明日も冥府の篁次第。

四谷楽蜻

第1話 脳内恋歌盗難事件

昼と夜の間に、截然せつぜんたる境界線など存在しない。これはあまねく知られた事実である。されど吾輩の日常においては、その境界は六道珍皇寺ろくどうちんのうじの古井戸によって、実に律儀に、かつ阿呆らしくも明確に区切られているのである。


昼の吾輩は、小野篁おののたかむら

しがない蔵人くろうどとして大内裏だいないりの空気を吸い、同輩たちの退屈極まる出世競争や、藤原の輩が繰り出す粘着質な世間話に相槌を打つという、実に生産性のない仕事に従事している。

太陽の下で行われることなぞ、畢竟ひっきょう、その程度のものなのだ。かびの生えたような格式かくしきと、埃を被ったような前例をこねくり回し、誰もがもっともらしい顔をして己の無能を糊塗ことしている。実に、けったいな茶番劇である。


「篁卿、近頃顔色が優れぬご様子。何かお悩みでも?」

向かいの席に座る菅原の翁が、しわがれた声でそうのたまうた。

吾輩は愛想笑いという、この宮中で最も価値あるとされる技術を行使しつつ、「いやはや、秋の夜長に書を読んでおりました故少し寝不足なのであります」などと、ありきたりな嘘を返す。


吾輩が本当は何を読んでいるのか、この好々爺が知ったら腰を抜かして寿命が縮むに相違ない。

吾輩が読んでいるのは、死者の魂が最後に提出する、言い訳と後悔に満ち満ちた身上書なのであるから。


さて、夜の吾輩。

これもまた、小野篁わがはいには違いないのだが、肩書が少々変わる。冥府の庁舎において、偉大なる閻魔大王の御前で泰然自若に筆を執る冥官なのだ。

六道珍皇寺の境内、生と死の匂いが混じり合うあの古井戸を潜り抜ければ、そこはもう亡者どもの集う薄暗き世界。人の世の光が届かぬことをよいことに、誰も彼もが実に伸び伸びと己の業を語るのである。


「して、汝の罪状は?」


大王の地響きのような声が響く。吾輩の仕事は、震え上がる亡者の言い分を、歪みのない文字で記録することで舌を引っこ抜くのは専門外である。


色恋沙汰で身を滅ぼした女、欲に目が眩んで友を裏切った男、あるいは、便所で握り飯を食べていたところを不運にも見つかり、恥ずかしさのあまり卒倒して死んだ間抜け、肥溜めに落ちて死んだ間抜け、清水の舞台から飛び降りて死んだ間抜け。あんな間抜けやそんな間抜け。

そういった連中の顛末を、吾輩は淡々と紙に写していく。

昼の世界がつまらぬ茶番劇ならば、夜の世界は救いようのない喜劇である。「どちらがマシか」などという問いは、詮無せんないことだ。

熱湯風呂と氷風呂のどちらに放り込まれて火傷したいかと問うに等しい。


ある晩のこと、一件の奇妙な訴えが持ち込まれた。訴え出たのは、生前はそこそこ名の知れた歌人(自称)であったという、痩せこけた男の亡者である。

曰く、「己が詠んだ至高の恋歌れんかが頭の中から盗まれた」というのだ。


「歌が、盗まれた? 物ではあるまいし。ましてや口にも出していない、どごぞに記していた訳でもない、そんな歌が?」

吾輩がいぶかしんで問うと、男は切々と語るのである。


___生涯で一度きり、その男は東宮とうぐう主催の歌会へと招待されたらしい。そこで歌の腕を認められれば出世街道まっしぐら、薄い粟粥ともおさらばできると、男はその歌会の日まで寝る間も惜しんで、あれでもない。これでもない。と、唐の男も驚く“推敲すいこう”具合でなんとか1句完成させたのだそうだ。

あまりの出来に鼻を高くした男はその鼻ごと手柄を横取りされまいか、厚かましくも疑心暗鬼に陥った。

そのため、男はこの歌を歌会のその時まで、自分の頭の中だけで留めておくことにした。


しかしある朝目覚めると、歌会で披露するはずだった歌が脳髄からごっそりと抜き取られてしまい、待てど暮らせど思い出すことができなくなってしまったという。

歌を失った彼は、歌会にも足が向かず、もはや抜け殻同然となり、自ら命を絶ってしまい

この冥府へやって来た次第である_____と。


「と、ともかく。確かにこの頭に“何も無い”が“有る”のです!」


「実に、面妖な話であるな」

吾輩は筆を止め、腕を組んだ。頭の中から歌を盗む。なんと雅で、そしてこの上なく阿呆らしい犯罪であろうか。吾輩は呆れて空を仰いだ。

空は段々と次の頁を捲ろうと急かしてきている。



_____この冥府という場所は、時間の概念が人の世のそれとは全く異なっている。

人の世が過去から未来へと流れる縦の川と、夜から朝へと続くただただ広大で淀んだ横の沼がぶち当たってできた三角州であるならば、この冥府はその沼の奥、底の底の底である。

要するに朝から夜の時間の流れはあっても、縦の時間の流れは存在しない。

故に、墳墓から掘り起こされたような男が、チョンマゲを結ったサムライと肩を並べて順番を待ち、その隣では、ついぞ先日までヨウソウでテイトを闊歩していたはずのシンシが、ぼんやりと虚空を眺めている。


あらゆる時代の亡者が、ごった煮の鍋の具材よろしく、渾然一体こんぜんいったいとなってこの薄暗がりに漂っているのだ。実に壮観な、そして気の遠くなるような混沌である。


この混沌に秩序をもたらすため、我々冥官はそれぞれ担当する「御代」を割り振られている。

吾輩が担当するのは、この小野篁が生きた平安の世を中心とした、前後およそ百年。計二百年ほどの間に死んだ者たちである。


なぜこのような区切りがあるかと申せば、例えば、戦国の世に乱妨取らんぼうどりをおこなった雑兵ぞうひょうと、読者諸君の暮らす御代での強盗とでは、その背景にある常識や倫理観が全く異なるからに他ならない。それぞれの時代の物差しでなければ測れぬ罪を正しく裁くため、吾輩のような「時代の専門家」が必要とされるわけだ。


さて、目の前の歌人(自称)の亡者だが、彼はまごうことなき吾輩の同時代人、吾輩の担当患者だ。

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