16-縫い付けられた、見えない勲章
深夜一時。
リビングの時計の秒針だけが、静寂を刻んでいる。
俺はダイニングテーブルに書類を広げ、明日のプレゼン資料の最終確認をしていた。
重要な案件だ。失敗は許されない。かつてマウンドで感じていた、胃が冷たくなるようなプレッシャーが、スーツの上から俺を締め付けている。
「……よし、これでロジックに穴はないはずだ」
独り言を呟き、大きく伸びをする。ふと、脱ぎ捨ててハンガーに掛けてあった明日のワイシャツに目が止まった。
袖のボタンが一つ、緩んで糸が飛び出している。
「うわ……。このタイミングでか」
裁縫道具を出そうと立ち上がった時、寝室のドアが静かに開き、美咲が目を擦りながら出てきた。
「啓太さん……? まだ起きてたの?」
「ああ、ごめん。起こしてしまったかな」
「ううん、お水飲みに来ただけ。……あら、そのシャツ」
美咲は俺の手にあるシャツに気づくと、ふわりと笑った。
「貸して。私がやるわ」
「いいよ、明日も早いだろうし。自分でやるから」
「いいの。啓太さんが戦うための戦闘服でしょう? メンテナンスはマネージャーの仕事よ」
美咲は俺の手からシャツを優しく奪うと、手慣れた手つきで針に糸を通し始めた。
ソファに座り、チク、チク、とリズム良く針を動かす彼女の横顔。ダウンライトの柔らかな光が、彼女の長い睫毛に影を落としている。
俺はその光景を、息をするのも忘れて見つめていた。
高校時代、俺はマウンドで常に孤独だった。勝つも負けるも俺の責任。誰にも頼れないと思っていた。
でも今は違う。
俺が社会という荒波で擦り切れそうになっても、家に帰れば、こうして綻びを縫い合わせ、整えてくれる人がいる。
「……できた」
美咲が糸を切り、少し誇らしげにシャツを広げた。
ボタンは新品の時よりも頑丈に、そして丁寧に縫い付けられていた。
「啓太さん。明日のプレゼン、大丈夫よ」
「え?」
「だって、今の啓太さんの背中、とっても頼もしかったもの。……それに、このボタンには私の『念』も込めておいたから、絶対に取れないわ」
悪戯っぽく笑う彼女を見て、俺の胸の中にあった冷たい鉛の塊が、温かなスープのように溶けていくのが分かった。
「……ありがとう、美咲」
「ふふ、どういたしまして。さ、早く寝ましょうエースくん」
翌日。プレゼンの直前、俺は袖口のボタンにそっと触れた。
指先に伝わる硬い感触と、その裏にある妻の温もり。
それは誰にも見えないけれど、どんなトロフィーよりも俺を強くしてくれる、世界でたった一つの勲章だった。
俺は深く息を吸い込み、会議室のドアを開けた。
一人じゃない。俺には、最強の帰る場所があるのだから。
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