ボーダーコリーと49日

さかたいった

ボーダーコリーと49日

ボーダーコリーと49日――7日目

日記


〝人を殺したいほど憎いと思ったのは初めてだ。

 穏やかに生きてきたつもりだった。

 普通という尺からつかず離れず生きてきたつもりだった。

 なのにこんな。

 こんな激しく暴力的な感情が自分の中から湧いてくるなんて。

 思ってもみなかった。

 行き場を失ったこの感情を、どうしたらいいの?

 何がいけなかったのだろう?

 夫は慰めの言葉をかけてくれる。

 でも本心では違うのだ。

 誰もがわたしのことを蔑んでいる。

 呆れている。

 もう誰もわたしを見ていない。

 忘れたいと思っている。

 目に入らない。

 塵のようにわたしは価値を失った。

 わたしは今先の見えない暗闇で、綱渡りをしている。

 いつ左右に落ちてもおかしくない。

 闇がわたしを誘っている。

 おいで。

  おいで。

   おいで。と〟




 日暮れの街は雨が降っていた。

 道行く人はみな傘を差し、帰路を急いでいる。一見憂鬱な顔をしていても、その先には帰るべき場所が待っている。

 温かで、愛に溢れた。

 私には、無い。

 傘も差さず雨に濡れる私は、まるでホラー映画に出てくる幽霊さながらだ。濡れた髪が垂れ下がり、ポタポタと滴をしたたらせている。

 もうどうだっていいのだ。

 このまま街を彷徨い続ける亡霊にでもなればいい。

 雨粒が地面にぶつかり弾け飛んでいる。聴こえるのは雨音と車道を走る車のエンジン音、タイヤが水溜まりを押し流す音。道沿いにある店舗は明るい看板で微かに私を照らしている。井戸の縁から這い出てくるような格好の私を。

 体に降りかかる雨は冷たいはずなのに、今の私はその冷たさすら感じることができない。心をどこかへ置き忘れてしまった。

 魂の抜け殻だ。

 どこへ向かえばいいのかもわからない。

 巻かれたゼンマイが止まるまで、ただ歩き続けるだけ。

 歩き、続ける。

 歩き。

 ……。


 もう、いいか。

 ここでやめてしまっても。

 わたしはがっくりと濡れた地面に膝をついた。

 背中を丸めて。

 もうここで死んでしまいたい。

 このまま水のように流されて。


 キャン! キャン!


 その時甲高い音が響いた。

 キャン! キャン!

 動物の鳴き声だ。

 私はもう上げることはないと思った顔を上げた。音の鳴ったほうに目を向けると、すぐそこにペットショップがあった。

 キャン! キャン!

 甲高い鳴き声はそのペットショップの中から響いている。

 私は無意識のうちに立ち上がった。ゼンマイは止まったはずなのに、何かが私を突き動かしている。

 店の外から中を覗いた。入口はガラス張りで、ケージの積まれた内装が見える。犬と猫のお店だ。

 キャン! キャン!

 産声を上げるかのようなその誰かさんは鳴き止まない。私はいても立ってもいられなくなり、入り口のドアを開けて店に突入した。

 雨降りの夜とは世界の違う、明るい店内。木目の温かみのある床。壁際には三段の犬のケージが横に並んでいる。その一つのケージの前で、エプロンをつけた女性の店員が宥めるような声をかけていた。ケージの中に鳴き声の主がいる。白黒のその声の主は、狂ったように回転し飛び跳ねながら叫び続けている。

 私は鳴き声を上げ続けるその子犬に吸い寄せられた。店員と犬との間に黙って割り込んでいく。店員は突然視界に入り込んできた雨でずぶ濡れ状態の私の有り様を目にし、短い悲鳴を上げて飛び退いた。

 私はしゃがんでケージの中にいる子犬と目線を合わせた。

 子犬が鳴き止んで、私を見た。

 子犬の顔の左右は黒く、中央に白い筋が通っている。大きな葉っぱのような黒い耳。マッシュルームを二つ合わせたような形の鼻も黒く、その周りは白い。

 そして、聡明そうな感情のこもった灰色の瞳が私を見つめていた。

 私はケージのガラスに両手をつき、ぎりぎりまで子犬に顔を近づけた。

 まるでふかふかのぬいぐるみのようなそれはじっと私を見つめている。

 その子犬と出会った私の体の中で、じわっと熱いものが広がり出した。

 急におとなしくなった子犬は私に何か言いたげな表情に見える。言葉にできないもどかしさが伝わってくる。

 私は愛おしさが込み上げてきた。

「あの、お客様」

 慎重に声をかけてくる店員の声も耳に入らない。

 今世界には私とこの子しかいなかった。

 私はもう決めていた。

 絶対にこの子を飼うと。

 今の私にとって、それが全てだ。

 子犬は小さく首を傾げて不思議そうに私を眺めている。

 私は今すぐこのケージから子犬を出して連れ帰りたい衝動に駆られた。こんな売り物みたいに展示されているなんて可哀想だ。だけどそうすると私は通報され、この子を幸せにすることはできないだろう。まだそんな理性も残っている。

 ケージの隅にタブレットが設置され、この子犬の情報が表示されていた。犬種はボーダーコリー。成長すると大きくなる犬種だ。生後二ヶ月ほど。性別は男の子だ。価格が表示されていることに私は嫌悪感を抱いた。この子に値段をつけるなんて。

「お客様、大丈夫ですか?」

 髪先から雨のしずくをポタポタ床に垂らしている私の様子を怪訝に思い、店員が声をかけてくる。確かにこの状態ではこの子の親として相応しくない。私は前髪をかき上げてせめてもの体裁を取り繕った。

「すみません。ちょっとこの子に夢中になってしまって」

「ボーダーコリーの子ですね。可愛いけど、すごくやんちゃですよ。さっきも急に鳴き声を上げ始めて」

「私を呼んでいただけですよ」

「えっ?」

「この子に触れることってできますか?」

「あ、はい。可能です」

 私は店員にお願いして、ケージの扉を開けてもらった。

 すると私が手を伸ばすのも待たずして子犬が私の胸に勢いよく飛び込んできた。私はふかふかで温かなそれを胸に抱く。


 涙が流れた。

 それは私が求めていた温もりだった。

 子犬は私の腕の中で想いを伝えるようにキャンキャンと鳴いた。

 私の叶わなかった夢。

 それが今、ここにある。

 体の芯の部分が疼いた。

 私は子犬を優しく、愛情を込めて抱いた。

 温かい。

 そう。

 温かい。

 この子は生きている。

 生きて、私に会いに来てくれた。

「ありがとう。ありがとう」

 私は泣きながら子犬に感謝の言葉をかけた。

「ありがとう」

 子犬はクゥーンと切なげに唸った。

「愛してる」




 家に帰宅してしばらく経った後、夫の敏雄としおが仕事から帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま」

 敏雄は私と目を合わせた後、気が退けるように視線を逸らせた。無意識の動作だと思うが、私は見逃さなかった。心理的に私に近づきたくないと思っている。

 敏雄は私と同じ三十二歳。学生の時からの知り合いで、仲間内で何度も会っているうちに仲良くなり、お付き合いを経て結婚した。

「さっちゃん、体は大丈夫?」

 敏雄がスーツの上着を脱ぎながら尋ねてきた。さっちゃんは私の名前の皐月さつきをもじったあだ名だ。

「ねえこれ見て」

 私は夫の問いかけを無視してスマートフォンの画面を見せた。そこにはペットショップで出会ったボーダーコリーの子犬の写真が映っている。

「犬? どうしたの?」

「飼うの」

「えっ?」

「もう契約までしてきた。本当は今日すぐに連れてきたかったんだけど、まだ何も準備できてないから。お迎えは一週間後に」

 今こうして家にいる間も、私はあのボーダーコリーの子が気がかりだった。ちゃんとご飯を食べているだろうか。ちゃんと眠れているだろうか。店員にペットショップで寝泊まりしていいかと尋ねたが、さすがに断られてしまった。

「ちょっと待って。犬飼うって。どうしていきなり」

「運命だって感じたの。この子に出会ったのが」

「僕に相談もなしに」

「あなただってきっと好きになると思う」

 夫の拒絶反応はもっともだし、予想もしていた。だけど私は譲る気はなかった。他の何を差し置いてもこれだけは譲れない。たとえ離婚したとしても。

「さっちゃんの気持ちはわかるよ。だけど急すぎる」

 いいや、あなたに私の気持ちなんてわからない。

 あなたは見ていただけ。

 傍観していただけ。

 当事者は私。

 私の苦しみを、悲しみを、あなたは知らない。

 あなたたちは私を道具だとでも思っている。

 私にはそれがわかる。

 私の想いはあなたにはわからない。

 わかろうとしないから。

 共感するふりをしているだけ。

 そのごっこ遊びはもううんざりなの。

 だから私は何を言われようと貫き通す。

 あの子を育てるって決めたの。



◇◇◇



 鬼火が宙を彷徨っている。

 行き先がわからず右往左往。

 成し遂げられなかったことがある。

 伝えられなかったことがある。

 このままでは行くに行けない。

 彷徨い続けて、消えてしまう。

 そうなる前に。

 伝えなければ。

 鬼火が宙を彷徨っている。

 進むべき道がわからず、迷い続けた。

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