第2話 最強メスガキV、ファミレスの「呼び出しボタン」に敗北する

その朝、俺の安眠を妨げたのは、スマホの不快な振動音だった。

 時刻は午前十時。

 深夜バイト明けの俺、**蓮見 練司(はすみ れんじ)**にとっては、まだ真夜中と言っていい時間帯だ。


 重たい瞼をこじ開け、通知画面を睨みつける。

 SNSのダイレクトメッセージが、滝のように届いていた。

 差出人名は『天音ナノ@最強新人Vtuber』。

 アイコンは、小憎たらしいドヤ顔の銀髪美少女イラストだ。


『おい、起きろ。朝だぞ、ゴミクズコーチ』

『既読つかないとか何様? 失神してるの? 生存確認が必要?』

『あと10分以内に返信なかったら、あんたの寝顔(ヨダレ付き)を全世界に拡散するから。3、2、1……』


「……あいつ、マジか」


 俺はガバッと跳ね起きた。

 数日前のネットカフェでの出来事は、悪い夢ではなかったらしい。

 俺は、あろうことか現在ネットで最も勢い(とアンチ)のある毒舌Vチューバー、天音ナノの専属コーチになってしまっていたのだ。


 俺はあくびを噛み殺しながら、送信ボタンを押した。


『起きてるよ。……で、今日はどうするんだ? オンラインで指導か?』


 即座に返信が来る。早すぎる。こいつ常時スマホ張り付いてるのか?


『は? 何言ってんの? 大事な初回のミーティングよ?』

『駅前のファミレス「ロイヤル・ホストリー」に集合。今すぐ来い。遅れたら時給マイナス5億な』

『あ、ちなみに私はもう着いてるから。遅刻したら許さない』


 ……ファミレス?

 俺は眉をひそめた。

 あいつ、リアルじゃまともに店員と喋れないコミュ障じゃなかったか?

 一抹の不安を抱えつつ、俺は着替えてアパートを出た。


 日曜の昼時のファミリーレストランは、戦場だった。

 泣き叫ぶ子供、談笑する主婦層、課題に追われる学生たち。

 喧騒の音量は、FPSの銃撃戦よりも騒がしい。

 俺は店内に入り、周囲を見渡した。

 いた。


 店の一番奥、観葉植物の影に隠れるようなボックス席。

 そこに、黒いパーカーを目深に被り、マスクで顔を完全に覆った不審人物が、背中を丸めて縮こまっていた。

 ATフィールド全開だ。周囲の客も、なんとなくその席を避けている気がする。


「……おい」


「ひゃっ……!?」


 声をかけると、彼女はビクリと肩を跳ねさせ、持っていたメニュー表を床に落としそうになった。

 マスク越しの顔が引きつり、瞳が泳ぎまくっている。


「……目立つな、お前。不審者そのものだぞ」


「う、うぅ……」


 俺が席に着くと、彼女はサッと視線を逸らし、素早くスマホを取り出した。


 目にも留まらぬ速さでフリック入力をし、画面を俺に向けた。


『遅い。亀かよ。私が待ってる間に地球が三回くらい回ったわ』

『土下座して謝るなら許してやらなくもない』


「十分前に着いたんだが? ……というか、注文は?」


 俺が聞くと、彼女の動きがピタリと止まった。

 視線が、テーブルの隅にある「呼び出しボタン」に吸い寄せられる。


 彼女の人差し指が、ボタンの上空1センチで、小刻みに痙攣するように行ったり来たりしている。

 押そうとするが、押せない。

 まるで核ミサイルの発射ボタンでも前にしているかのような緊張感だ。


「……何してるんだ? 儀式か?」


「(フルフルフルッ!)」


 彼女は涙目で首を振り、スマホを突き出してきた。


『無理! これ押したら店員さんが来る!』


「そりゃ来るだろ。呼ぶためのボタンなんだから」


『店員さんが来たら、「ご注文はお決まりですか」って聞かれる……!』


「当たり前だろ」


『そしたら……喋らなきゃいけないじゃん!

 私の声帯じゃ無理! 死ぬ!』


 ネットでは「雑魚ども!」と煽り散らかしているくせに、リアルでは「これお願いします」の一言が言えない。

 このギャップはもはや芸術的ですらある。


「はぁ……。貸せ」


 俺は代わりにボタンを押した。

 ピンポーン、という軽快な音が鳴り響く。

 その瞬間、彼女は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、メニュー表を盾のように顔の前に構えた。

 防御姿勢が完璧すぎる。


「お待たせしましたー」


 明るい声の店員がやってくる。

「アイスコーヒー一つと……お前、何にするんだ?」


「……!」


 俺が尋ねると、彼女はメニュー表の隙間から『ふわふわ卵のデミグラスオムライス』の写真を指差し、俺の袖を掴んでクイクイと必死に引っ張った。

 声は出さない。必死のジェスチャーだ。


「……と、オムライス一つで」


「かしこまりました。オムライスのサイズはいかがなさいますか?」


 想定外の質問。

 俺が彼女を見ると、彼女はパニックになっていた。


 サイズ? 聞いてない。どうしよう。S? M? L?

 彼女は混乱のあまり、俺に向かって指を一本、二本と立てては引っ込め、最終的に両手で大きな丸を作った。


「……Lサイズでいいそうです」


 店員は、俺と彼女の謎のジェスチャーを見て、微妙な表情を浮かべたが、プロの笑顔で「かしこまりました」と言って去っていった。

 店員が去っていくと、彼女はメニュー表の裏からそろりと顔を出した。

 そして、魂が抜けたようにテーブルに突っ伏した。


『死ぬかと思った……』

『店員、私のこと見てた……絶対「うわ、デブのくせにLサイズ頼んだ」って思ってた……』


 スマホに表示された文字は被害妄想全開だ。


「自意識過剰だ。向こうは仕事だぞ」


「(コクコク)」

「で、Lサイズなんて食えるのか? 結構デカいぞ」


『……ストレスで過食気味なの。文句ある?』


 彼女はプイと顔を背けた。


 オムライスが運ばれてくると、彼女はマスクを少しだけずらし、リスのように素早く頬張り始めた。

 食べている間は静かだ。黒髪ロングの、どこにでもいそうな美少女。

 俺はアイスコーヒーを飲みながら、ふと大事なことを思い出した。


「そういえば、自己紹介がまだだったな」


「……んぐっ」


 彼女がスプーンを止め、俺は改めて向き直り、口を開いた。

「俺は、蓮見 練司。24歳。……お前は?」


「……!」

 彼女の目が泳いだ。

 そして、スマホに文字を打ち込もうとするが、俺はそれを手で制した。


「契約を結ぶんだ。名前くらい、自分の口で教えてくれ。……『天音ナノ』じゃない、本当の名前だ」


 俺が真っ直ぐに見つめると、彼女はオロオロと視線を彷徨わせた。

 やがて、彼女は諦めたように、震える唇を小さく開き、声を絞り出そうとした。


「……わ、わだじ……」

「(フルフルフルッ!)」


 しかし、声は途中で詰まり、彼女はパニックに陥り、涙目でスマホを手に取った。

 そして、震える手で、学生証をテーブルの上にそろりと滑らせてきた。

 顔写真付きの学生証。そこに書かれていた名前は――。


「……一ノ瀬(いちのせ)奈乃(なの)、か」


 俺が読み上げると、彼女はフードの下で、耳まで真っ赤にして小さく頷いた。


「いい名前だな。よろしく、一ノ瀬」


 俺が言うと、彼女はさらに顔を赤くして、慌てて学生証をひったくって隠した。

 そしてスマホを叩く。


『名前で呼ぶな! 気安く呼ぶな! ナノ様って呼べ!』


「はいはい。で、ナノ様。具体的にどうなりたいんだ?」

 俺は本題に入った。

 彼女はスプーンを止め、口元のデミグラスソースをナプキンで拭った。

 そして、スマホに長文を打ち込み始めた。


『目標は一つ。来月開催されるストリーマーの祭典「レジェンド・カップ」での優勝』

『私はそこで、私をバカにした奴ら全員を見返してやりたい』


「……優勝か。大きく出たな。メンバーは?」


『……募集中』

『というか、私の悪評が広まりすぎて、誰も組んでくれない(泣)』


「自業自得だろ」

「技術だけじゃなく、メンタルと連携の矯正が必要だな」


『うぅ……分かってるよ……』


 彼女は涙目で頷いた。

 素直だ。リアルで会っている時は。

 俺は少し考えた後、条件を出した。


「いいだろう。コーチを引き受ける条件は三つだ」

 俺が指を立てると、彼女は居住まいを正した。


「一つ。俺の指示には絶対に従うこと。たとえ理不尽に思えてもだ」

「(コクッ)」


「二つ。リアルでの生活リズムを治せ。顔色が悪い。睡眠不足は反応速度を鈍らせる」

「(……コクッ)」


「三つ。……俺の前では、そのスマホでの会話を禁止する」


「……!?」


 彼女が目を見開き、激しく首を横に振った。

 無理無理無理! とジェスチャーしている。

 だが、俺は視線を外さない。


「配信中はキャラを作っててもいい。だが、俺との連携を深めるなら、自分の口で意思を伝えるリハビリが必要だ。……まずは『イエス』『ノー』だけでもいい。声を出せ」


 やがて、彼女は諦めたように肩を落とした。

 そして。


「……ぁ……」


「ん?」


「……わ、わか……り、ました……」

 消え入りそうな声。

 鈴を転がすような、しかし壊れ物を扱うような繊細な声だった。


「よし、契約成立だ。……で、報酬の話だが」

 俺が切り出すと、彼女は待ってましたとばかりにスマホを突き出してきた。


「……おい、さっき禁止だって言っただろ」

 俺が呆れて指摘すると、彼女は「あ!」と動きを止めた。

 だが、どうしても見せたい画面があるらしく、涙目でプルプルとスマホを揺らしている。


「……はぁ。今回だけだ。見せてみろ」

 俺が許可すると、彼女はパァっと顔を輝かせ、画面を突きつけてきた。


『とりあえず、手付金として100万振り込んだ』


「……は?」


 俺は目を疑った。100円じゃない。100万だ。


『口座番号は特定済みだから。足りなかったら言って』


 俺は震える手で自分のスマホを取り出し、銀行アプリを確認した。

 本当に、桁が一つ増えている。

 俺のバイト代の半年分が、この少女の指先一つで送金されていた。


(……こいつ、金銭感覚もバグってやがる)


 オムライスの注文もできないくせに、札束で殴ることだけは躊躇がない。

 このアンバランスさが、彼女の「歪み」であり「武器」なのだろう。


「……時給は弾むんだろうな、クソガキ」


『当然でしょ!』


彼女はニカッと笑った。

 だが、すぐに耳まで真っ赤にして、パーカーのフードをさらに深く被り直した。

 そしてテーブルの下で、こっそりとスマホを操作して、もう一度俺に見せてきた。


『今の「契約成立」って言葉、録音したからね! もう逃げられないわよ! 私の下僕として、死ぬ気で働きなさい!』


……金で解決したかと思えば、今度はしょうもない脅しだ。

 俺は苦笑しつつ、残りのコーヒーを飲み干した。

 前途多難だな、こりゃ。


 





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