おとなしく泣き寝入りしている間に、私たちの家も、領民も、すべてが奪われていく。


もう、ごめんだ。


涙が、ぴたりと止まった。


心の奥底で、何かが冷たく、硬く、研ぎ澄まされていくのを感じた。


「お父様」


私の声は、自分でも驚くほど低く、静かに響いた。


父が、はっとしたように顔を上げる。


私はベッドからゆっくりと立ち上がり、埃をかぶった鏡台の前に立った。


そこに映っていたのは、泣き腫らした赤い目をした、哀れでみすぼらしい女だった。


こんな姿、二度と晒すものか。


「エドワード様は、私を『冷たい女』と仰いましたね」


「エレノア……?何を……」


「結構ですわ。望み通りになって差し上げましょう」


私は、鏡の中の弱々しい自分を、心の底から軽蔑するように睨みつけた。


「もう、お人好しなエレノアは死にました」


優しさは、彼らにとって踏みつけるためのものだった。


誠実さは、利用するための隙でしかなかった。


ならば、私はなる。


彼らが望んだ「悪役」に。


「アンナ!」


私は、力強くベルを鳴らした。


侍女のアンナが、慌てて部屋に飛び込んでくる。


「お嬢様、ようやく……」


「私の一番派手なドレスを持ってきてちょうだい。ああ、色は、あの舞踏会の夜と同じ、深紅がいいわ。それから、すぐに湯浴みの準備を」


「え……?しかし、お体は……」


「いいから、早くして」


私の有無を言わせぬ口調に、アンナは怯えたように頷き、部屋を飛び出していった。


私は、呆然としている父に向き直った。


「お父様。王家が私たちを見捨てたのではありません。私たちがあの愚かな王家に見切りをつけるのです」


「エレノア、お前……」


「もう何も奪わせない」


私は、鏡の中の自分に、そしてこの理不尽な世界に、宣言した。


「私が、悪役令嬢になったとしても」


父は、私の目を見て息を呑んだ。


私の瞳から、絶望の色は消えていた。


代わりに宿っていたのは、すべてを焼き尽くすような、冷え冷えとした復讐の炎だった。

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